幻想即興曲
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クラシック音楽の思い出は、3歳のころのオルゴールまでさかのぼる。水車の形をしたオルゴール時計の音を聞くと、僕は涙は止まらなくなった。なぜか舟で分かれて去ってゆく人の姿が見えた。しかし、その人たちが誰だったかは顔がぼんやりしてわからなかった。その曲が、ショパンの「幻想即興曲」であると聞いたのは、後になってからだった。「幻想即興曲」という言葉自体が、いつの間にか、ベルリオーズの「幻想交響曲」とごっちゃになっていたが、長大な「幻想交響曲」にはどこを探してもそんなメロディーはなかった。それが正しく心の中で整理されるには、さらに後のことだった。
ピアノを習い始めたのは、小学校1年のころだった。母の友人のピアノ教師のもとに預けられ、バイエルからツェルニーへ、さらにソナチネアルバム、ソナタアルバムまで進んだところで小学校生活が終わりを告げ、ピアノのレッスンへも通わなくなった。6年間も時間をかけた割には、あまり進まなかったのは、家でほとんど練習しなかったからだ。小学生の男の子には、学校の勉強はさておき、ゲームに漫画、テレビアニメと、やらなければいけないことがたくさんあったのだ。それでも、年に一度の発表会には、教室に男子が少なかったせいか、必ず何かを弾かされた。それも随分後の方だった。
小学校の4年から6年にかけては、モーツァルトばかり弾いていた。ロンドニ長調、ピアノソナタイ短調K311第一楽章、そしてキラキラ星変奏曲の順だったと思う。どれも、中級程度の難しさの割に、演奏効果が高く、いかにもモーツァルトらしいメロディーが気に入っていた。ベートーヴェンは「エリーゼのために」と「月光」の第一楽章とか、「悲愴」の第二楽章とか、有名な部分を単独で弾く程度だった。
小学校卒業とともにぼくがピアノを止めようとしたとき、女教師は、それまで練習不足をなじることはあっても、一度も褒めたことがなかったのに、惜しいわ、やめないでと懇願した。あなたは耳がいいし、あなたの音は、特別なのよ。そんな音の持ち主は他にうちの教室にはいないわとまで言ったのだ。ぼくは、ピアノは女の子が弾くものという学校のクラスの男子の視線に耐えがたいものを感じていたし、練習熱心な女子がずっと先で、ショパンやリストを弾いているのを見て、なんだか彼女たちと追いかけっこするのも疲れる気がした。ウサギと亀の競争で、ようやく昼寝から覚めたウサギは亀に追いつくだろうか。いや、そもそもぼくがウサギであるある理由はどこにもない。昼寝から覚めた亀は昼寝をすることのないウサギに追いつくことはない。それが真実だ。そんな風にして僕はピアノに別れを告げたのだ。
ピアノのレッスンに別れを告げたぼくは、地元の中学に入るとテニス部に入った。しかし、長続きしなかった。なんとなく右手ばかり使う動きが気持ち悪かったのだ。これでは左右不均衡な体形になってしまう。筋肉への負荷がシンメトリーではないのだ。たまたま図書館で読んだある高名な空手家の文章にも、野球は左右対称でないから亡国のスポーツだと大胆な意見が述べられていた。この論法でゆくとテニスもまた亡国のスポーツなのだろう。試しに交互にラケットを右手と左手で持ち替えながらプレイしてみたこともある。だが、先輩からふざけるなと怒鳴られただけだった。そんなわけで、テニス部は一年でやめ、中学2年からはサッカー部に入ることになった。サッカーは足しか使わない。だからバスケットボールやバレーボールみたいに指や手首を痛めることもないだろう。そんな目論見は見事に外れた。他に、誰もなり手がいなかったために、ぼくはゴールキーパーをやるはめになったのだ。光希、お前足遅いからとみんなは言った。小学校時代にまともにスポーツをやらなかったツケが出たのだからしょうがない。それでも、ぼくは中学3年どころか、高校3年の春まで、サッカーとゴールキーパーをやり続けた。最初何度か突き指をしたが、しだいに指を痛めることは少なくなった。クラスで一番小さかったぼくの身長も、人並みに伸び、170センチに何とか届くあたりでストップした。
実を言うと、ピアノは独学で続けていたが、新しいレパートリーを開拓することはなかった。日曜日になると習いかじったモーツァルトとバッハとヘンデル、それにほんの少しのベートーヴェンを弾き続けていた。ピアノの練習は一日休むと元に戻すのに一日かかると言う。このペースではどんどんと決して上達しない。自分のピアノが小学校のころよりも下手だと感じたのだった。近所の音大生が、毎日一回ハノンを最初から最後までおさらいすると言うのを聞いたぼくは、毎週日曜日だけ、モーツァルトやヘンデルを弾く傍ら、ハノンの1番から100番まで弾き続けることにしたのだった。たとえ週一回でも、機械的な訓練をやり続けることで、指の動きは格段になめらかで軽快になった。ぼくにとってピアノは、どちらかというと腕立て伏せや腹筋、スクワットのようなエクササイズに属していた。なめらかなピアノの動きは、頭の働きを軽快にする。学校の勉強にもよい影響を与えるようで、数学や物理も同じようなリズムで解くことができた。本が好きだったので、国語は得意だったが、英語は苦手だった。しかし、数学と理科で点数を稼ぐことで、ぼくは都内の大学の工学部に現役で合格することができた。
工学部の講義と演習、ゼミの間で、もっぱら家庭教師のアルバイトをして稼いでいた。しかし、数学を教わりたいという高校生は少なく、英語が苦手という生徒ばかりが当たり、散々苦労した。それでも、いつしか高校入試程度の英語は空で教えることができるようになり、単語や文法などの暗記事項を増やしてゆくと、大学入試問題まで教えられるようになった。塾講師とあわせて月の収入は10万円を越え、親の扶養控除が得られる限度を超えそうになったが、ときどき休みをとることで、ぎりぎり限度内に抑えた。それ以上稼ぐくらいなら、もっと勉強しろが、ふだんは口うるさくない父親の厳命だった。
(2に続く)
『幻想即興曲』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15,16,17,18
『ペーパーリレーション』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,11-12,13-14,15,16-17, 18, 19
『ホワイトラブ』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19
この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関わりありません。
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