散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

白い巨塔・最終回・感想・おぼろげに見えてきた脚本意図

2019年05月28日 | 白い巨塔
それにしても我ながらこの作品が好きです。もう何本もブログに感想を書いています。

私は、どうも社会派ドラマとしての「白い巨塔」にこだわりすぎた気がします。そこにこだわらないなら、脚本意図はおぼろげに見えてきます。

ただ「おぼろげ」です。

・なんで里見が財前の治療するのだろう。(唐沢版ではしない。というか他病院の医師である里見が仕事を休んで財前の治療をするのは強引な設定である。)
・どうして東があんなに財前に寄り添うのだろう。
・そもそも財前の罪とは何なのだろう。
・なんで財前はあんなに弱気になり、不安を訴えるのだろう。(唐沢版では死に至るまで強気)

岡田版でそれを考えると、岡田版における財前の罪とは、

つまりは「執刀医が患者に寄り添わなかった罪」だということが「おぼろげ」に見えてきます。

唐沢版では「説明をしなかった罪」でした。

唐沢版、弁護士の関口は途中で「裁判の争い方を変え」ます。「難しい医療議論をしても水掛け論になる。もっとも大切なのは、財前が患者と家族にきちんとした説明をし、選択をさせたかだ」と気がつくのです。

唐沢版の場合は「はっきりと気がつくシーンが描かれている」ので、わかりやすい。当時はまだ説明責任という言葉は今のように多用はされてはいない時代だったかなと思います。

しかし今回はそういう「気付き」のシーンはなかったと思います。

それでも最終回を見るに、「とにかく里見は最後の最後まで財前に寄り添う」わけです。こんなセリフもあります。

東「ずっと僕が往診に来るから」
財前「執刀してくれた医師がみてくれるというのは、こんなに安心なものなんですね」

白い巨塔というと「現代医療に切り込む」という社会派ドラマを期待します。しかし今回はもっと「原点にもどった」作品だったような気がしてきました。

非常に簡単にいうと「優しいお医者さんが必要」ということです。「親切なお医者さん」でもいい。

実際問題としても、現実に医者によって「親切、親切じゃない」ははっきりしているように思います。「安心を与えてくれるお医者さん」が望まれているように思います。

財前は最終回では「親切なお医者さん」に変化しています。

そして自分が患者となり「親切なお医者さん」、里見と東に治療されながら死んでいきます。最後のシーンはベッドにいる財前を、里見がそっと「見守る」シーンで終わります。

主題を「親切で優しく、患者に寄り添う医者が必要」ととらえれば、この脚本の「意図」もおぼろげに見えてくるような気がします。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿