14
(13より続く)
ちょうどそのころ、百合香から携帯に電話がかかってきた。
「昨日帰って来たの。しばらくこっちでゆっくりできるから。その後ピアノどう?」
「まあ、何とか14曲中13曲まではクリアできた。あと1曲」
「ふうん、幻想即興曲が残っているのね」
「どうしてわかるの」
「コウのお母さんに聞いたから。面白いお母さんね。『赤い激流』のDVDを英雄ポロネーズ練習する時期にわざとかけたりして」
「やっぱりわざとなのか」
「でも、私は好きよ」
「なんでも筒抜けなんだね」
「まあ、親同士が友達って、そういう厄介なところもあるからあきらめるしかないわね。でも、大丈夫かな。幻想即興曲」
「なんとかなるんじゃない、ここまで13曲弾けたんだから」
「でも、コウのピアノには致命的な欠点があってね」
「致命的な欠点って何?」
「今にわかるわ。じゃあ、あと3日頑張って」
そう言って百合香は、電話を切ってしまった。何だ、致命的な欠点って。星飛雄馬の致命的な欠点は、球質の軽いことだった。大リーグボール養成ギブスで締め付け、身体の骨格や筋肉の伸びやかな伸長を抑制した結果、生じた球質が軽いという欠点はその後飛雄馬を苦しめ続けることとなる。その弱点を逆手に取った大リーグボール1号を開発するその日まで。
百合香のいう致命的な欠点とは、古典派の基本を押さえた程度のぼくのピアノの実力で、急にロマン派の応用までたった一月でカバーしようとした結果、必然的に生じてしまうのかもしれなかった。とにかく、今さら後戻りはできない。前に進めだ。
そして、ぼくは幻想即興曲の楽譜とともにデジタルピアノの前に座っていた。そしていきなり両手で弾こうとする。だが、おかしい。左手が動かない。5小節目あたりから右手を素早く動かそうとするとどういうわけか左手がストップしてしまうのである。何度やっても同じ結果だ。
よく見ると、左手は8分音符が六つ並んでいるのではなく、三連符が二つ並んでいるのである。しかし、その間に右手は16分音符八つ分の音符と休符がある。一小節中の音符の数はというと、左手は12個に対し、右は16個である。12と16の最小公倍数はというと48だ。
右手は一小節の0/48 3/48,6/48 9/48 12/48 15/48 18/48 21/48 24/48 27/48 30/48 33/48 36/48 39/48 42/48 45/48のタイミングで音を刻み、左手は0/48,4/48, 8/48,12/48 16/48 20/48 24/48 28/48 32/48 36/48 40/48 44/48のタイミングで音を刻むことになる。四分の四拍子の曲だから四角で囲んだ1拍ごとに左手と右手の音は一致する。さらに左手単独の動きを( )に入れて二つの手の動きを合体させるとこうなる。
0/48,3/48,(4/48),6/48,(8/48),9/48,12/48,15/48,(16/48),18/48,(20/48),21/48,24/48,27/48,(28/48),30/48,(32/48),33/48,36/48 39/48,(40/44),42/48,(44/48),45/48
問題はこの分子部分が等差数列ではないことである。それぞれの項の差を順に計算すると、3、1、2、2、1、3、1、2、2、1を繰り返すことになるのである。一小節を48等分して、目盛り3で右を動かし、目盛り4で左手を動かし、目盛り6で右手を動かし、目盛り8で左手を動かし、目盛り9で右手を動かし、目盛り12で両手を動かすという動作を繰り返せばよいのである。頭ではそう理解できるが、ではそのようなタイミングで、順に左右の指で音を奏でようとするとわけがわからなくなるのだった。
これでは先へ進めない。片手ずつ練習することにしよう。左手はドソドミドソのように、三音上がって二音下がる分散和音の繰り返しにすぎない。楽譜さえ見れば、普通初見で弾ける音である。だから暗譜できるくらいにまで慣れたら、ひたすら右手の音がなめらかにスピーディに弾けるようになるよう訓練するしかないのだ。
この曲もA―B―A´という複合三部形式で、AとA´の部分はほとんど同じだからひたすらAだけを練習すればいい。中間部Bのメロディーもまた初見で弾けるほどに簡単なのである。
半日がかりの苦闘の後、右手の動きが滑らかでスピーディになり、片手だけなら暗譜できたと思ったので、左手を添えて動かそうとすると、やはり途中まで来るとストップしてしまう。右手だけ、左手だけなら弾けるのになぜ?ぼくは頭を抱えてしまった。
他の誰にも聞こえないのをいいことに、両手のひらで、鍵盤を強打する。耳にガンガン響いただけだった。
「わかったよ。致命的な欠点が」
ぼくは村野百合香に電話した。
「そう。ポリリズムの壁が越えられないのね」
「ポリリズム?あ、複数のリズムってことか」
「そう、曲を構成する二つの声部が異なるリズムを持っていること」
「どうすればいいの?」
「家へ来ればなんとかしてあげないでもないわ。あ、家って前の家ではなくて新しい家の方ね」
村野家は、以前の家が手狭になったために、広い豪邸に引っ越したという話だった。おまけに父の事務所がその設計を手がけたらしいのである。
「あそこって結構辺鄙じゃない。徒歩だと汗だくだし、自転車でもきついし」
「心配しなくても、大丈夫。今日は遅いから、明日でも家の前で待ってて。時間はいつごろがいい?」
「うーん、お昼は家で食べて、その後だから2時くらいがいいかな」
「わかった。2時に楽譜とか必要なもの持って待ってて」
(15へ続く)
『幻想即興曲』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15,16,17,18
『ペーパーリレーション』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,11-12,13-14,15,16-17, 18, 19
『ホワイトラブ』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19
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