江戸本場所大相撲における幕内取組に
記録された「無勝負」なる判定。
文政年間25場所と天保年間27場所と
では様相が対蹠的と云ってもいいほど
ちがっている。
先ず、文政期では文政七(1824)年春
場所、76番の取組のうち無勝負はゼロ
である。〔引分け1、預り0。〕番附の
大関は柏戸利助と玉垣(←越ノ海)が最
後に対峙している。
もう1場所、文政さいごの十三年冬
も84番の取組で無勝負ゼロだった。尚、
引分け8、預り6が記録に残っている。
ところが、天保年間で無勝負なしは、
二年冬、四年冬、六年冬、翌七年冬、
九年春、十年春・冬、翌十一年冬、十
三年冬、翌十四年冬━以上、丁度10場
所にのぼっているのだ。
これは、大胆に推察すれば「天保の
改革」の波及・影響で、できるかぎり
勝負の判定の“曖昧さ”を少なくしてい
こうとする方針が「暗黙の諒解」の如
し━と、云っても「取直し」制実施が
想定外だったのは間違いないけど…。
記録された「無勝負」なる判定。
文政年間25場所と天保年間27場所と
では様相が対蹠的と云ってもいいほど
ちがっている。
先ず、文政期では文政七(1824)年春
場所、76番の取組のうち無勝負はゼロ
である。〔引分け1、預り0。〕番附の
大関は柏戸利助と玉垣(←越ノ海)が最
後に対峙している。
もう1場所、文政さいごの十三年冬
も84番の取組で無勝負ゼロだった。尚、
引分け8、預り6が記録に残っている。
ところが、天保年間で無勝負なしは、
二年冬、四年冬、六年冬、翌七年冬、
九年春、十年春・冬、翌十一年冬、十
三年冬、翌十四年冬━以上、丁度10場
所にのぼっているのだ。
これは、大胆に推察すれば「天保の
改革」の波及・影響で、できるかぎり
勝負の判定の“曖昧さ”を少なくしてい
こうとする方針が「暗黙の諒解」の如
し━と、云っても「取直し」制実施が
想定外だったのは間違いないけど…。