17
(16より続く)
「じゃ、まずプレリュードから」
そう言ってぼくは7番のプレリュードを弾く。たった17小節のあの曲だ。
「なぜに、ノーペダル?モーツァルトじゃないのよ」
「ここがペダルを踏むところ、ここはペダルを離すところ。楽譜にそう書いてあるんだからそう弾かなきゃ」
百合香は指でペダル記号を指ししめす。
「小学校のころはペダルに足が届かなかったんだ」
「今は届くでしょ、何を甘えたこと言ってるの」
グレン・グールド風のショパンの目論見は、冒頭から挫折してしまった。それでも、ペダルのきらいなぼくは、点描画のように、音の一点にペダルをのせ、すぐに離すようにしたが、百合香はそれについては何も言わなかった。
ワルツやマズルカ、ノクターンまで弾いた時点での彼女の感想は「ショパンらしくない。立体感がない」というものだった。
「ショパンらしくないのは、テンポの揺れ、ルバートがないから。これは是非が分かれるところだけど、立体感がないのは曲の多面性を理解していないからね。たとえば、嬰ハ短調のワルツはこんな風に弾けるの」
そう言って、彼女は今ぼくが弾いたばかりのメロディーを弾き始める。立ち上がりは大して変わりないように見えたが、繰り返し部分からフレーズの最初の音だけ強調したり、内声部を強く弾いて浮き立たせたりして、聞いたことのないメロディーを次々に響かせる。そうか、魔法の正体はこの隠れたメロディーだったのか。
「面白いでしょ。でも、これは私の発見ではなくて、シプリアン・カツァリスというピアニストが弾いた通りに弾いただけなんだけどね。楽譜に書かれた音楽の本当の姿はたった一つではなく、いくらでも角度を変えて表現できるということね。雨だれの場合も、内声部が和音の中に隠れて、即物的な演奏になってしまっているの。解釈云々は別にして、誰の目明らかな部分だけでもきちんと分離しないとね」
そして、彼女の言葉がいちだんと厳しくなったのは、「革命のエチュード」だった。
「そこ右手のリズムごまかしてるでしょ。ここ3と書いてあるから三連符。ここからここまでのリズムの取り方、全部駄目」
「ポリリズムだ」
「今まで気づかなかったの?やれやれ」
それから30分ばかりパート練習をして、なんとか革命のエチュードはOKが出たのだった。
その次の英雄ポロネーズを彼女は演奏させようとはしなかった。あまりにツッコミどころが多く収拾がつかないと思ったのか。それとも、ターゲットをポリリズムの克服一つに絞ったのか。
「さあ、幻想即興曲」
「ですね」
「弾けば」
「弾けません」
「それは思い込みよ、脳がそれまでの習慣にこだわってさぼりたがっているだけ。だから身体を先行させないと駄目なの」
ぼくは弾き始めようとする。だが、5小節目で左手のアルペジオを動かそうとすると、右手の主旋律がストップする。右手を動かそうとすると最初の音以外左手がストップする。合わない歯車がかみあったみたいにストップしてしまうのだ。百合香は呆れた顔をしてくすりと笑った。
「重症ね。じゃ、片手ずつ練習しましょうか」
すると片手だと、右手も、左手も驚くほどスムーズでスピーディな動きを見せるのだ。この右手と左手の動きがモンタージュできればいいのに、どうして合成できないのだろう。
「まじめすぎるのよね。左手なんて適当でいいのよ。前後関係が多少ずれたって。もちろん本当はよくないけど、そのうち正しくなるから。最初は左手のリズムはいい加減でいいから、それできないかな?」
『幻想即興曲』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15,16,17,18
『ペーパーリレーション』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,11-12,13-14,15,16-17, 18, 19
『ホワイトラブ』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19