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ヨハネ福音書第14章研究

2017-04-24 10:29:03 | 聖研
ヨハネ福音書第14章研究
イエスの弟子たちに対する最後の教えと離別

(参照:原本ヨハネ福音書研究より抜粋(第14章
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/7bf002645238fa292d15b1cd87f8bfa6 )

ヨハネ福音書における、この部分はいわゆる「最後の晩餐」といわれる部分の後半部分で、「最後の教えと離別」と題される。実質的には13:31~14:31がひとくくりになっている。
いわゆる洗足の出来事があって、食事が始まり、その途中でユダが食事会場から出て行ったところから始まる。
ユダが出て行くのを見て、イエスのトークが始まる。途中、弟子たちの質問などがあるが、全体としてはイエスの話である。全体で39節あるが、その内の20節はいわゆる教会的編集者(以下ここでは「編集者」と略称する)の挿入句で、14:22のイスカリオテでない方のユダの質問以外は、すべてイエスの言葉である。原本の部分に関しては既に現代文化しており解説もしているが、挿入部分については手つかずのままであるので、今回この部分について分析を試みたい。なお、原本部分は私の個人訳であり、編集者による挿入部分は、田川建三訳に従っている。

1.冒頭部分(13:31~35)
イエスの「今や人の子は栄光化され、神も人の子において栄光化された」(31)という言葉を受けて、シモン・ペテロが「主よ、 あなたはどこに行かれるのですか」(36)とペトロが質問する。このイエスとペトロとの会話の間に編集者の言葉(32~35)が挿入される。
もしも神が彼において栄光化されたのであれば、神もまたみずからにおいて彼を栄光化するであろう。そしてすぐに、彼を栄光化するであろう(32)。
子らよ、まだ少し、私はあなた方とともにいる。あなた方は私を捜すであろう。そして、ユダヤ人たちに私が言ったように、 私が行くところにあなた方は来ることができない、ということを、今、あなた方にもまた言うのである(33)。

新しい戒命をあなた方に与える。互いに愛しあう、という。私があなた方を愛したように。あなた方もまた互いに愛しあう、という。 その点において、(すなわち)もしもあなた方が互いにおいて愛を持つならば、 あなた方は私の弟子である、ということをすベての人が知るであろう(34~35)。
編集者は31節のイエスの言葉が読者に伝わらないと感じたらしく、それを32節で説明しているつもりであろう。イエスの言葉を直訳すると、「今や人の子は栄光化され、神も人の子において栄光化された」(田川訳)。これを岩波訳(小林稔)では「今、人の子が栄光を受け、彼において神が栄光をうけた」である。カトリックのフランシスコ会訳では「今こそ、人の子は栄光を受けた。神もまた人の子によって栄光をお受けになった」で、ほとんど同じであるが、問題は「今や」をどう解するのか。ユダが出ていった「今」なのか、ユダが出ていくことによって「何かが始まる今」なのか。ともあれ、ここでの「今」はイエスがズッと待ち続けていた「私の時」(2:4)なのか。恐らく後者であろう。カナの婚礼の場での奇跡が行われたとき著者は「みずからの栄光を顕わした」(2:11)。しかしあの時の栄光(ドクサ)の顕れとは、未だ「私の時」ではないという場面での栄光であった。それを著者はイエスが行った「最初の徴」という。ところが13:31では「人の子は栄光化された(ドクサゾー)」という。この「栄光化」という動詞をどう解釈するか、これだヨハネ福音書を解釈する場合の一つの問題である。田川はドクサゾーをドクサ(栄光)という名詞を他動詞化したもので「〜〜に栄光を与える、栄光を帰する」という意味であるという。通常ではこういう場合にドクサという名詞に「与える」とか「顕す」という動詞と組み合わせて用いるが、ヨハネはイエスの場合に限ってドクサゾーという言葉を用い、「栄光ある存在そのものにする」という意味に用い、「復活させる」とほとんど同じ意味に用いられている、という(p.392)。
従って、13:31では、それがさらに受け身形にされている。かなりぎこちないが直訳風に訳すと、「人の子は栄光そのものとされ、神も人の子において栄光そのものとされた」という意味となる。ところで「栄光化する」ということは突き詰めた意味は、誉める、誉め称える、栄誉を授ける、崇める、評価するという意味である。それを神に対して限定的に用いる場合、神を神とする、神を神と認めるという意味に他ならない。この場合、神については「人の子において」という言葉があるが、人のこの場合には誰によって栄光そのものとされたのが欠けている。それで編集者は「神が人の子において栄光あるものとされたのであるならば、神もまた神自身において人の子を栄光あるものとし、同時に神自身をも栄光あるものとしたのだ」と解説している。(ここでの代名詞と能動態受動態の使い分けが非常に曖昧である)。
つまり13:31の意味するところは、「人の子は神であると認められた。そして神も人の子において神と認められた」という意味であることは明白である。ちなみに、この理解を1:14の「そしてロゴスは肉となった。そして我々の間に住まった。そして我々は彼の栄光を見た。父の傍らでの一人の子としての栄光である。恵みと真理に満ちて」というヨハネ神学を凝縮した言葉は、「我々は彼の栄光を見た」という言葉は「彼が神であることを見た。父(なる神)の傍らでの一人の子としての神である」と読むことになる。
そして33節は36節以下のペトロの質問へと繋ぐセリフとなっている。このセリフがないと36節のペトロの質問は唐突で、イエスの言葉とちぐはぐになる。その意味から見ると、33節は原本に属すると見ることが自然ではあるが、ここで用いられている「子らよ」という表現は原本にはなく、むしろ編集者の好みのセリフである。従って元々あった言葉を改変したか、あるいは編集者が自らの判断でこのセリフを挿入したかである。私はむしろ後者に近いのではないかと思っている。
34節~35節の「新しい戒め」という言葉遣いは明らかに旧約聖書における律法に対するイエスの律法という意味であり、この語をこういう意味で用いるのは編集者の特徴である(14:15、21、15:10以下)。しかし、この文章はいかにも唐突でこの文脈にはなじまない。明らかにこの文章を除く方が文章の流れはスムーズである。なぜ編集者はこの言葉をここに挿入したのだろうか。その理由は分からないが、考えられる一つの理由は、洗足の出来事の際の教え(13:13~15)と14:21節以下の編集者の挿入とを繋ぐの伏線だろうと思われる。

2.シモン・ペトロの質問(36~38)
36節のシモン・ペトロの問いは、33節の言葉がないと唐突である。むしろ、唐突であることに意味があるのではないだろうか。つまり31節のイエスの言葉をペトロは理解できなかったのではなかろうか。しかし、ここ3年間の付き合いの中で、イエスには弟子たちには理解できない何かがある。出会った当初から、「その時が未だだ」という言葉が繰り返されてきた。そして、今は「その時」は近いと感じている。とくに洗足の出来事はイエスとの別離を予感させたのであろうと思う。これまでの付き合いの中で分からなかったことの一つが、ヨハネ7:32以下での出来事である。あの時は、仮庵の祭で町は大変に賑わっており、ユダヤ人のリーダーたちは、イエスの動きに何か異常さを感じ非常に緊張していた。そのために下役がイエスを逮捕するために派遣された。あの時、イエスは「あなたたちでは私を逮捕することができない」と語り、「しばらくはここにいるが、その内姿を消す」と言われたのである。そして「あなたたちは私を探しても私を見つけることができない」と意味深長なことを語っている。それをペトロたちも聞いている。イエスにはどこか「隠れ家」があるのじゃないかということが、その時問題になっている。これがイエスの謎である。だから何かが起こるとき、イエスはどこかに行かれる。それがどこか弟子たちにも分からない。だからギリシャ人がイエスに会いに来たときのイエスの姿勢といい(12:20~)、弟子たちの足を洗ったときのイエスの語りといい、いよいよ「その時が来た」とペトロは感じていたにちがいない。それで、イエスが意味不明なことを打ち明けられたとき、ペトロは、「どこに行かれるのですか」という質問になった、と私は思う。ところが、その時のイエスの返事が、ペトロの気持ちを逆なでするような言葉であった。それが36節~38節である。

3.「その場所」(1~3)
その上で、イエスは非常に重要なことを語られた。「あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい。たとえこの世でどんなことがあっても、あなた方は究極的な安息の地が与えられているのです。私の父の家にはあなた方のために永遠に憩う場所が備えられています。そうでなければ、私はあなた方のために場所を用意しに行くと言ったでしょう」(14:1~2、文屋訳)。ここまでが原本ヨハネ福音書のイエスの言葉である。ここで編集者は彼の解釈(3節)を挿入する。「そしてもしも私が赴いて、あなた方のために場所を用意するのであれば、私は再び来て、あなた方を私自身のところに引き取るであろう。私がいるところに、あなた方もいるためである」。
イエスは、もう既にその場所は準備できている、と言っているのに、編集者は、それを将来のこととして説明する。つまり、イエスはこれから、そこに行って場所を準備し、それから迎えに来ると言うのである。ここには明らかに初代教会における再臨信仰の匂いがする。イエスの言葉は4節に続く。
「私がどこに行くのかということも、その道もあなた方は知っています」(4節)。
それを受けて、トマスの質問が発せられる。ここから11節までの原本の言葉である。ここにあの有名な「私が道であり、真理であり、生命なんです」(6節)という言葉が含まれている。

4. 「助け手なる聖霊、真理の霊」(12~25)
次に編集者の挿入句が現れるのは12節から25節まで。かなり長い。もはや、挿入句というレベルを超えて編集者の演説みたいなものである。この部分は以下のように5つの部分に分けられる。

(1)「アメーン、アメーン、汝らに告ぐ、私を信じる者は、その者もまた私がなす業をなすであろう。そしてそれよりもっと大きな業をなす。私が父のもとに行くからである。そしてあなた方が私の名において求めるものがあれば、私がそれをなすであろう。子において父が栄光化されるためである。もしもあなた方が私の名において私に何かを求めるならば、私がそれをなすであろう。もしもあなた方が私を愛するならば、私の戒命を守るがよい。(12~15)
この部分は明らかに10節~11節のイエスの言葉を発展させている。イエスの行う行為はすべて父なる神の意志であり、父なる神の行為と見なすことができる。この理屈をイエスの弟子たちが行う行為に当てはめて、「イエスにある」限り、弟子たちの行為はイエスの行為と見なされるのだ、と展開させている。

(2) 私もまた父に頼んで、他の助け手をあなた方に与えるであろう。その助け手はあなた方とともに永遠にいることになる。 それは真理の霊、世が受けることができないものである。世はそれを見ることも認識することもないからである。あなた方はそれを認識する。それがあなた方のもとにとどまり、あなた方の内にあるからである。(16~17)
「イエスにある」とは一体どういうことか、ということで、ここで初めて「助け手としての聖霊」についての論述が展開される。ここで「助け手」と訳されている言葉は「パラクレートス」で、口語訳では「助け主」、新共同訳では「弁護者」で、もともとの意味は「助けてくれー」と叫んだときに助けてくる者を意味する。聖霊をパラクレートスと述べているのはヨハネ文書だけである。イエスご在世の時はイエスが助け手であるが、イエスは世を去る。それで聖霊は永遠に存在する助け手となる。また、ここでは聖霊を「真理の霊」とも言う。これもヨハネ独自の聖霊論である。興味深い点は、ヨハネ第1の手紙では「真理の霊」と「人を惑わす霊」(1ヨハネ4:6)とが対比されている。
恐らく編集者は、この部分を書きながら、その不十分さを強く感じていたのかも知れない。この部分を本格的に論じているのが15章であると想像される。

(3) 私はあなた方を孤児として放棄することはしない。あなた方のところに来る。もう少しすると、世も私を見ることができなくなるだろう。しかしあなた方は私を見る。私が生きており、あなた方も生きているからである。その日にはあなた方は、私が私の父の中におり、あなた方も私の中におり、私もあなた方の中にいる、と知るであろう。私の戒命を持ってそれを守るものは、私を愛する者である。私を愛する者は私の父によって愛される。そして私もその者を愛し、その者に私を示すことになる」(16~21)。
父(なる神)と子と、弟子たちとの関係が「の中にいる」ということで論じられる。その関係を成立させているのが聖霊である。

(4) 彼にイスカリオテ人ではない方のユダが言う、「主よ、あなたが我々には御自身を示そうとし、世に示そうとはなさらないということが、何故生じたのですか」(22)。
弟子の一人、イスカリオテでない方のユダの質問は弟子たちの特殊な立場についてで、弟子以外のものとの違いについてである。「イスカリオテでない方のユダ」が登場するのは新約聖書全体でもここだけである。

(5) イエスは答えて、彼に言った、「もしも私を愛する者がいれば、その者は私の言葉を守るであろう。そして私の父もその者を愛し、私たちは彼(=神)のところに来たり、彼(=神)のもとで自分のために滞在場所を作るであろう。 私を愛さない者はわたしの言葉を守らない。そしてあなた方が聞くことはわたしの言葉ではなく、私を遣わし給うた父の言葉である。これらのことは、私があなたがのもとに居た時にすでに語ったことである(23~25)。
弟子たちとこの世の人々との決定的な違いとは「愛」である。つまり上で述べた、「の中に」とは愛なのである。この辺りは明らかにヨハネ第1の手紙の神学である。
聖霊論と愛の神学を語ったところで、26節のイエスの言葉につなげる。11節から26節に直接繋ぐと次のような文章になる。
「私が父の中に、また父が私の中に、ということについては、私を信じてください。私が信じられないなら、私の働き、私の生き方を信じればいいでしょう。
これらのことについては、今はまだ十分に理解出来ないかも知れませんが、父が私の名において遣わして下さるであろう助け手、すなわち聖霊のことですが、あなた方にすベてのことを悟らせ、また私があなた方に言ったすベてのことをあなた方に思い起こさせて下さるでしょう。だからあなた方は何も心配することはありません」(文屋訳)。非常にスムーズな文章になる。

5.締めくくりの言葉(27~28)
27節の言葉「私はあなた方に平安を残していきます。それは私の平安です。私は、世とは違う仕方で、私の平安をあなた方に与えます。だからあなた方はどんなことが起こっても怯えないで、落ち着いていなさい」は、14:1の「あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい」で始まる一連のトークの結びの言葉として相応しい。
ここに編集者は次の言葉を補う。
「私は去り、そしてあなた方のもとに来る、と私があなた方に言ったのをあなた方は聞いた。もしもあなた方が私を愛しておいでだったら、私が父のもとに行くことを喜んだことであろうに。父は私よりも大いなる者であるからである」(28)
ひと言で言って、言わずもがなの無駄な加筆である。29節以降のイエスの言葉だけで十分である。
「今、そのことをあなた方に言っておくのは、それが実際に起こってきたときに、あなた方が信じ続けることが出来るためなのです。もうこれ以上、あなた方に話しておかねばならないことはありません。兵士たちが近づいています。しかし彼らは私とは何の関係もないのです。しかし世界が、私が父を愛し、父が私に命じたままに私が行動していたことを知るためなのです。さぁ、立ち上がりなさい。出かけましょう」(29~31)。

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