7
(6より続く)
「急にピアノ弾きだして、どういう風の吹き回しなの。そんなに熱心になるのだったら、小学校のころちゃんと練習すればよかったのに。あのころは、本当に練習しなかったわね。あなた」
すべてを知った上で、からかうように母は言った。
「あのころはショパンは女々しいと思ってたから」
「大学は休みだからいくら弾いてもいいけど、夜はご近所に迷惑かかるから練習は9時までにしてちょうだい」
「秘密兵器を買うことにしたから大丈夫」
「何?」
「デジタルピアノ、それも台のないやつ。それなら一人で運べるし、3万円くらいで買える」
「どうせ買うなら後々まで使える高いのにしなさいよ」
「高いのは一体型だけど、そういうのは30キロ以上あって一人で運ぼうとするとギックリ腰になってしまう。台のないやつならメーカーにもよるけど10キロ前後だから、一人でも楽勝で運べる」
「ふうん。お金は大丈夫なのね」
「通販の引き落としの前に、アルバイトの入金があるから」
「百合香ちゃんとこで買ってあげればいいのに」
「まあ、あそこはちゃんとピアノの形をしたやつしか置いてないから」
口実だった。楽譜は義理を感じて買ったものの、さすがにデジタルピアノの購入は秘中の秘。今はまだ手の内を明かすわけにはゆかないのだ。
次のターゲットは、プレリュード15番の雨だれと、ノクターン2番だった。この二曲はA~Fまでの6段階で難易度Eくらいになっているけれど、実はC程度の難易度しかなく、かなり攻略しやすい曲である。というのも、速いスケール(音階)を含んだパッセージはまったくないので、親指をくぐらせる必要もほとんどないからだ。また、テンポが遅いだけで、曲の難易度は格段に下がる。難しいのは、読譜や解釈だけということになる。もちろん技術的な課題がないわけではない。ノクターン2番の場合、左手の跳躍だ。ほとんどワルツのテンポで、左手は動き続けるが、右手はそれに合わせることなく、のんびり歌を歌っている。それが8分の12拍子の意味だ。右手には装飾音をともなった細かい音の動きがあるが、他のノクターンのように長大なものではないので、ピアニッシモで一気に坂道ダッシュを駆け上がったり駆け下りたりする必要がない。だから最後までのんびりと血圧を上げることなく弾くことができるのである。
プレリュード15番の雨だれは、前半あまりの易しさにのけぞってしまった。左手は二つのことを同時にやろうとしているようで、実は交互にしか動いていないし、手のポジションもほぼ固定したままで指を倒すとそこに楽譜に書かれた音があるという風に、自然な指の動きに沿って書かれている。だから、手が小さいという人以外、この曲の前半が難しいと感じることはありそうもないことである。問題は、中盤以降右手に内声部が含まれることだ。こんなのは和音で弾いてしまい、後で徐々に分離するに任せればよいと思っていると、また声が聞こえた。
―片方の手のパートを取り出した上で、さらに二つ以上の声部が重なる場合、二つに分離して練習してみることも大切。場合によっては、右手のパートの一部の音を左手を使って弾いてもいいわ。その方が、意識的に分離できて、耳も覚えやすいから。でも雨だれでそれを行おうとすると、オクターブを打ち続ける右手の間に左手が割り込んで、和音を弾くことになり、決して自然な動きにはならない。だから分離の感覚を耳が覚えると、右手だけの練習に戻したのだった。
その日のうちには、ノクターン2番とプレリュード15番は何とか弾けるようになっていた。後は毎日二、三回ずつ繰り返せば、暗譜もできるだろうし、大勢観客がいるわけでもないので、暗譜できなくても問題はない。どこまで、自然でなめらかに聞こえるかの方が問題だ。
これで5曲。残るは9曲。
(8へ続く)
『幻想即興曲』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15,16,17,18
『ペーパーリレーション』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,11-12,13-14,15,16-17, 18, 19
『ホワイトラブ』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19
この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関わりありません。
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