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ジャン・アレチボルトの冒険

ジャンルを問わず、思いついたことを、書いてみます。

アレチを探して

2009-02-13 01:34:08 | Weblog
仏教経典に、こんな話が書かれているそうだ。

ある街の大通りで、一人の女性が道行く人々に向かって、必死に叫んでいた。

「この子を助けてやって下さい。誰かこの子の病気を治してやって下さい。この子は重い病にかかっているんです。お願いです。どなたか助けてやって下さい」

見ると、女性は小さな子供を抱きしめていたが、それは明らかに遺体だった。その子は随分前に亡くなってしまったらしく、助けることは不可能だった。

何人ものひとが、子供はもう死んでしまっていて、どうすることも出来ないのだと諭したが、彼女は頑として聞こうとしなかった。

やがて、その女性に話しかけるひとは誰もいなくなってしまったが、それでも、彼女は半狂乱になって助けを求め続けた。

そこに釈尊が通りかかった。釈尊は、彼女の言葉を聞いて、こう言った。

「分かりました。私が、その子の病気を治す薬を作って差し上げましょう。家を一軒一軒回って、ケシの種を一粒ずつもらって来て下さい」

女性は大喜びした。

「ありがとうございます。ありがとうございます。すぐに集めてきます」

飛んでいこうとする女性に釈尊は声を掛けた

「ただし、ケシの種は、一人も死人を出したことのない家から、もらって下さい。死人を出した家のケシ粒で作ったのでは、薬の効き目がありませんから」

女性は言われたとおり、一軒一軒家を訪ねて、死人を出したことがあるかどうか、聞いて回った。

数日後、釈尊のもとに、再び女性が現れた。

「ケシの種は、集まりましたか。さっそく薬を作りましょう」

彼女は悲しげに答えた。

「いいえ、もういいんです。もう薬はいりません。もういいんです」

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東京清瀬近郊に、柳瀬川という小さな川が流れている。自然を残すような形で川岸が整備されていて、散歩するにはもってこいの場所だ。

アレチを火葬にした翌日、よく晴れた午後、柳瀬川の土手を歩いた。紅梅が華やかに咲き、さまざまな鳥たちが、岸辺で羽を休めていた。

川は滔々と流れ、水面はきらきら光り、木々は風にざわめき、空気がどこまでも透明だった。

こぼれんばかりの生命にあふれた景色を見ていると、この世界のどこにもアレチはいないのだということが、信じられなかった。

家に帰ると、水槽の砂場にひょっこりアレチがいて、あの大きな瞳でこちらを見ているような、そんな気がしてならなかった。

どこにもアレチがいないなんて、あり得ないことに思えた。

次の日から、ペットショップを何軒も回り、本屋でネズミ図鑑を探し、ネットで検索して、アレチを探し回った。アレチ自身と出会えなくても、せめてアレチと同じ種かその近縁種、実物でも画像でもいい、とにかくアレチに近いもの、アレチっぽいもの、そういったものに接触したかった。

世界の中から、「アレチのかけら」を見つけ出せば、やがては本当に、あのアレチ君自身に、再び巡り会えるのではないか、そんな思いを捨てきれなかった。それは、教典の女性が探し求めた「ケシの種」と同じだったかもしれない。

しかし、アレチはどこにもいなかった。

「キンイロアレチネズミ」の画像は何枚か見つけた。ペットショップで、アレチに近いタイプのネズミにも会った。

しかし、それはぜんぜんアレチではなかった。

やがて、あることに気づいた。

多くのひとは、一度はペットを飼った経験があり、それゆえに、その死も経験しているという事実だった。

すっかり忘れていた。

世界が生で満ちあふれているならば、世界は同時に死で満ちあふれているはずだ。

この世界で死と出会って驚くのは、ずっと森の中を歩いてきたのに、木にぶつかって驚いているようなものだ。ぶつかって初めて、森が木から出来ていることに気づいたのと同じだ。

生の世界から死を追放することはできない。なぜなら死は生の裏面だからだ。表だけのコインが存在しないのと同じだ。生の数だけ、かならず死が存在する。

しかし、コインの表を美しく磨き上げることは、可能である。いや、それこそが生きているものの、唯一の厳粛な使命なのかもしれない。


数週間くらい前から、毛繕いするたびに転んだり、突然変なけいれんを起こしたり、アレチの体は明らかに変調をきたしていた。やがてちゃんと歩けなくなり、睡眠が極端に長くなり、エサも食べる量が減っていった。

昨日できたことが、今日は出来なくなっていた。今日できたことが、明日は出来なくなっている。

あるとき、這いずるようにエサ場に出てきたアレチは、ふらふらになりながら二本足で立ち上がり、両手にバナナを持って食べようとした。しかし、すぐ前につんのめって、激しく倒れてしまう。何度も何度も倒れてしまう。

それでもアレチは、何度でも起きあがって、なんとか踏ん張って食べようとした。

バランスを取るために、とうとう顔を天に向けて、のけぞりながら食べ始めた。

今度は後ろにひっくり返ったが、それでも彼はバナナを放さず、食べ続けた。

見てられなかった。何もしてやれないことが苦しかった。それでも、目をそらすことが出来なかった。

死がもの凄い力で、アレチを引きずり込み始めていた。そして、アレチは小さな体で、必死になってそれに抵抗していた。力の限り、なんとか生きようとしていた。

今思えば、その姿こそが、生きたアレチだった。あやふやな「アレチのかけら」なんかじゃない、本当のアレチだ。

最後の日、ぐったりとしたアレチを手で抱きかかえて、少しでも食べればと、彼の大好きだった生クリームを口につけてあげた。

舐める力は残ってなかったが、その瞬間、彼がにこっと笑ったように見えた。

「あっ、これ知ってるよ。甘くてふわふわで、美味しいんだよね」

そう言うのが聞こえた気がした。

その数時間後、アレチは天国に旅立っていった。

アレチの生は、アレチと過ごした三年間は、最後までぴかぴかに輝いていた。天を仰ぎながらバナナを食べていたアレチの姿は心が震えるほど美しかった。アレチは、最後の最後まで、生きることを全うしようとした。それは、見たことのないほど素晴らしい光景だった。

そして今は、もう本当に、アレチはこの世界のどこにもいない。

それでいい。それでいいんだ。

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ふたたび教典のお話。

数日間、女性はケシの種を求めて、足が棒になるまで、街中の家を訪ね歩いていた。

しかし、死人を一人も出したことのない家は、ほとんどなかった。愛するひとが死ぬ悲しみを経験したことのない家族は、ほとんどいなかった。

彼女は、自分が一人ではないことを悟った。

そして、我が子の死を受け入れ、死と向き合っていく自分の生を受け入れた。

彼女が死から目を背けたのは、その子と過ごした数年間が、とてつもなくきらきらと輝いていたからだ。だから少しだけ時間が必要だった。さまようことが必要だった。

釈尊は、最高の薬を処方したのかもしれない。
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