神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

龍角寺古墳群

2012-06-23 22:05:27 | 古墳
龍角寺古墳群(りゅうかくじこふんぐん)。
場所:「体験博物館 千葉県立房総のむら」(千葉県印旛郡栄町龍角寺1028)の「房総風土記の丘」エリア(約32ha)を中心とした地区。「房総のむら」に駐車場あり。

岩屋古墳(いわやこふん)。
「房総のむら」の東端、龍角寺台という住宅団地との境付近にある。一辺が約78mという大型の方墳で、方墳としては日本で第2位の大きさであるとされる。最新の調査では、周溝を含めると一辺が約108mあり、国内最大の方墳であることがわかったという(2012年6月19日、栄町教育委員会発表)。築造時期は7世紀前半~中頃とされ、南面に2つの石室があるが、1つは崩落している上、16世紀末には既に開口していたらしく、副葬品等は見つかっていない。なお、早くから石室が開口していたため、「岩屋」という名がつき、昔話によくある、「貸椀伝説」(洞窟の入口で祈ると、洞窟の主が椀や膳を貸してくれるが、借りた者が返さなかったり、汚れたまま返したりすると、もう貸してもらえなくなる、という話)があるという。

浅間山古墳(せんげんやまこふん)。
龍角寺古墳群の中で最大の前方後円墳(墳丘長約78m)で、築造時期は6世紀末~7世紀前半とされている。横穴式の石室があり、石材は筑波山周辺の片岩であるといわれ、鉄製の武具・馬具などが出土した。葺石や埴輪が発見されないことから、古墳時代終末期の古墳であることは確実らしい。時期的には、岩屋古墳に先立って築造されたもので、前方後円墳としては全国的にも最も新しいものの1つとされる。

印旛沼付近の地は、6世紀半ば頃までは「公津ヶ原古墳群」を造営した首長が統治していたが、その後、「龍角寺古墳群」を造営した首長に統治権が移ったらしい。どういうことがあったのかはわからないが、印旛沼(古代には「香取海」という内海だった。)の水上交通を押さえた勢力が強大化して首長権を握るようになったものと思われている。そして、「龍角寺古墳群」の西側にある「大畑遺跡」(7世紀後半~8世紀)は埴生郡衙跡とされることから、「龍角寺古墳群」を造営した首長が律令制成立後も郡司として勢力を保ったのではないかといわれている。


写真1:「岩屋古墳」(龍角寺古墳群105号墳)。南面に2つの石室があるが、東側(向って右)は崩落し、ブルーシートが掛けられている。


写真2:「風土記の丘資料館」前に置かれた石室。向って右は龍角寺古墳群108号墳、左は公津ヶ原古墳群の瓢塚41号墳のもの。


写真3:「白鳳道」。ここから北へ進むと、小さな谷を越えて、「浅間山古墳」の横を通って「龍角寺」に到る。真っ直ぐな道は自然にできたものではなく、意図的に造られたもの。


写真4:「浅間山古墳」。後円部の墳頂には浅間神社の石祠がある。「房総のむら」の敷地外にあるせいか、やや荒れているように思われる。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 公津ヶ原古墳群 | トップ | 天竺山 寂光院 龍角寺 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

古墳」カテゴリの最新記事