N003の実事求是な日々

基本はゲームの事、後は気になったニュースとか人生観とか
自分の病気の事とか実事求是な記事を書きたいと思っております

あまり知り合いに知られたくない部分 前編

2010-07-21 18:33:33 | 日記
酷く薄汚れた溝水のような世界で
まだ誰にも見つかっていない秘境の清流を見た気がした
少し似ている気がする、隔絶と言う名の共通点

ちなみに↑の文章は今日の出来事とは全く何も関係ないです

先日、自宅のカギとバイクのカギとお母さんの家のカギがくっ付いているカギを無くしました
それであーだーこーだというめんどくさい話があり
今日はお父さんとスペアキーでスペアキーを作りに行くことに
運転は大体俺がすることになっていて、最初はアピタにある鍵屋に俺が向かっていると
「これどこ向かっとんの?もしかしてアピタ?」
と言い出した、俺は黙っていると
「実は印鑑を作らないといけないんやけど、アピタある?」
「・・・」
「ジャスコに行きたいんやけど、まあええわ」
「・・・」
しばらくするとこの車はアピタを通り過ぎた
「あれ?アピタここやで、ああもしかして裏側から入るのか」
「・・・」
この車はアピタの裏口も通り過ぎ白子のジャスコに向かいだした

ジャスコはもう俺がガキの頃からちょくちょく通っている
昔は毎週日曜日に一週間分の食材をよく俺とお母さんとお父さんの3人で買出しに来た記憶がある
ここで手巻き寿司の納豆まきと天むすを毎回買ってもらっていた記憶がほんのりある

ジャスコの駐車場はほぼ固定位置というのが決まっていて
正面玄関の前の駐車場の真ん中あたり
ここは何故かちかい割りに常にあいている謎のスペースなのだ
そこに車を止めると、とっとと商店街みたいになっている部分を通り抜け
最初にキャッシュコーナーに入る
ここで俺とお父さんの通帳記載をしなければいけないのだ
何故かは教えない
記載を終えた二人はおぼろげに覚えていた「1階以外のどこか」という情報を手に
階段で2階に上る
案内をみてもどうやらなさそうだった
「ちょっと誰かに聞いてみよか」
「・・・」
「なあ、誰かに聞いてみよか」
「・・・」
「ちょっと聞いてくるわ」
お父さんは適当な店のレジに行き店員と喋っていた
俺は案内板の前で何を思うことも無くただ突っ立っていた
「やっぱり潰れたみたいや」
「・・・」
「前あったのになぁ、そうか潰れたんか、わっはっは」
「・・・」
「それじゃあ次ハンコつくりにいかんと、3階やったっけ」
「・・・」
「おっ、エスカレーターあった、これ乗ろ、これ」
「・・・」
お父さんはそそくさとエスカレーターに乗り込み
俺は4歩手前に乗る
エスカレーターで3階に着くと目の前にハンコ屋がある
「おお、あったあった、わっはっは、ここやここ、ここ」
「・・・」
「じゃあちょっとハンコ買ってくるわ」
「・・・」
エスカレーターを上りきった俺は数歩足を前に運ばせ
空耳を振り払い左側にあるゲームセンターを凝視していた
(そういえばもう夏休みなのか)
何やら小学生や中学生とおぼしき少年少女がたむろったりクレーンゲームをしたり
種々様々な楽しみ方をしている
子供の親、だろうか
後姿なので分からないが恐らく30台程度の女性がポケモンのカードゲームの前で
立ち尽くしているのか画面を見ているのか、傍目からでは良く分からないが
微動だにしなかった
特に興味を持たなかった俺はゆっくり、非常にゆっくりとハンコ屋に近づいていた
特に何かすることも無かったのでハンコでも眺めようと思った
だが、ここで注意しないといけないのは
「絶対に」、「絶対にそこに居る男と俺は無縁の関係だ」ということを周囲の人間にアピール
しなければならないということ、これはもはや俺の宿命というか使命というか
あの人間と俺は、まるで関係の無い永遠に交わらない運命なのだと言うことを
いかに周りの人間に怪しまれずに、ごく自然に表現できるかが俺の役者生命を左右している
この技術は数年前から培われており、今では右に出るものは居ないと自負している
そしてここで思ったことは日本人の苗字は15000程度あるらしく
それが高さ2m幅50cmほどの直方体に全て入りきるということに俺は驚嘆していた
「ここに全ての苗字のハンコがあります」と、書かれていて
本当に15000個もハンコがあるのかと数えてみたぐらいだ
もちろん掛け算を応用して数えたんだぞ



というわけで長くなったので2部構成にします

人探しという名の個人的旅行 in 東京 自由が丘駅

2010-07-21 14:25:36 | 旅行
一つ目の駅の中目黒間では数分、そこから自由が丘も10分かからない程度
まあ、強いて言うなら近辺である
ここ東京に来てはや数時間が経とうとしていた
ひとつまだ一度も見ていないものがある
それは「田んぼ」だ、ここには田んぼが一反もない
俺は稲がまだ緑色の状態の田んぼのそばを歩くのがすきなのである
その次に黄色い田んぼ
とって植えたような植林などはちらちらと見かけるのだが
やはり夏と言えば田んぼだろ!?
そうこうしているうちに自由が丘についてしまった
ここで大井町線に乗り換える
だがこの時点で大井町線というものの名称も分かっておらず
しかもどっち方面に向かえばいいのかも分かっておらず
小学生の始めてのお使いの気分になってしまう

新しい駅に着くなり毎度毎度小型迷子に巻き込まれるが
スウェーデンの時の「言葉が通じるのか通じないのか良く分からない英語力」で
一人で、1時間近くスウェーデンの首都、ストックホルムの最大級の駅で迷子になったことを経験している俺にとって
日本での迷子など、自分の家の中を目を瞑って歩く程度の苦難にしか感じない
ちなみにスウェーデンはスウェーデン語と英語が半々ぐらいの公用語なので英語で安心だ

かばんから地図を引っ張り出し、この線での始点と終点を調べ
ドッチ方面かを見る、そして溝の口方面に向かう
大井町方面乗り場へはエスカレーターがあるのになぜかこっちがわにはエスカレーターがなかった
足が悪い人はどうするんだろうか
ホームに着くと、露骨に人が避けている場所がある
ちなみにぱっと見ただけでも俺もそこには近寄りたくなかった
それは、「直射日光の当たる場所」である
まだ6月の終わり頃とはいえ恐らく直射日光を受けている場所は体感30度を越すだろう
そんな場所にわざわざ自ら躍り出る人間はおらず白線の内側の内側の内側ぐらいまで人が下がっている
「キケンですので白線の内側にお下がりください」
という駅内アナウンスが流れる
(また言ってやがる、これだから自分で考えない人間が育つって事いつ気づくかね)
前々から思っていたのだが、このアナウンスはおかしいと思わないか?
例えば、「赤信号で止まりましょう」だの「踏み切りがなったら止まりましょう」だの
わざわざ毎回言ってないと思うんだ
なんでって、それは当たり前の事だから
なのに駅はいまだにその当たり前のことを繰り返し続けている
何故俺がこれに疑問をもったかと言うと、「外国ではこの手のアナウンスは一切無い」からだ
スウェーデンで地下鉄に乗る時、地元の小学生が遠足で何処かに行くのか帰ってきたのか知らないが
先生数人と生徒何十人でたむろしてた
傍目で見ていたが、アナウンスが流れる事も無く、先生が注意することも無く皆内側で固まっていた
そしてもう1つ、なぜそのアナウンスが無いのかというと実はその「白線そのもの」が無いのである
そりゃ、なけりゃこんなアナウンス言えないわな
こんなクソみたいな過保護国家だから一人じゃ何もできねー人間が育つのだろう

ちなみに俺の母の教育理念は「できる限り放置主義」である(あった)
とにかく昔から俺は「~しろ、と命令形で言われた事は絶対にしないタイプの子供だった」
言えば言うほどしなくなったらしい、勉強しろだのピアノをサボるなだのスイミングに行けだの
夏休みの朝のラジオ体操に行けだの、市民プールに行けだの
結局夏休みの朝のラジオ体操は小学校5年と6年は無遅刻無欠席になったらしい、何となく覚えている
あとは俺の自転車で通る道があまりにも(母にとって)危なすぎたために
後ろから「危ないから行っちゃダメ」と叱ろうとしたらしい
が、そこで母は思いとどまった「ここで私が叱ると、この子の可能性を1つ潰してしまう事になる」
だから叱らない代わりに、「俺が死んでも良い」というぐらいの決意を持って俺を野放しにしたらしい
とりあえず俺は1度も車に轢かれずにここまでこれた、轢かれそうになった事も無いぞ!
つまり、本来なら言わなくても勝手に学ぶ筈なんだが、いやはや

てくてくてくてく
俺の目の前、もとい直射日光ゾーンに俺の背丈の半分ほどの桑染色の通学棒を被った小学生が通り過ぎた
最初は何も思わなかったその子がなにかひっかかる、もう一度その子を見てみると
その帽子、服装を総合してみてみるととある過去に見たことのあるファッションだったのだ
それは、帽冒険番組で探検する隊員たちと瓜二つだった
それだけだ。



――――――余談――――――
夏!夏!!夏!!!
今は夏です、ええ、恐らく人間が一年のうちで一番活発になろう時期
今年はもしかして2回長島ジャンボ海水プールに行くことになるかもしれない
そしてあのお化け屋敷に行くことになるかも・・・・ああああああああああ
あそこ本気でいきたくねえええええええ、マジ怖い、ヤバイ
で、そんなことはどうでもいいんです
俺にとって初めての夏なのにこのままじゃ何も
何も・・・・・・

それにしてもこう暑くては作業がはかどらない
俺のパソコン部屋は常に35度をマークしているので
ついに、5年ぶりに自らクーラーにスイッチをつける日が来ることになってしまった
この仕事は納期が10日をきっているので、だらだらしている余裕は無いのである