香取神社(かとりじんじゃ)。通称:野友香取神社。
場所:茨城県鉾田市野友899-1。茨城県道2号線(水戸鉾田佐原線)と同184号線(島並鉾田線)の「串挽」交差点から北西へ約1km(ガソリンスタンド「ENEOS鉾田南SS」の先)の丁字路交差点を左折(西へ)、約500mで左折(以下、狭い道路なので注意)、南へ約270mで突き当たり、鳥居横に着く。駐車場なし。
社伝によれば、建長3年(1251年)の奉斎という。野友村の鎮守であり、明治14年、村社に列格。祭神:経津主命。
社伝とは別に、「常陸国風土記」行方郡の条に記載された「当麻郷の2つの神子之社(常陸国一宮「鹿島神宮」と下総国一宮「香取神宮」の分祠)」を当神社のこととする説がある。「当麻郷(たぎまのさと)」は、現・鉾田市当間が遺称地というのが通説だが、巴川が古代の行方郡と香島郡の郡境であったとすると、現・鉾田市当間は香島郡の域内になってしまう(「鹿島神社」(前項)参照)。そこで、古代の当麻郷は現・鉾田市当間より広く、巴川右岸(南岸)の現・鉾田市野友(旧・野友村は近世には行方郡に属した。)も含まれていたとして、野友の鎮守である当神社に比定するものである。境内の植樹記念碑(昭和53年)の碑文に「野友香取神社は創立極めて遠く 古く常陸風土記にも記述されていて・・・」とあるのは、この趣旨だろうと思われる。なお、この碑文だけでは、「鹿島神社」のことは不明。野友には「鹿島神社」の小祠もあるらしいが、そちらは詳細不明で、探したが見つけられなかった。
因みに、当神社の北側・西側から古代の製鉄用窯跡が多数発見され、鉄滓や鞴(ふいご)の羽口などが出土し、製鉄を行っていた人々の集落があったらしい。当神社の境内社に「金毘羅神社」があるが、その祭神は金山彦命で、鉱山・金属・鍛治などの神である(「金毘羅神社」の総本社である現・香川県琴平町の「金刀比羅宮」の祭神は大物主神だが、茨城県内では「金毘羅神社」で祭神を金山彦命とする例は少なくないようである。)。また、上記の植樹記念碑によれば、かつては巨松の森があったらしいので、これも製鉄の名残りかもしれない(砂鉄を熔かすための燃料として松の木を大量に使う。)。「常陸国風土記」によれば、当麻郷には鳥日子という佐伯(土着の先住民)がいて、日本武尊に逆らったために、あっさり殺されてしまったというが(「鹿島神社」(前項)参照)、これはヤマト政権側が製鉄集団を手に入れる目的だったのではないかとする説がある。もちろん、佐伯自らが「香取神社」を勧請するはずはないから、ヤマト政権側が佐伯の征圧のために置いたということになるのだろう。
写真1:「香取神社」鳥居
写真2:境内。入口は狭いが、奥に広がっている。
写真3:拝殿
写真4:本殿。なお、元宮は現在位置から約30m北東にあったという。
写真5:「植樹記念」碑
場所:茨城県鉾田市野友899-1。茨城県道2号線(水戸鉾田佐原線)と同184号線(島並鉾田線)の「串挽」交差点から北西へ約1km(ガソリンスタンド「ENEOS鉾田南SS」の先)の丁字路交差点を左折(西へ)、約500mで左折(以下、狭い道路なので注意)、南へ約270mで突き当たり、鳥居横に着く。駐車場なし。
社伝によれば、建長3年(1251年)の奉斎という。野友村の鎮守であり、明治14年、村社に列格。祭神:経津主命。
社伝とは別に、「常陸国風土記」行方郡の条に記載された「当麻郷の2つの神子之社(常陸国一宮「鹿島神宮」と下総国一宮「香取神宮」の分祠)」を当神社のこととする説がある。「当麻郷(たぎまのさと)」は、現・鉾田市当間が遺称地というのが通説だが、巴川が古代の行方郡と香島郡の郡境であったとすると、現・鉾田市当間は香島郡の域内になってしまう(「鹿島神社」(前項)参照)。そこで、古代の当麻郷は現・鉾田市当間より広く、巴川右岸(南岸)の現・鉾田市野友(旧・野友村は近世には行方郡に属した。)も含まれていたとして、野友の鎮守である当神社に比定するものである。境内の植樹記念碑(昭和53年)の碑文に「野友香取神社は創立極めて遠く 古く常陸風土記にも記述されていて・・・」とあるのは、この趣旨だろうと思われる。なお、この碑文だけでは、「鹿島神社」のことは不明。野友には「鹿島神社」の小祠もあるらしいが、そちらは詳細不明で、探したが見つけられなかった。
因みに、当神社の北側・西側から古代の製鉄用窯跡が多数発見され、鉄滓や鞴(ふいご)の羽口などが出土し、製鉄を行っていた人々の集落があったらしい。当神社の境内社に「金毘羅神社」があるが、その祭神は金山彦命で、鉱山・金属・鍛治などの神である(「金毘羅神社」の総本社である現・香川県琴平町の「金刀比羅宮」の祭神は大物主神だが、茨城県内では「金毘羅神社」で祭神を金山彦命とする例は少なくないようである。)。また、上記の植樹記念碑によれば、かつては巨松の森があったらしいので、これも製鉄の名残りかもしれない(砂鉄を熔かすための燃料として松の木を大量に使う。)。「常陸国風土記」によれば、当麻郷には鳥日子という佐伯(土着の先住民)がいて、日本武尊に逆らったために、あっさり殺されてしまったというが(「鹿島神社」(前項)参照)、これはヤマト政権側が製鉄集団を手に入れる目的だったのではないかとする説がある。もちろん、佐伯自らが「香取神社」を勧請するはずはないから、ヤマト政権側が佐伯の征圧のために置いたということになるのだろう。
写真1:「香取神社」鳥居
写真2:境内。入口は狭いが、奥に広がっている。
写真3:拝殿
写真4:本殿。なお、元宮は現在位置から約30m北東にあったという。
写真5:「植樹記念」碑
ヤマト政権などと言う言葉は江戸時代には全く無かったのではありませんか?そもそもヤマト政権って何ですか?現在の学校(今の小学校や中学校などの歴史の教科書等を使った歴史の授業)で習ったことを絶対視するのは良くないと思います。多分、戦前(第2次大戦中や以前)の日本の学校では、"ヤマト政権"なんて言葉は使われて無かったのではありませんか?
現在の義務教育等の日本史は、多分韓国等の影響により、そうとう歪められていると感じます。
ヤマト政権という言葉は使わない方が私はいいと思います。そもそもヤマト政権という固有名詞が何を意味するのもかもさっぱりわかりません!
(鹿島神社)は、土着の民が信仰していた神だと思います。ブログ主様は、失礼ながら、学校で習った日本の歴史にかなり思考を囚われていると身受けられます。鹿島神宮も香取神社(神宮)も、実は土着の民族が縄文時代から信仰していた神様だと考えられます。
西から来た、と思われる征服者(ヤマト政権と呼ばれる者に近い存在だと思われる)が土着の民を武力や暴力で制圧して、土着の民が信仰(信奉)していた祠や社を奪い取ったのです!その祠や社はもともと土着の民族が信奉していたものでした。実際に、鹿島神宮を訪ねた時に、境内には"鹿島神宮の創建は縄文時代である。"と書かれておりました。
現在の学校で習う日本史に囚われていると、真実は観えないと思います!現在、学校で教えられている歴史は、征服者によって捏造されている可能性が高いです。特に平成からは酷いようです。昭和時代と全然違うことが教えられているようです。
私は基本的に通説から考え、異説も根拠をよく見て検討するようにしています。
西からの征服者が土着の民を武力や暴力で制圧して、土着の民が信仰(信奉)していた祠や社を奪い取ったであろうことは、私もそう思います。その時に、祭神(信仰の対象)も征服者側の都合の良いものに替えられた、あるいは再定義されたのだろうと思います。
当ブログの「國神神社と鹿嶋吉田神社」(2022年11月19日記事)の事例は、そのあたりを示すなかなか興味深いものだろうと思います。