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遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『信長燃ゆ』上・下   安部龍太郎   新潮文庫 

2025-03-31 23:07:10 | 安部龍太郎
 ごく身近に長らく置いていた一冊を読み終えた。書棚には文庫本を中心に信長関連の小説等で収集した本が60冊近く眠っているので、ほんの一歩を進めたに過ぎないのだが・・・・。

 「あとがきにかえて」によると、日本経済新聞にほぼ1年9ヵ月にわたり連載発表された後、手直しを経て、平成13年(2001)6月、日本経済新聞社より単行本が刊行された。その後、平成16年(2004)10月に新潮文庫化されている。手元にあるのはこの版。

 3月27日夜、カンテレで「歴史ミステリーVS超能力!本能寺の変&坂本龍馬暗殺の謎解きSP」というテレビ番組を視聴した。本能寺の変と坂本龍馬暗殺というキーワードに惹かれてだった。この番組のために来日し出演した女性超能力者は、最終的に明智光秀の謀反は単独犯行と感じるという結論を出していた。歴史学者の同意感想も述べられていた。その最中にこの上下本を読んでいたので、本書のストーリーの進展は一層興味深かった。

 著者自身が文庫本の「あとがきにかえて」に端的に本書の位置づけ等を語っている。ここをまず読まれるのが一番かと思う。そのおすすめだけで感想を終えても十分かと思う。
 が、覚書を兼ね「あとがきにかえて」に触れつつ、読後感をまとめておきたい。
 
 まず、本書のタイトルから、本能寺の変を眼目にしていることは一目瞭然である。何が語られるか、そこにまず関心が向かう。
 そして、読み始めて、本書の構成に意識が向く。著者自身が本書の背景設定を「序章」で次のとおり、明確にするからである。
 *本能寺の変から35年後に本能寺の変の経緯を書き留めることに着手するという設定。
 *著者は近衛家の門流で清華家の三男坊・清麿。変の当時、15歳で、わずか2年間だが、信長に小姓として近侍していた。信長公から「たわけの清麿」と呼ばれていた。清麿は当日(6/2)、他所に使いに出ていたので、難をまぬがれた。
 *洛北、寺町通にある阿弥陀寺の信長公の墓に詣でる。信長公についてこれから一書を書くという報告をする。
  この時住職から墓守りをする一人の男に引き合わされる。その男は森坊丸だった。
  清麿は森坊丸から変当日の本能寺と信長の状況・事実を回顧譚として聞き取る。
  坊丸は「本能寺の変の背後には、朝廷も関わった数々の陰謀があった。それを知っておられるがために、清玉上人は秀吉の手の者に害され、誠仁親王は割腹せざるをえない立場に追い込まれたのじゃ。そのようないきさつを何ひとつ知らず、物書きどもが見てきたような絵空事を書き散らしておる」(上、p52)と清麿に語る。
 *本能寺の変が起こった時、阿弥陀寺は西の京の蓮台野にあった。一方、本能寺は、当時、堀川四条の北東方向、油小路通と蛸薬師通の辻の南東側が寺の中心辺りだった。
 *この時(大坂の陣から2年後)、太田牛一の『信長公記』が世に流布していた。
 *清麿の執筆動機は、「さるやんごとなきお方から、変について書き残してほしいという依頼を受けた」(上、p52)からと坊丸に語る。禁裏の学問所にて、秘蔵の文書や記録、公家の日記などを自由に調査でき、史資料として使うことを許されるという設定になっている。(上、p53) 
 *『御湯殿の上の日記』『兼見卿記』『多聞院日記』などの記録における記事の抜けや改ざんなどが引用され、内容が分析され、考察されていく。
 つまり、信長から「たわけの清麿」と呼ばれた第三者の視点から本能寺の変に関わった人物たちが捉えられていく。
 本能寺の変の経緯が、清麿によるルポルタージュという形で進展していく。
 これが読者に対して説得力を生み出していく一因になる。

 さらに、<序章 阿弥陀寺の花>には、上記の設定の凡その記述とパラレルに、天正10年(1582)6月2日早朝に起こった本能寺の変当日の状況並びに信長の死が描き出される。つまり、本能寺の変そのものの結末がこのストーリーの冒頭に提示される。
 結果が最初にあり、<第1章 左義長> は、天正9年(1581)の年明けから始まる。最終章の <第16章 見果てぬ夢> は、「その頃、先発隊から本能寺の包囲を終えたという知らせを受けた明智光秀は、八千の本隊をひきいて桂川の渡河にかかっていた」(下、p543) の一文で終わる。つまり、本作は1年半という期間に凝縮した形で、なぜ本能寺の変が起こったかをルポルタージュ風に描きあげている。

 <あとがきにかえて> の第2文に著者は「本能寺の変を公武の相剋という視点から描きたいという構想は、『関ヶ原連判状』を書いた頃から持っていた」(下、p544)と記す。
 本能寺の変の主人公といえば、織田信長と明智光秀で、この二人の相剋ということになる。だが、この『信長燃ゆ』の主人公は織田信長と近衛前久の二人だと私は思った。明智光秀は准主役として位置づけられている気がする。そういう視点と感じるストーリーの進展にこの小説のおもしろさがあるように思う。

 朝廷と明智光秀が共謀して本能寺の変が起こったという朝廷黒幕説がこのストーリーの仮説として根底にある。その朝廷の中において、信長の思考・戦略・行動に対峙して、常に帝の権威を維持し、朝廷の仕組みを維持・存立させて、武士よりも朝廷が上位にあらんと緻密な策謀を練る中心人物が近衛前久なのだ。信長に対立する立場なのだが、外見は信長の野望に協力・協調する姿勢をみせ続ける。信長の基盤を弱体化させ、切り崩そうと策謀する前久のスタンスと行動が描きこまれていく。前久のスタンスを知りつつ、それをねじ伏せて行こうとする信長。清麿が分析して眺めた本能寺の変に至る本質は、この二人の駆け引きの中に内在する。信長と前久の駆け引きが本作の読ませどころと言える。
 前久は明智光秀を信長抹殺という共謀の形に取り込み、先頭に立たせていく。一方で、光秀に知らせずに信長打倒への策略の全体展開を推し進める。この前久の巧妙さは、なるほどありえるという方向に読者を誘っていく。この点、さすがである。

 「時間の幅を短くして信長や前久の政治的な動きや内面を克明に描きたかった」(下、p545) と著者は記す。公武の相剋という政治的駆け引きと内面心理の動き。これが様々な局面で織り込まれている。両者の駆け引きは読者として楽しめるプロセスでもある。前久の息子・信基が信長に心酔していて、常に前久に対立する形で登場するのもおもしろい。父の前久が反対しようと、信長の武士、政治家としての魅力を代弁していることになる。

 正親町天皇の嫡子で東宮の誠仁親王の夫人・勧修寺晴子が登場する。京での馬揃えについて、朝廷から安土への使者となる佐五の局に、晴子が身分を偽り、若狭の局と称して随伴する。これが晴子と信長の出会いとなる。この若狭の局を信長が記憶していたことから、後に思わぬ事態が契機ととなり、二人の恋が始まって行く。
 本能寺の変が歴史の経緯を描く縦糸とすれば、この晴子と信長の関係はこのストーリーの横糸として、時間軸の進展の要所要所に織り込まれていく。
 読者にとっては、事の成り行きの推移を楽しめる横糸である。この晴子の思いを介として、当時の朝廷における天皇周辺の状況がうかがえて興味深い。副産物として、当時は皇后という地位がなかったことを本書で知った。その理由は、皇后という地位を維持存続させる財源的基盤がなかったからという。また天皇の譲位、即位についても、その儀式の実施費用に窮しているのが朝廷の実態だったという。戦国時代の朝廷というものを今まで考えたことがなかった。例えば、平安時代と比較する意味でも、朝廷について、その実態を歴史的変遷の中で捉え直してみるために、改めて学ぶ必要性という課題が残った。

 本書で印象に残る文を引用しご紹介したい。
*耐えきれぬ苦しみを抱えて生きていかねばならぬ者にとって、涙は絶望の淵から立ち上がるための心やさしき伴侶である。   (上・p43)

*多くの人は神仏に加護を求めるが、信長は神仏の力を我が身に取り込もうとしたのである。  (上、p298)

*信長が焼き討ちをかけたのは、比叡山が浅井、朝倉勢に身方して軍勢を山上にとどめたからだと言われている。
 だが事の発端は、信長が近江国に散在する山門領を横領し、返還要求に応じなかったことだ。         
 比叡山側は三千院の門跡であられる応胤法親王を通じて朝廷に訴え、勅命をもって返還させようとした。     (上、p443)
     → このことを本書で初めて知った。史実を述べている箇所と理解した。

*真実とはかけ離れたことばかりが、歴史という名のもとにまことしやかに書き継がれていく。  (下、p184)

*信長が戦っていた相手は、個々の勢力ではない。人々の心の中にまで根強く張り巡らされた、こうした旧い意識なのである。  (下、p429)

*著者は、「たわけの清麿」に明智光秀について、次のように評させている。
「こうした陰謀に加担するには、あまりにも誠実で真っ直ぐな心の持ち主だったのである」(下、p428)と。

 本作の全体構成としてのエンディングが興味深い。歴史時代小説、フィクションとしての醍醐味が遺憾なく盛り込まれていると思う。
 終章は、興味深い場面で終わる。信長の死という側面とは別に種々の想いが残る。
 明智光秀の心境は本能寺の変が成功したその時点ではどうだったのか・・・・。
 羽柴秀吉はいわば漁夫の利を得られる立場になれる状況をもらったようではないか。
 前久は、誠仁親王は、晴子は・・・・・・
 それぞれの人物の行動と心理のあり様、そこを楽しむことができると思う。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
本能寺跡    :「京都観光Navi」
「本能寺の変」を調査する  発掘ニュース82 :「京都市埋蔵文化財研究所」
本能寺の変   :ウィキペディア
織田信長    :ウィキペディア
近衛前久 :ウィキペディア
戦場に出陣した破天荒な貴族・近衛前久の波乱万丈人生【麒麟がくる満喫レポート】:「サライ.jp」
明智光秀 :ウィキペディア
森成利     :ウィキペディア 
森長隆     :ウィキペディア
勧修寺晴子   :ウィキペディア
上京区の史蹟百選/阿弥陀寺  :「京都市」
阿弥陀寺 (京都市上京区)  :ウィキペディア
法華宗大本山 本能寺  公式サイト

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『仏像の顔 -----形と表情をよむ』  清水眞澄   岩波新書

2025-03-26 15:53:19 | 宗教・仏像
 タイトル通り、仏像の「顔」に焦点をしぼり、日本における仏像の「顔」の表現、その造形が時代とともに変化してきている事実をつぶさに分析して解説した本である。

 本書は2013年9月に刊行された。手元の本は第1刷。

 仏像の前に立ち、仏像の「顔」を眺めて、「何ともいい顔」と感じる。この「何とも」とは何かということをテーマに取り組んだのがこの本である。仏像の種類や仏像全体・全身の様式や造形を解説する書はたくさんある。しかし、仏像の「顔」に着目し分析・解説する本は珍しいと思う。

 序章の第2パラグラフで、著者は次のように述べている。
 ”仏教は、信仰の対象として、ブッダの姿をイメージした仏像を造り祀りました。仏像は「仏」の代わりではなく、「仏」そのものとなり、仏像を拝むことは、「仏」を拝することでした。そこで、信仰の対象となるにふさわしい仏像の姿として、最も「顔」が重視されたのは、いうまでもありません。仏像の「顔」には、形としての「顔」だけでない、人の心に訴える何らかの意味があるはずです。” (p2)
 この「何らかの意味」を究明する仏像拝顔の時空をまたぐ旅が本書である。

 本書の目次を見れば、その要は一目瞭然である。仏像の「顔」の形と表情が時代とともに変化してきた事実とその特徴は、その章立てと章の見出しに明示されている。そう言われれば、確かに・・・・と感じる。
 目次のご紹介に併せ、その章の該当箇所で取り上げ分析されている仏像の一端のいくつかを、その名称で併記してみよう。どのように分析されていくのかへの誘いになることだろう。

 第1章 仏像の誕生 ----- インドと中国
   1 インドの仏像 --- 半眼と見開いた眼
       サリ・バロール出土弥勒菩薩坐像、チャウパーラ出土仏頭
   2 中国の仏像  --- 端正な顔から豊満な顔へ
       藤井有鄰館菩薩立像、永青文庫如来坐像
       雲岡石窟第20窟如来坐像、龍門石窟奉先寺洞廬舎那仏

 第2章 飛鳥時代の仏像 ----- 杏仁形の眼・古拙の微笑
   法隆寺金堂釈迦三尊像、法隆寺夢殿救世観音像

 第3章 白鳳時代の仏像 ----- あどけない顔・おおらかな表情
   中宮寺半跏思惟像、法隆寺観音菩薩像、法隆寺夢違観音像

 第4章 天平時代の仏像 ----- 国家仏教と威厳
   薬師寺薬師三尊像、東大寺法華堂不空羂索観音像、東大寺戒壇院四天王像

 第5章 平安時代前期の仏像 ----- 個性的な顔
   新薬師寺薬師如来坐像、神護寺薬師如来坐像、東寺講堂不動明王像

 第6章 平安時代後期の仏像 ----- 尊容満月の如し
   平等院阿弥陀如来坐像、
 第7章 鎌倉時代の仏像 ----- 力強さと写実
   願成就院不動明王立像、鎌倉大仏

 本書は、仏像の「顔」の特徴の分析、並びに仏像そのものについての論考を鎌倉時代までにとどめている。そして、これ以降の仏像彫刻を語る出版物が少なくなる理由を著者は明記している。
 「近年かなり見直されてきてはいますが、その理由としては、鎌倉時代までに比べて、信仰のあり方や財政基盤、造像技術と仏師組織などに充実と高まりがなく、各時代の個性を発揮するような優れた仏像が造られなかったことが大きいと思われます」(p169)と。
 最後に第8章が続く。「仏像の『仏』たるゆえん ----- 開眼供養と白毫相」という見出しで終章がまとめられている。
 なぜか。「仏像の顔」にとって、「開眼」が特別な意味を持つ故である。歴史上で特に有名なのは、東大寺大仏の開眼供養会。著者はこれに関連させて開眼について語る。
 「開眼供養会という儀式を行ない、彫刻としての仏像に仏の『たましい』を入れて、仏として本当の意味の仏像にします」(p172)と。

 仏像が美術彫刻と一線を画するのは、この開眼供養会という儀式を経て初めて真に「仏像」になる点にある。それを再認識した。

 著者は最後に、「仏の三十二相」の一つである「白毫相」について説明している。白毫相が何かは知っていた。だが、白毫相そのものについて、経典の記述に基づく一歩踏み込んだ知識として、本書で学ぶ機会を得た。一つの副産物である。

 最後に仏像の「顔」について、著者の分析・指摘の一端を引用し、覚書を兼ねてご紹介しよう。
*「あどけない顔」の特徴
 丸顔であること、眼と耳の位置が大人に比べて低く、顔を上下に二分割した時に眼がその線上、あるいはそれ以下にあること、眼と眼が離れていること、眉と眼が離れていること、鼻柱が短いことなど。  p68
*日本の仏像の瞼(特に上瞼)を見てみると、ほとんどが一重瞼です。  p72
 二重瞼の像(の例もある:付記)が7世紀後半白鳳時代に集中していること  p72
*眉は、仏像の顔形をいう場合に非常に重要な部分の一つです。・・・・・眉は動物にない極めて人間的な部分なのです。・・・・・・眉には、表情をつくる大きな役割がある点に注目してみましょう。・・・・・仏・菩薩像の眉がほとんど目立たないのは、眉を目立たせないことで、人間と一線を劃する意味があったのではないでしょうか。  p73-74

 このように分析的に仏像の顔を拝見したことはなかった・・・・そのことに気づいた。
 
 ご一読ありがとうございます。


補遺
ペシャワール博物館   :「西遊旅行」
ペシャワール博物館は、隠れた名所 パキスタン情報セクション :「no+e」
雲崗石窟  :ウィキペディア
【世界遺産】雲崗石窟とは?|高い彫刻技術と仏教思想!  :「skyticket」
龍門石窟  :ウィキペディア
龍門石窟  :「丹沢 森のギャラリー」
聖徳宗総本山 法隆寺 ホームページ
聖徳宗 中宮寺 ホームページ
奈良 薬師寺 公式サイト
華厳宗大本山 東大寺  ホームページ
新薬師寺 公式ホームページ
弘法大師霊場 遺迹本山 高雄山神護寺  ホームページ
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『言語の本質』 今井むつみ 秋田喜美 著  中公新書

2025-03-25 21:42:30 | 科学関連
 昨年、新聞広告で本書を知った。副題に「ことばはどう生まれ、進化したか」とある。 この副題が私の読書アアンテナに届いていた。ブログをフォローしている一人、U1さんが同書に触れておられた。それで、一層関心が高まった。
 手元の本は、2023年6月3版。同年5月に初版刊行なので、増刷は早いペースだ。現時点でアマゾンのサイトをみると、「新書大賞2024」第1位!、アジア・ブックアワード2024「最優秀図書賞」(一般書部門)受賞、25万部突破というメッセージが載っている。

 ぐつぐつ、なよっ、べちょ、ジュージャー、ブラブラ、キラキラ、ホカホカ、ポンポン、ザラザラ、ニャー、パリーン、カチャカチャ ・・・・・
 第1章の最初に、これらの言葉が文章に点在する。そこから始まる。これらの言葉は、「オノマトペ」と総称されている。オノマトペについて、世界で通用する定義は、オランダの言語学者マーク・ディンゲマンセによる定義と著者は記す。「オノマトペ:感覚イメージを写し取る、特徴的な形式を持ち、新たに作りだせる語」(p6)
 著者の秋田は、他言語との比較や言語理論という観点からオノマトペの持つ言語的特徴を研究してきた。一方、今井は認知科学、発達心理学の立場から、音と意味のつながりが言語の発達にどのような役割を果たすかという問題を、成人と乳児、幼児を対象とした実験により研究してきたという。そこにはオノマトペが関わってくる。
 オノマトペを、秋田は言語サイドから見つめ、今井は言語を学んでいく乳幼児という人間サイドから見つめてきたのだ。その二人が、オノマトペを主軸にして、「言語の本質」に迫って行くという試みが本書である。

 オノマトペという感覚的になじみやすい言葉を使っての実験事例を様々に紹介しながら、言語学的な分析と研究成果を統合していくアプローチになっている。学術的なテーマが扱われているわりには、楽しみながら読める側面がある。本書本体の構成は次のとおり。
 第1章 オノマトペとは何か
 第2章 アイコン性-----形式と意味の類似性
 第3章 オノマトペは言語か
 第4章 子どもの言語習得1-----オノマトペ篇
 第5章 言語の進化
 第6章 子どもの言語習得2-----アブダクション推論篇
 第7章 ヒトと動物を分かつものーーーーー推論と思考バイアス
 終 章 言語の本質

覚書を兼ねて、各章について少しご紹介してみる。
< 第1章 オノマトペとは何か >
 まずオノマトペについて概観する。オノマトペの持つ感覚イメージを「写し取る」という特徴が鍵となり、この特性故にアイコン性を帯びるという。アイコンとは「表すものと表わされるものが似ている記号/物事を写し取った記号」である。えがおを意味するニコニコの絵文字が本文の事例に出てくる。

< 第2章 アイコン性-----形式と意味の類似性 >
 オノマトペの音のアイコン性(「サラサラ」と「ザラザラ」、「によろによろ」「ぬるぬる」など)と発音のアイコン性(「あ」と「い」の発音でのイメージ差。阻害音。共鳴音など)、日本語の音韻体系などが分析される。わかりやすい。そして、オノマトペにおいて、アイコン性が高度に体系化されていることを示す。

< 第3章 オノマトペは言語か >
 本書で「言語の十大原則」という基本事項を知った。コミュニケーション機能、意味性、超越性、継承性、習得可能性、生産性、経済性、離散性、恣意性、二重性である。この十大原則の意味を説明したうえで、オノマトペとこの原則の関係性が分析されていく。これが見出し語の問いかけにリンクしていく。
 「言語は身体とつながっているという考えにとって、言語的な特徴を多く持ちながら、言語でない要素もあわせもつというオノマトペの性質はうまく合致する」(p90)と説く。オノマトペが、言語という抽象的な記号の体系へと進化・成長するためのつなぎの役割を果たしているのではないかと論じている。ナルホド・・・・という思い。

< 第4章 子どもの言語習得1-----オノマトペ篇 >
 ヘレン・ケラーはサリバン先生との関わりの中で「すべてのモノには名前があるのだ」という閃きを得た。この有名な「名づけの洞察」事例を引き、赤ちゃんにオノマトペを多用する意味を明らかにする。
 その先に、オノマトペに親しむことで、言語の様々な性質を学ぶことになっていくことを具体的に例示する。例えば、音と動作の関係、単語が多義であるということ、など。「オノマトペは言語のミニワールドである」(p116)
 著者は、「言語習得におけるオノマトペの役割は、子どもに言語の大局観を与えることと言えよう」(p120)と論じている。
 言葉を学び始める最初期の期間の重要性を感じる次第。
 
< 第5章 言語の進化 >
 ここでは、言語がオノマトペを離れて、巨大な記号の体系に成長していく進化自体を論じている。語彙の大部分が「恣意的な記号の体系」となっていく側面が分析される。第4章までとは、論調の視点が変わる。
 本書の「はじめに」の冒頭で、著者は「記号接地問題」を提示している。そして、この章で「一次的アイコン性→恣意性→体系化→二次的アイコン性」(「アイコン性の輪」仮説)というサイクルが生まれるプロセスを論じ、これが記号接地問題に対する答えになると言う。
 「言語とは一般に、その形式と意味の結びつきに慣れ親しむことでしっくりくるようになる体系である」(p165)という一文がある。同様に、私には今一つこの章の理解が及んでいない。しっくりというには距離がある。論述の意味合いを感じとったに過ぎない気がする。理解を深める必要がありそう。課題を残した。改めて、読み直してみようと思う。

< 第6章 子どもの言語習得2-----アブダクション推論篇 >
 オノマトペは子どもにとり言語修得の足場の役割を果たす。しかし、ほとんどのことばは、音と意味の間にすぐわかるつながりがなく、一つの単語が多義となる故に、オノマトペを離れなければならない。仮説形成推論(アブダクション)を修得する必要性を論じている。この章で、言語習得のために「ブートストラッピング・サイクル」の想定を著者は提案している。そのモデルを説明していく。そして、次のように述べている。
 「言語習得とは、推論によって知識を増やしながら、同時に『学習の仕方』自体も学習し、洗練させていく、自律的に成長し続けるプロセスなのである」(p204)と。
 このサイクルの理屈はわかるけれど、その仮説形成推論のスキルを修得するトレーニング方法は開発されているのだろうか。開発が進行形ということなのだろうか。

< 第7章 ヒトと動物を分かつものーーーーー推論と思考バイアス >
 チンパンジーを使った推論実験とヒト乳児に対する推論実験の事例を取り上げて説明し、ヒトと動物を分かつものは何かを論じている。分かつものは、人類だけが言語を持つことであり、言語を使ってアブダクション推論を展開できることだと理解した。

< 終 章 言語の本質 >
 再び、「はじめに」の冒頭近くに一旦戻る。
”記号接地問題は、もともとは人工知能(AI)の問題として考えられたものであった。「〇〇」を「甘酸っぱい」「おいしい」という別の記号(ことば)と結びつけられたら、AIは○○を「知った」と言えるのだろうか?” つまり、身体に根差した(接地した)経験がないとき、人工知能は○○を「知っている」と言えるのだろうか? という問題である。 この終章では、AIとヒトの違いが、別の視点から問題提起されている。
 そして、最後に、著者二人が考える「言語の本質的特徴」が列挙されている。
 終章は本書を開いてお読みいただきたい。

 オノマトペを何となく使ってきたし、今も使っているときがある。だけど、オノマトペを突き詰めていけば、言語の本質に結びつくなんて、考えたこともなかった。私には理解不足に留まる感強しの箇所が残る。一方、言語について考えるのに役立つ本だと思う。

 第5章、p131に「音と意味のつながり」という見出しがある。ここに、クイズが載っている。読者の体験用に載せられたクイズ。「次のクイズは、多くの人に耳馴染みのない言語における対義的な形容詞に関するものである。何問できるか試してみてほしい。」というもの。10問載っている。おもしろい体験になる。やってみてほしい。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
算数が苦手な子どもはAIと似ている 「記号接地問題」とは?  :「日経ビジネス」
   By Mutsumi Imai  Read time:11min  2023.6.29
ChatGPTには言葉の「意味」が分からない カギは「記号接地」  :「朝日新聞」
記号接地問題における地とは何か:視覚的物体の同一性の分析 :「日本認知科学会」
記号接地問題 ~AIは言葉の意味を理解できるのか?~   :「no+e」
聞いてビックリ!“オノマトペ(擬音語や擬態語)”の知られざる底力とは?:「NHK」
オノマトペ まとめ  :「日本語NET」
「やさしい日本語 Easy Japanese」の使い方オノマトペ  :「NHK WORLD」
チャールズ・ホケット  :ウィキペディア
Charles F. Hockett  From Wikipedia, the free encyclopedia
図形文字を覚えたチンパンジー・アイ  :「生命科学DOKIDOKI研究室」
チンパンジーの認知機能の基本特性 京都大学 松沢哲郎  :「JーStage」
ニューラルネットワーク  :ウィキペディア
ニューラルネットワークとは?仕組みや歴史からAIとの関連性も解説  :「AISmiley」

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『ナイトフォール』 上・下  ネルソン・デミル  講談社文庫

2025-03-24 17:42:16 | 海外の作家

 机から手に届くところに、長らく積読本状態にしていたこの小説を読み終えた。
 私にとっては、初作家で衝動買いで入手した本だった。まして、上下巻なので遅くなった・・・言い訳(笑)。

 原題は「NIGHT FALL」で2004年のコピーライトと表記されている。原題のタイトルのままで翻訳され、2006年9月に上・下巻の文庫として刊行された。

 1996年に、ニューヨーク発パリ行きのトランス・ワールド航空(TWA)800便(ボーイング747-100)がアメリカ合衆国内で航空機事故を起こした。離陸後ロングアイランドのイーストハンプトン沖を飛行中に突如爆発して空中分解し墜落、乗員乗客230名全員が死亡。 この航空機事故は史実である。本作を読了後にインターネットで検索して知った。この航空機事故の発生当時ほとんど認識していなかったように思う。記憶にない。
 この航空機事故について得た情報を補遺に掲載しておきたい。
 
 本作は、実際に起こった航空事故を題材に、その原因究明を行い仮説を立てるというミステリー仕立てになっている。事実とフィクションのはざまの融合を楽しませてくれる。原因究明に引き込んでいく筋立てが巧み。一気読みにさせるエンターテインメント性があったのに・・・・・・。読み始めるのが遅くなった。
 
 第1部は、1996年7月16日、ニューヨーク州ロングアイランドにある郡立カプソーグ・ビーチ公園の砂丘の一隅で、夕刻から、バド・ミッチェルとジル・ウィンズロウが戯れる浮気シーンを描く。彼らは海辺でビデオカメラを使いつつ戯れていた。その時、航空事故が発生した。

 第2部は、5年後のニューヨーク州ロングアイランド。
 TWA800便事故発生から5年後、海辺での追悼記念式典。式典の場所のちょうど反対側、ほぼ13キロばかり沖合の上空で、巨大な旅客機が爆発し、海に墜落した。
 この式典に、ジョン・コーリーとケイト・メイフィールドも出席した。メイフィールドは、ジョンの二人目の妻である。ケイトの誘いに応じ、ジョンもこの式典に同行した。
 ケイトはFBI捜査官として働くとともに、ATTF(連邦統合テロリスト対策特別機動隊)に参加していた。彼女は5年前、TWA800便事故の捜査に参加し、目撃者の聞き込み捜査に携わっていた。一方、ジョンはニューヨーク市警の殺人課刑事として働いた後、ATTFに勤務している。ジョンはATTFでケイトに出会って結婚した。

 TWA800便事故の調査については、政府の公式見解が発表され、CIAはこの事故についてのアニメーションすら制作していた。
 式典の場所で、ジョンはリーアム・グリフィスというFBI捜査官に接触され、告げられた。「奥さんはこの事故について最終的に出された結論には決して満足していないんだよ。・・・・・本件の調査はすでに終了している。・・・・連邦の法執行機関に身を置いている者はだれであれ・・・・5年前の事故について、政府の結論と異なる仮説、おそらくは疑心暗鬼がつくりだした仮説に肩入れするような真似はつつしまなくてはならない。・・・・・政府のもとで禄を食む立場にあるかぎり、たとえ勤務時間外であっても・・・・この事故について考えることすらご法度だ」(p55-56)と脅しをかけてきた。
 ケイトはグリフィスがFBI捜査官であることを知ってはいたが、何をしている人物かは全く知らなかった。
 これまでTWA800便事故そのものについてそれほど関心を寄せていなかったジョンの心に、グリフィスの発言に対する反骨魂が、火を付ける結果になる。
 
 ケイトは、TWA800便事故については、政府の結論が出ているので、FBI捜査官としてもはや行動できる立場にはいない。現職を失いたくはない。だが、この事故の捜査に関わったことで生じた疑問を内心に抱いている事実は消えない。そこで、ジョンは政府に雇われているわけではないので、彼女はジョンを巻き込む状況を設定したのだ。
 ケイトはジョンに言う。「とにかくちゃんと見て、ちゃんと話を聞いてちょうだい。そのうえで、あなた自身がなにをしたいかを決めればいい」(p86)と。ジョンの刑事魂に働きかける。主体的・自主的に謎の究明に突っ走りたい欲求に火がつくことに・・・・。

 その式典の後、ケイトは郡立カプソーグ・ビーチ公園のあの場所にジョンを案内する。さらにその後夜遅く、ケイトはアメリカ合衆国沿岸警備隊ーーーセンター・モリチズ基地にジョンを導いた。ここでジョンはスプラック大佐と面談する。大佐はこの事故を目撃した一人だった。「光の筋は海の向こう側から陸地の方角にむかって・・・・・若干は私がいた場所寄りの方向に・・・・突き進んでいた」(p103)と言った。己の目撃事実を客観的に語ることができる人物だった。さらに、深夜にジョンはケイトの指示で、カルヴァートンに赴く。巨大な格納庫には、TWA800便事故の後、回収された航空機の全パーツが再構成されて保管されていた。ジョンは、そこで国家運輸安全委員会づき調査官のシドニー・R・サイベンの説明を聞く。
 この一連のオリエンテーションは、ケイトによれば、<200人の目撃者を信じる人々>という組織化されていず、名称すらない存在が事実究明のために協力しているという。
 この式典後の一連の体験がジョンを真実究明行動に駆り立てる始まりとなる。

 このストーリーの興味深いところは、ジョンが政府の公式の事故調査報告によるデータ・情報群を相手にして、真実究明をする必要があるという構図にある。

 一方、このストーリー、第二部の終わりは、追悼式から一週間後に、ケイトとジョンが海外出張という名目でタンザニアとイエメンのアデンという別々の任地に飛ばされることになる。彼らの行動に横やりが入ったのだ。

 下巻は第三部の始まり。ジョンが9月に祖国アメリカに帰国した直後から始まる。彼はバド・ミッチェルとジル・ウィンズロウが撮ったビデオが事故の瞬間を記録していないかに行動の的を絞る。当日の二人の足跡を追跡することに重点を移していく。ジョンの不屈の意志と行動力が徐々にビデオ入手の核心に迫って行くプロセスが読ませどころとなる。
、それは、中央情報局(CIA)所属のテッド・ナッシュとの対決になっていく。
 このストーリー、最終ステージは、いわば驚天動地の瞬間の到来で幕切れになる。まさに想定外のエンディングである。お楽しみに!!

 「どうしようもない」という一言に尽きるか・・・・・・。
 
 ご一読ありがあとうございます。

補遺
トランス・ワールド航空800便墜落事故  :ウィキペディア
FBI Records : The Vault TWA Flight 800 Part 01 (Final) :「THE FBI」
What Happened When TWA Flight 800 Crashed in 1996   YouTube
What Really Happened To TWA Flight 800?   YouTube
TWA Flight 800   From Wikipedia, the free encyclopedia
A passenger jet exploded nearly 30 years ago. How families of aircraft disaster victims are treated was forever changed   :「CNNus」
TWA Flight 800: Twenty-five years after the tragedy
Families Of Victims Mark 25th Anniversary Of TWA Flight 800 Crash  YouTube
What Really Happened To TWA Flight 800?   YouTube
History's Greatest Mysteries: The Unexplained Explosion of TWA Flight 800 (Season 4)
  YouTube 

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『文庫版 魍魎の匣』  京極夏彦  講談社文庫

2025-03-19 23:29:11 | 京極夏彦
 私が入手したのは、1999年9月に刊行された文庫本、第1刷。
 本書のタイトルには「文庫版」という語句が冠されている。本作の後のページを見て、理由がわかった。『魍魎の匣』は1995年1月に講談社ノベルズとして刊行された。その後「文庫版として出版するにあたり、本分レイアウトに併せて加筆訂正がなされています」という変更による。しかし、「ストーリー等は変わっておりません」と記されている。「本分レイアウト」の語句は記載通りママで引用した。この文庫版からの読後印象を記す。
 
 調べてみると、現在の文庫版はこの表紙に切り替わっている。

 本書は『姑獲鳥の夏』に次ぐ京極堂シリーズ第2弾。30年前に出版された作品を今頃やっと読み終えた。文庫サイズで、作品本文の最終ページはなんと1048ページである。こんな分厚い小説のシリーズはこれくらいではないか。ノベルズでの購入本があるので、1冊の文庫としてこれだけの厚みの作品を読むのは初めて。第1作はノベルズで読んだ。文庫で上・下本に分冊されている他の作家の作品は数多くある。上・下巻合わせて600~800ページくらいのものが多いと思う。なので本の内容に入る前に、まずこのボリュームが驚きである。読み始めるには少し気合がいる。

 「魑魅魍魎」という熟語がある。手元の『新明解国語辞典 第5版』(三省堂)を引くと、「魑魅」は「山の精。すだま」。「魍魎」は「古代人がその存在を信じていた、山・川や木・石の精」と説明してある。
 本書の冒頭には、『今昔續百鬼・巻之下』に収載の魍魎の絵図が引用掲載され、その続きに、絵図に記載の文が載っている。「魍魎---形三歳の小児の如し、色は赤黒し、目赤く、耳長く、髪うるはし。このんで亡者の肝を食ふと云」と。こちらの方がより具象的な説明となっている。
 いずれにしても、現代人の意識・感覚では乏しくなっている領域になる。自然界にリンクして想像力が生み出した神霊・悪霊の領域、そんな世界を作品の背景に重ねている。こわいもの見たさというムードを漂わせているところが読者の心理としておもしろさの根底にある。
 「匣」は、「①はこ。こばこ。てばこ。②おり(檻)」と説明されている。(『角川新字源』)

 ストーリーは、昭和27年時点の事件として扱われていく。「荒川バラバラ殺人事件が起きたのは今年---昭和27年の5月のことである」(p135)という記述からわかる。

 冒頭に二人の少女が登場する。楠本頼子と柚木加菜子。同じクラスであり、加菜子が頼子に話しかけたことがきっかけで二人は友人となる。加菜子は頼子に「楠本君。君は私の、そして私は君の生まれ変わりなんだ」「私が死んで君になる。君が死んで私になるのさ。死んでしまえば時間なんて関係ない」(p22)という語りかけをする場面がある。また頼子は母との口論の中で「そんなの人間じゃなくて、お化けか、もうりょうです!」(p26)という言葉を母親からなげかけられる。冒頭から異界にリンクする接点が織り込まれている。巧みな伏線が敷かれていく。
 頼子と加菜子は、夏休みの三度目の金曜日に、最終列車に乗って、どこか遠くの湖へ行く約束をした。だが、待ち合わせた駅、中央線武蔵小金井駅のホームで、加菜子は入って来た最終列車が止まる直前に転落し、瀕死の重傷を負う。この列車にたまたま東京警視庁捜査一課所属の木場刑事が乗り合わせていた。

 木場は重症を負った少女の顔を見て、見覚えがあると感じた。そのこだわりが、木場を事件に巻き込んでいく。加菜子が応急処置を受けた病院から、母の柚木陽子は、懇意にしているという「美馬坂(ミマサカ)近代医学研究所」に加菜子を移す。木場は己の本務を棚上げし、上司すら無視して、この研究所に張り付き、この事件に対し単独行動をとるようになっていく。病院を移る時に、加菜子は全身ギブスだらけで身動きできない状態だった。
 この研究所は、神奈川県に所在し、普通の病院とは全く異なり、四階建てくらいに見える完全な立方体の箱のような奇抜な建物だった。建物内部も、奇妙なところである。
 なぜか、その加菜子の誘拐予告状が届いたということで、国家地方警察神奈川県本部から警部以下多数の警察官がこの研究所の警備に集まるという事態に進展する。木場は邪魔者扱いされる。
 そんな最中で、身動きできないはずの加菜子が誘拐されたのだ・・・・・・。

 この事件とはパラレルに、作家関口巽の行動が進展していく。関口は生活の為にカストリ雑誌の生き残り『月刊實録犯罪』に楚木逸巳のペンネームで寄稿している。その出版社・赤井書房の青年編集者鳥口守彦に頼まれる形で、取材活動に関口が巻き込まれる羽目になる。荒川バラバラ殺人事件の後、連続して直近でバラバラ殺人事件が発生していたからである。鳥口が運転するポンコツの車に同乗し、相模湖の現場まで出かけて行く。だが、その後、武蔵野連続バラバラ殺人事件が起こる展開となっていく。
 車で相模湖へ向かう道中で、鳥口は関口に「穢封じ御筥様」というお祓い憑き物落としが流行っていると語った。悪霊とか憑き物を教祖が祈祷して箱の中に祈り封じ込めるというのだ。これが別途、サブ・ストーリーとして動き出す。 
 関口は連続バラバラ殺人事件と「穢封じ御筥様」に関わりを深めて行くことに・・・・。

 さらに、もう一つの動きが加わる。増岡という弁護士が、榎木津礼二郎の探偵事務所に調査依頼を持ち込んでくる。誘拐された加菜子を探すという仕事である。加菜子には遺産相続問題が絡んでいたのだ。榎木津は木場と行動をともにする局面も生まれていく。

 本作には、異質な独白的ストーリーがさらに断続的に挿入され、こちらも怪奇猟奇的点描として進展していく。祖母の葬儀のために休暇を取って郷里に向かう男は、匣を持つ男と乗り合わせる。その男から匣の中に日本人形のような綺麗な娘の顔、胸から上がぴったり入っているのを見せられる。帰郷途中の男はその匣に魅了されてしまう。別れた後に、その男はその匣が欲しくなっていく。幻想的ですらある点描が続く。

 それぞれ異なる観点で活動している主な登場人物が出そろってくる。木場、関口、榎木津。彼らは順次、己の疑問を抱え、古本屋の京極堂を訪ねることになる。中禅寺秋彦は彼らの持ち込んできた情報と状況をじっくりと聴くことから、関りを深めていく。
 これがどうもこの京極堂シリーズの一パターンになりそうな気がする。

 紆余曲折し、複雑に絡みあった情報を、陰陽師でもあり、様々な領域の知識・造詣のある中禅寺秋彦が、情報を整理・分析し、状況を明解にしていく。自らも必要であれば事実を解明するために現場に乗り出していくことを厭わない。
 
 読者をあちらこちらに振り回すストーリーの流れ、その構成がまずおもしろい。
 混沌とした情報群の間で、徐々にそれぞれの相互関係が見いだされていく。その関係性が思わぬ大きな絵を描いていく形となる。この作品の面白さはここにある。
 このストーリーで興味深いことの一つは、中禅寺秋彦が美馬坂を知人として熟知していたという設定である。それは最終段階で初めて明かされる事実なのだが・・・・・。ここで、この点に触れておいても、関心が高まるだけで、本作を読むにあたって特に影響はないだろうと思う。

 本作のおもしろい点としてハコづくしの趣向が組み込まれていることに触れておこう。・列車に乗り合わせた男がもつ匣
・バラバラにされた体の一部を入れたハコ
・美馬坂(ミマサカ)近代医学研究所のハコ形の奇抜な建物
・穢封じ御筥様が悪霊・憑き物を封じ込める箱
・<箱屋>と呼ばれるようになった木工製作所
・風呂屋に預けてあった桐の箱。京極堂は福来友吉助教授の忘れた箱という。
・木場が事件に関わる中で、刑事である己の存在を菓子の空き箱みたいだと感じる
・関口が稀譚舎という出版社で紹介された若手幻想文学界の旗手・久保竣公の部屋の箱
・「怖気づいた。これは開けてはならぬ。穏秘(オカルト)の匣だ」 p1005
・「私は何もかも心の匣に仕舞い込んで、蓋をして、目を瞑って耳を塞いで生きて、
 それが幸せだろうと思えるようになった」 p1006
そして、重要なもう一つの箱について、京極堂が語る箇所がある。それは本作を読んでのお楽しみにとっておこう。

 1027ページ に、「私は、魍魎の匣だ」という一文が出て来る。本作のタイトルはここに由来する。

 最後に、この小説から興味深い記述箇所をいくつか抽出して、ご紹介しよう。
*事件は、人と人----多くの現実----の関わりから生まれる物語だ。
 ならば、物語の筋書きーーーー事件の真相----もまた、関わった人の数だけあるのだ。
 真実はひとつと云うのはまやかしに過ぎぬ。事件の真相などそれを取り巻く人間達が便宜的に作り出した最大公約数のまやかしに過ぎない。   p579

*動機とは世間を納得させるためにあるだけのものにすぎない。
 世間の人間は、犯罪者は特殊な環境の中でこそ、特殊な精神状態でこそ、その非道な行いをなし得たのだと、何としても思いたいのだ。   p717

*事実関係に関する供述は兎も角、自白に証拠性などないと僕は思うがね。
 動機は後から訊かれて考えるものなんだ。   p719

*「犯罪はね、常に訪れて、去って行く通り物みたいなものなんだ」
 通り物といのは妖怪の名である。通り魔と云うのもそもそもその類の妖怪のことだと、京極堂は云っていた。
                       p721

*犯罪は、社会条件と環境条件と、そして通り物みたいな狂おしい瞬間の心の振幅で成立するんだよ。
                       p834

*中身ではなく、外側が決めることも多いのだ。
 箱は、箱自身に存在価値があったのだ。  木場の自己認識として  p864

*京極堂の云う通り、科学とは何も入っていない箱だ。それ自体にどんな価値を見出すのかは、それを用い、使う者次第なのだ。               p959

*いずれにしても関口君。魍魎は境界的(マージナル)なモノなんだ。だからどこにも属していない。そして下手に手を出すと惑わされる。             p1044

 ご一読ありがとうございます。