神が宿るところ

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加波山三枝祇神社本宮・親宮(常陸国式外社・その11の2)

2021-01-09 23:29:09 | 神社
加波山三枝祇神社本宮・親宮(かばさんさえなずみじんじゃほんぐう・しんぐう)。通称:加波山神社本宮・親宮。
場所: (里宮)茨城県桜川市真壁町長岡798。「加波山神社」(前項)真壁拝殿の手前、約300m。駐車場有り。
社伝によれば、第12代・景行天皇41年、日本武尊が東夷征伐の帰途、加波山に至り、神託により社殿を建てたのを創祀とする。その後、茨城国造家の三枝部連がその祖神を祀ることにより「三枝祇神社」と改称した。神護景雲2年(768年)に社殿が建立され、大同年間(806~810年)には仏教僧が入山して別当寺院を創立したことにより、以後、両部神道(真言宗による神仏習合)の時代に入り「加波山権現」と称された。多数の修験者が集まったが、三派に分かれ、室町時代の第100代・後小松天皇(在位:1382~1412年)のときに「中宮」=「文殊院」、「本宮」=「正幢院」、「親宮」=「円鏡寺」の3社体制となった。明治時代に入り、神仏判然令により、それぞれ神仏分離して神社となった(寺院は廃寺)。「中宮」は郷社「加波山神社」(前項)となり、「本宮」・「親宮」は「三枝祇神社本宮」・「三枝祇神社親宮」として村社に列せられた。大正時代に「親宮」は「本宮」の管理下に入り、「親宮」の里宮は廃され、「本宮」の里宮に合併された。ということで、宗教法人格は別だが、「本宮」と「親宮」は実質一体と見てよい。現在の主祭神は伊弉冊大神(イザナミ)、速玉男大神(ハヤタマオ)、事解男大神(コトサカオ)。
さて、「加波山権現」を、「日本三代実録」貞観17年の記事にみえる「常陸国の正六位上・三枝祇神に従五位下を授ける。」の「三枝祇神」に比定するのが通説のようであり、であれば、当神社も式外社(国史見在社)であるということになる。「加波山神社」(「中宮」)と当神社は不仲であるようで、当神社が「加波山(神社)」の名を使うことは「不正」だと言っている。また、「加波山神社」(「中宮」)が「由緒古く正しい」から郷社となり、当神社は村社となったとしている。一方で、「加波山神社」(「中宮」)は式外社であることをあまり主張していないが、当神社は式外社「三枝祇神」であることを殊更に強調しているようにも思われる。社伝では、天文15年(1546年)に真壁城主・真壁安芸守家幹が社殿を再建した際、「加波山三枝祇社壇」という改築記念寄進額を受けたとされる。「三枝祇神」というのが、3柱の神を祀ったことによるものか、3社体制であることによるものか、あるいは、それ以外の意味があるのか、今となっては何とも言えないのだが。。。


加波山神社本宮のHP


写真1:「加波山三枝祇神社本宮・親宮」入口。社号標は「三枝祇神社 加波山本宮」。


写真2:一の鳥居。扁額は「延喜式社 加波山大神」(式内社ではないはずだが。)


写真3:境内の社号標。こちらは「国史所載社 式外有位神社 加波山本宮」。


写真4:境内


写真5:社殿。こちらに掛かる額は「延喜式社 加波山本宮親宮 合祀殿」となっている。


写真6:境内社「加波山五社稲荷」


写真7:裏参道
コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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Unknown (mitgak)
2021-01-10 19:29:58
こんばんは。
扁額の件は、昔神社でお聞きしたことがありますが、式内とは書いてないので延喜式内社ではなく延喜の年代にはあったという意味での記述とのことでした。でも式社も式内社も同じ意味にとってしまいますよー
Unknown (ブログ管理人)
2021-01-11 08:22:46
mitgakさま、いつもありがとうございます。
「式社」=「式内社」だと思うし、「式外社」といえば、単に延喜式に所載のないということではなく、その時点で存在した神社という意味で使っていますよね。
延喜式にばかり拘るのも、どうかとは思いますが、由緒と格式の点では一定の意味があるのでしょう。日本の神社の神階は面白くて、必ずしも祭神に関係がない(例えば、「伊勢神社」だからといって高いわけではない。)ので、地域性も出て、興味深いですね。

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