神が宿るところ

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堂の前遺跡(出羽国分寺・その2)

2016-01-09 23:25:32 | 史跡・文化財
堂の前遺跡(どうのまえいせき)。
場所:酒田市法連寺字堂ノ前5-2ほか。国道344号線と山形県道59号線(酒田八幡線)の交差点(東北角に産直販売所「産直たわわ」がある。)から南に約300m進んだところの東側(田圃の中)。駐車場なし。
「堂の前遺跡」は、平安時代の出羽国府に比定されている「城輪柵(跡)」(2015年12月26日記事)の東、約1.5kmのところにある遺跡で、(平安時代の)「出羽国分寺」跡とする説が有力になっている。この遺跡は、昭和30年に大量の木材や土器が発見され、昭和48年から行われた発掘調査の結果、この木材は建物基壇の基礎工事としての筏風地業であることが判明したとされる。即ち、材木層の上に積土層とバラス(砕石)層を置き、周辺を13m×13.5mの規模で掘立柱列を廻らせてある。この建物の北から西~南へと流れる溝が掘られ、西側には4間×2間の建物2棟の跡、北側にも柱穴があって、掘立柱建物群があったことが判明した。これらの柱をみると、柱間が15尺(約4.5m)、柱径が1尺8寸(約55cm)という大きなものだった。また、東西240m、南北265m(2×2.2町)の板塀跡、南門跡等も発見され、こうした大型建物群の跡、古建築材の遺存、筏地業や溝などの工法など、珍しい所見が多かったことから、昭和54年に国史跡に指定された。なお、出土品等により、掘立柱建物は10世紀頃のものと推定されているとのこと。
「出羽国分寺」については、弘仁11年(820年)頃に成立した「弘仁式」主税式(断簡)に「国分寺の出挙稲が4万束であること」が記されており、「続日本後紀」の承和4年(837年)の記事に「出羽国司小野宗成の要請により、出羽国最上郡に「済苦院」という寺院の建立を許可した。また、宗成が司る国分二寺に仏菩薩と4千余巻の経巻を書写して奉納した・・・」というものがある。よって、9世紀前半に国分寺・国分尼寺があったことは確実とみられている。なお、この「続日本紀」の記事から、(「済苦院」とともに)「出羽国分寺」が現在の山形県最上地方にあったとする説もある(因みに、古代の最上郡は現在の山形県村山地方を含んでいて、仁和2年(886年)に2郡に分けられ、北側が「村山郡」、南側が「最上郡」となったらしい。)。しかし、「最上郡」の「出羽国分寺」跡が具体的に示されていないこと、「城輪柵跡」が9世紀初め以降の「出羽国府」跡であることがほぼ確実とみられること、「城輪柵跡」至近の位置にあり条里が一致する「堂の前遺跡」で大規模な建物群が出土したことから、「堂の前遺跡」がやはり(平安時代の)「出羽国分寺」跡であることもほぼ確実とされているようである。
ところが、延長5年(927年)に完成したとされる「延喜式」には、「出羽国分寺」は見えない。記事の欠落とする説もあるが、10世紀初め頃に「出羽国分寺」が存在しなかったとする説も有力。というのは、嘉祥3年(850年)の地震によって大きな被害を受けた可能性が高いとされているかららしい。ただし、上記の通り、発掘結果では10世紀に掘立柱建物(堂塔?)が存在したことが確実視されているので、その後、再建されたものだろうか。終末は不明で、「城輪柵」の衰退が10世紀後半頃とされているが、これと同じ経過を辿ったのか、それとも寺院として独立して存続したのか、全くわからない。
ちなみに、「出羽国分尼寺」跡については不明で、「高阿弥田遺跡」(酒田市横代)、「庭田遺跡」(酒田市庭田)等が候補になっている。


「文化遺産オンライン」HPから(堂の前遺跡)

「山形の宝 検索navi」のHPから(堂の前遺跡)


写真1:「堂の前遺跡」。説明板のほかには、何も無い。


写真2:同上
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