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神が宿るところ

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高萩八幡宮

2025-06-30 23:33:57 | 神社

高萩八幡宮(たかはぎはちまんぐう)。正式には単に八幡宮。通称:安良川八幡宮。
場所:茨城県高萩市安良川1180。国道461号線「安良川西」交差点から西へ約230mで斜め右の道路に入り(「総鎮守八幡宮 入口」の大きな看板あり。)、北へ約230mで一の鳥居前。国道から先の道路は狭いので注意。駐車場は鳥居横のほか、北へ約160m進んだところにもある。なお、国道に面して石段の参道がある。
社伝によれば、寛和元年(985年)、第65代・花山天皇の勅宣により藤原左京太夫と京都「鞍馬寺」の僧・修多羅大徳権興が「男山八幡宮(現・「石清水八幡宮」)」(現・京都府八幡市)の分霊を勧請して常陸国多賀郡松原郷に創建した(「浜の宮」)。永承6年(1051年)、源頼義・義家が「前九年の役」のため奥州に下る際、当神社に戦勝を祈願し、「後三年の役」後の寛治年間(1087~1094年)、帰路において多賀郡守護・宇佐美左衛門時景に命じて社領200丁(町)を寄進し、多賀郡33郷の総社として現在地に遷座した。鎌倉時代以降も、佐竹氏を始めとして近隣領主の崇敬を受け、寄進・社殿造営などが行われた。慶長7年(1614年)、徳川家康から45石の朱印地を受ける。江戸時代に入り、水戸藩第2代藩主・徳川光圀は寺社改革の一環として所謂「八幡潰し」を行い、藩内105社あった「八幡宮」・「八幡神社」のうち、残ったのは当神社など4社のみだったという。光圀の「寺社改革」や「八幡潰し」の意図については諸説あるが、当神社の場合、由緒などに加え、一般庶民の崇敬が篤く、神社維持の経済基盤の厚さも評価されたと考えられている(なお、このとき、供僧や別当寺院は廃されたという。)。元禄10年(1697年)社殿造営されたが、江戸時代には町衆により崇敬維持され、多くの寄進があった。明治14年に郷社、昭和13年には茨城県内の日立以北で唯一の県社に列格した。現在の祭神は誉田別命(応神天皇)、日女大神、神功皇后。
蛇足:現・高萩市の安良川海浜に「松原千軒」という栄えた集落があったが、度々高浪に襲われて民家が流される被害があったため、高台に移住したという。


高萩八幡宮のHP

茨城県神社庁のHPから(八幡宮)


写真1:「高萩八幡宮」参道入口。社号標。


写真2:一の鳥居(大鳥居)


写真3:一の鳥居横の境内社「稲荷神社」


写真4:参道。結構な太さの杉が並んでいる。


写真5:境内社・市杵島神社。池は河童伝説があるとのことで、「河童池」という。


写真6:二の鳥居


写真7:拝殿


写真8:本殿


写真9:境内社・天満宮


写真10:本殿の左側にある御神木「爺杉」。高さ約42m、幹回り約10m、推定樹齢約1000年という。国指定天然記念物。


写真11:同上。手前の「白蛇」像は、「息を止めて爺杉の回りを三周すると白蛇が現れ、願い事を叶えてくれる」という伝承に因むもの。保護のため、現在は「爺杉」の近くに立ち入れないが、この「白蛇」に祈願するのだろう。


写真12:「婆杉石」。かつて「爺杉」と夫婦杉といわれた「婆杉」(樹齢約800年)があったが、昭和34年の伊勢湾台風で被害を受け、その後伐採された。その切株跡に石を置いたもので、この石を撫でて夫婦円満などを祈るという。


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