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語族で見ればどうなのか

2023-10-29 11:21:18 | 歴史

またまた杉田水脈さんが叩かれてるみたいですけど、この人に抱く感想と言えば「馬鹿に付ける薬はない」でしょうね(笑)

それはともかくとして、このバカを擁護する言論の中に「そもそもアイヌ民族は存在しない」なんてのがありましたけど、アイヌ民族は確かに存在するでしょう。言語で見れば日本語とアイヌ語は別の系列の言語です。

また、アイヌ人が文字を持っていないことなどをもって文化や宗教が低レベルなどとのたまう向きもありますが、シャーマニズムだって立派な宗教であり自分の信仰を他人様にバカにされる謂れは無いはずです。

確かにアイヌ語は文字を持たず、すべては口頭で伝達されていきました。ですので優れた文学作品や宗教文学が発達しなかったのは仕方がないところもあります。

日本語もアイヌ語も単立の言語とされていますが、当然近い語族というものは存在するもので日本語はトルコ語・モンゴル語・満州語・朝鮮語に近いアルタイ語族ってことになる。ではアイヌ語はというと北欧のゲルマン系の言語に近くインド・ヨーロッパ語族の系列ってことになります。

言語単体では日本語の方がアイヌ語より優れた文学作品や宗教書を生み出していますが、語族という観点ではアイヌ語に近いインド・ヨーロッパ語族からは圧倒的に優れた宗教書が生み出されています。

解釈は完全に私の主観なので真意は怪しいですがインド・ヨーロッパ語族で書かれた宗教書に思いをはせてみますと・・・

例えばお寺へ行けばお経が読まれますが一番有名なのは般若心経でしょう。このお経のみならず法華経・無量寿経などの大乗経典の原典はサンスクリッド語でインドヨーロッパ語族の言語で書かれています。一部を抜粋してみますと・・・

照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色

全ての現象や心身の思うところや行動や体の状態などに実体がないことを悟るときに人はすべての苦しみから解放される。

あると思うところは実は実体がなく、すべて実態があると思ってすがるところから苦しみは生じる。しかし、空や無の境地というのは在るものによって構成され在るものを知ることなくたどり着くことはできない。完全に無であろうとしてもなんらかの有とかかわらないわけにはいかない。悟りが仮に一文でこういうことなんだと記されると仮定しても、特定の偏った拘りに書かれた○○という訳でもないとなってきますので最終的にたどり着く人のあるべき形は空であり無であるとなってくる。

 

教会へ行けば新約聖書が読まれますね。新約聖書はギリシア語で書かれていますのでやはりインド・ヨーロッパ語族ということになります。新約聖書がギリシア語で書かれているのは翻訳されても伝わってきまして、フランシスコ会訳聖書より見てみますと、

わたしはアルファであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。始まりであり、終わりである。(ヨハネの黙示録22-13)

フランシスコ会訳聖書のロゴに書かれているA Ωは決してアンペアとオームではなくギリシア語アルファベットの最初とアルファAと最後のオメガΩです。

では新薬聖書に書かれている人の在り方について抜粋してみますと・・・

愛は寛容なもの 慈悲深いのは愛 愛は、妬まず、高ぶらず、誇らない。

見苦しい振る舞いをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数え立てない。

不正を喜ばないが、人とともに真理を喜ぶ。

すべてをこらえ、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ。(コリントの人々への第一の手紙13-4~7)

例えば身近な人が間違いをしているときに友情のひびが入ったり厄介なことになるのを恐れて何もしないってのは自己中心的な考え方です。かといって相手の非を言い立てることで自分の正しさを示そうというのも自己中心的な考え方です。少なくとも誰かに指摘するときは相手を自分の下などと思いあがらず、相手がそうするのにも理由があるんですから相手について何かを決めつける前に理解するように努め相手のために指摘をすべきでしょう。とは言っても相手のためを思ってということに固執するとこれまた自己中になる。

結局人間が自己中を脱してあるべき姿になっていくには何らかの思いや考えだけで行動に現れることがなければ実っていないことになる。かといって人間は自分の行動をよりどころに自己中から脱しようとしても行動にすがることから自己中に囚われる。自己中を抜け出すには神が自分自身を良いものとして創られたことに信頼を置くことで初めて行動という実りに結び付く。

 

実に人間が自己中を脱してあるべき姿を極めるってのは仏教もキリスト教も難しい教えなんですね・・・

ま、全く別の宗教や対立する概念として語られたりそのように施策が行われた歴史を見てきたわけですが、人の苦しみってのは外的な災難か内的な自己中が原因となってくる。外的な災難はお互いに支えあって時間の流れが不幸を希釈する側面がありますが、内的な自己中による苦しみは放っておけば時間が濃縮してますます人を苦しめる。その囚われからの解放などには単に自然法を超えた両者の共通点を見出すことになる。

そして、その聖典が同じ語族に属する言語で原典が書かれ、その語族は日本で古来より暮らしてきたマイノリティーの民族の言語に近い言語で書かれていたというのも不思議な話です。

 

 


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