関戸神社(せきどじんじゃ)。通称:関戸米大明神(せきとめだいみょうじん)。
場所:茨城県久慈郡大子町頃藤6506。国道118号線「滝倉入口」交差点から北へ約350m(「山間地帯特産指導所」という案内板があるところ)で左折(西へ)、約450m進んで突き当りを左折(南へ)、約40mで狭い道路に直進、約80mで鳥居前。鳥居前は狭いので、国道から約400m進んだ南側に広場があり、ここに駐車できる模様(社殿横に出る小径がある。)。
社伝によれば、大同元年(806年)の創建。当地は、陸奥国白川(白河)郡と常陸国久慈郡との国境とされ、境の明神として信奉されたという。永承6年(1051年)、八幡太郎こと源義家が北征のとき当神社に立ち寄り、宝刀一振を奉献して戦勝祈願した。その後、義家の弟・新羅三郎こと源義光が常陸介となったときに社殿を修営し、「比藤(頃藤)城」を築いた山田左近大夫通定に春秋の祭祀を行わせた。その後の戦乱で荒廃し、一時、「宮平」(現・大子町頃藤の曹洞宗「長福寺」付近)に移されていたが、佐竹氏が常陸国守護として当地を支配すると、「頃藤城」を再建した佐竹氏庶流の小川大和守義継(佐竹氏第6代・義胤の四男)が元の鎮座地(「頃藤城」三の丸)に戻し、小川氏が代々祭儀を司ったという。なお、現・大子町は、古代には陸奥国白河郡依上郷に属していたが、永正年間(1504~1521年)に佐竹氏の所領となって、以来常陸国に属するようになった。当地に関所があったという史料はないようだが、古来より「関戸米大明神」と称され、疫病や不幸災難が村に入ることを防ぐ(せき止める)神として厚く信仰された。「水戸藩神社録」に「関戸明神社、神宝青玉白玉一顆あり」と記されているが、祭神の記録はない。現在の祭神は天津彦根命であるが、記紀において茨城国造の祖とされているところから、近世に祭神としたものであろうという。
因みに、「今昔物語集」(巻第27第45)に次のような話が記載されている。「近衛舎人(宮中の護衛、近侍などを行う下級官吏)で歌謡に巧みな者がいた。相撲取りを召すために東国に下ったときに、陸奥国から常陸国へ越える「焼山関(たきやまのせき)」という深い山を通った。馬上で居眠りをしていたが、ふと目を覚ますと「ここは常陸国だな、ずいぶん遠くまで来たものだ」と思うと心細くなり、「常陸歌」(常陸国の通俗歌)を2~3回繰り返して歌った。すると、山の中から「何とも愉快なことよ」という恐ろしい声と拍手が聞こえた。とても怖い思いをしながら通り過ぎたが、その後病みつき、そのまま宿で死んでしまった。だから、深い山の中で、その土地の歌など歌うものではない。山の神が感心して、引き留めることがあるからだ。・・・」(現代語訳、適宜一部省略)。この「焼山関」というのが、現在の当神社の辺りであるとされている(ただし、大子町に北田気・南田気という地名(大字)があり、こちらを「焼山関」のあった場所とする説もある。)。
茨城県神社庁のHPから(関戸神社)
大子町文化遺産のHPから(関戸神社(焼山関))
写真1:「関戸神社」鳥居
写真2:社号標
写真3:拝殿
写真4:本殿。江戸時代中期の建造で、狩野派の画風による華麗な彫刻があるとのことで、透明なアクリル板張りの覆屋の中にあるが、外からではよく見えないのが残念。
写真5:境内社「稲荷神社」
写真6:同「白山神社」ほか。
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