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まぁ何とかなるさ!

人は極端を好みがち

2023-02-18 10:17:39 | 歴史

釈尊の「苦行に意味はない」についてつらつら考えていますが、そもそも釈尊はなぜ苦行という普通に考えてみればしたくもないことをわざわざするようになったか・・・

もともと釈迦の名前はゴーダマ・シッダールタといい、インドのとある国の王子でした。何不自由のない暮らしが出来るように環境を整えてもらい、家族にも恵まれて現代風に言えば親ガチャ勝ち組だったわけです。そんな釈尊が生きる、老いる、病を患う、挙句の果てに死ぬという人間の逃れられない苦しみを見たときに、楽しく暮らしていてもやがては虚しさに囚われる運命にあることに気づいてそれらを超越した境地を得ようと苦行に入るわけです。

つまり苦しいことから目を背けて楽しみばかり追い求めても、人間の欲望にはきりがない。飢えの苦しみから逃れたら他に欲しいものが出てきて苦しむし、物質的に満たされるなら次は精神的な苦痛の種を人は見出だすであろう。だったら欲望から目を背けるべく苦行に打ち込もうとしたのかもしれません。

 

しかし苦しみに向かって行っても何も得られない。ほとほと疲れ切った釈尊が悩んでいるそばで竪琴の調律師が弟子に「弦は緩みすぎても締めすぎてもいい音が出ない」と教えるところを耳にして、快楽にふけって弦を緩めすぎても虚しさが募り苦行に打ち込んで弦を締めすぎても何も得られないことを知り、いい思いをしてやろうとか苦しいのを頑張りぬこうとか言った我から発する思いの呪縛を断つべくひたすら菩提樹の下に座り続けて悟りを得るわけですね。

 

偏ったバネを揺らさずに程よい位置に止めることが難しいように人の考えは極端に偏りがち。ましてや人間の集団となると世の中の歪を正そうとして反対方向への歪へとひた走る。個々人では何か変だと感じても集団の動きは止められない。

 

ほどほどが一番と思いつつ、極端に走ることを止められないのは私が悟りに程遠い俗人だからなんでしょうw

 


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