大神台遺跡(おおかみだいいせき)。大神駅家跡比定地(おおかみうまやあとひていち)。
場所:茨城県桜川市平沢字大神台265ほか。国道50号線と茨城県道257号線(西小塙真岡線)の「羽黒」交差点から県道を北へ(途中、茨城県道289号線(富谷稲田線)との交差点も直進)、約4km。駐車場なし。
「大神台遺跡」は、「常陸国風土記」(ただし、「萬葉集註釈」所収の逸文)に「新治郡の駅家を「大神」というのは、大蛇(おおかみ)が多くいたためである。」とある「大神駅家」跡の比定地とされる史跡(埋蔵文化財包蔵地)である。また、「和名類聚集」によれば、新治郡に「巨神郷」があったとされている。名前の由来はともあれ、おそらく「巨神郷」に「大神駅家」があったのだろう。従来、「大神駅家」跡は現・茨城県笠間市大郷戸付近に比定されてきたが、これは発掘調査によるものではく、「大郷戸(おおごと)」という地名が「大神門」から転訛したものと考えられたかららしい。それが、現・桜川市平沢に「大神台」、「大神東下り」、「大神西下り」、「衛門台」などの小字があることが注目され、発掘調査までは行われていないものの、土師器・須恵器などの破片が多数採取されているという。なお、当地は「雨巻山」(533m)、「高峯(山)」(520m)の南麓に当たる標高約100mの舌状台地にある。「大神」と書いて「おおみわ」と読む説もあって、これが「蛇」に関係あるといえば、大和国一宮「大神神社」(現・奈良県桜井市)が想起される。「高峯(山)」は別名「竜神山」ともいうそうで、当地の地形から大和国の三輪山になぞらえたのではないか、とも言われているようだ。そして、「大神駅家」は、「下野国」(国府は現・栃木県栃木市にあった。)と「常陸国」を結ぶ連絡路の途中にあり、そのまま西へ進むと「河内駅家」(現・水戸市)、方向を変えて南~南東に進むと(途中、式内社「鴨大神御子神主玉神社」(前項)付近を通る?)「常陸国府」(現・茨城家石岡市)(2018年1月6日記事)に行き当たることになる。が、「延喜式」(平安時代中期)には「大神駅家」の名は無く、いつしか廃止されてしまったらしい。
さて、蛇足。「伽婢子」(浅井了意・著、寛文6年(1666年刊行))に次のような話が語られている。少し長いが、概要を記すと「常陸国笠間郷の野原に小さな社があった。この社の前を通る者が供物を捧げないと祟りがあり、村人は誰も通らなくなった。明徳年間(1390~1393年)、性海という僧が北陸での修行の後、相模国(ママ)の足利学校に行こうとして常陸国に到り、その小社の前を通る際、何も捧げる物がないので、法施として礼拝読経した。行き過ぎると道に迷い、後ろを見ると、たくさんの化け物が追いかけてくる。観音経を必死に唱えながら逃げ、ようやく鹿島明神の社の前に辿り着いた。ここでも礼拝読経し、笠間の社ではなぜ化け物に追いかけられるようなことになったのか教えて欲しい、と祈って寝た。すると、夢の中に鹿島明神が現れ、取り次ぎの官人から、明神は法施を喜ばれ、性海の願いを聞き届ける、と言われた。忽ち、老人が連れてこられ、なぜ法施した僧を苦しめるのか、と詰問された。老人(笠間の小社の神)が言うのには、年を経た大蛇に社殿を奪われ、その大蛇が悪さをしているのだと釈明した。これを聞いた鹿島明神が5千の神兵を派遣し、暫くすると、神兵が巨大な白蛇の首を持ってきた。官人が、鹿島明神は常陸国第一の神として公正な裁きをした、と告げたところで目が覚めた。翌日、再び、笠間の小社の前に戻ると、社殿や鳥居は焼け焦げ、巨大な白蛇の胴体が転がっていた。」というのである。夢の中に出てきた官人や神兵の描写は、いかにも中国風だが、それもそのはず、この物語は中国の怪異小説「剪燈新話」の中の「永州野廟記」という話の翻案だということらしい。また、笠間から鹿島まで1日で歩いたというのはひとまず措くとしても、相模国の「足利学校」、というのもおかしい。東洋文庫版の註では、「金沢文庫」との混同ではないか、としているが、(確かに現・神奈川県横浜市にあるが)「金沢文庫」の所在地は武蔵国になる。道順もおかしい。北陸方面(「越の国」と書いてある。)から笠間に来るなら、「下野国府」や「下野国分寺」のあった現・栃木県栃木市、「下野薬師寺」があった現・栃木県下野市の方面から、「新治郡衙跡」(平成30年8月4日記事)・「新治廃寺跡」(平成30年8月11日記事)付近、それから「大神駅家跡」付近を通って、西から東に進めばよい。「足利学校」(現・栃木県足利市)では反対方向である。いや、長々と引用したのはそういうことではなく、茨城県の民話の1つとして語られることがあり、その際「笠間の野社」というのを「稲田神社」(2018年7月21日)のこととしているものがあるからである。「笠間郷」というのは中世の郷名で、現・茨城県笠間市の笠間・稲田地区を指すとされる。そうした中で、「大神駅家」=蛇が多い、「稲田神社」=スサノオの八岐大蛇退治神話や中世における衰退ぶり・・・などから連想したものかもしれないが、もちろん「伽婢子」では特定されていない。
写真1:「大神台遺跡」説明板。右にある石碑は「たかみね山桜」と刻されており、この道路を北へ向かうと「高峯(山)」の登山口があり、桜の名所になっているらしい。
写真2:説明板の後ろの台地。現状は麦畑など。
場所:茨城県桜川市平沢字大神台265ほか。国道50号線と茨城県道257号線(西小塙真岡線)の「羽黒」交差点から県道を北へ(途中、茨城県道289号線(富谷稲田線)との交差点も直進)、約4km。駐車場なし。
「大神台遺跡」は、「常陸国風土記」(ただし、「萬葉集註釈」所収の逸文)に「新治郡の駅家を「大神」というのは、大蛇(おおかみ)が多くいたためである。」とある「大神駅家」跡の比定地とされる史跡(埋蔵文化財包蔵地)である。また、「和名類聚集」によれば、新治郡に「巨神郷」があったとされている。名前の由来はともあれ、おそらく「巨神郷」に「大神駅家」があったのだろう。従来、「大神駅家」跡は現・茨城県笠間市大郷戸付近に比定されてきたが、これは発掘調査によるものではく、「大郷戸(おおごと)」という地名が「大神門」から転訛したものと考えられたかららしい。それが、現・桜川市平沢に「大神台」、「大神東下り」、「大神西下り」、「衛門台」などの小字があることが注目され、発掘調査までは行われていないものの、土師器・須恵器などの破片が多数採取されているという。なお、当地は「雨巻山」(533m)、「高峯(山)」(520m)の南麓に当たる標高約100mの舌状台地にある。「大神」と書いて「おおみわ」と読む説もあって、これが「蛇」に関係あるといえば、大和国一宮「大神神社」(現・奈良県桜井市)が想起される。「高峯(山)」は別名「竜神山」ともいうそうで、当地の地形から大和国の三輪山になぞらえたのではないか、とも言われているようだ。そして、「大神駅家」は、「下野国」(国府は現・栃木県栃木市にあった。)と「常陸国」を結ぶ連絡路の途中にあり、そのまま西へ進むと「河内駅家」(現・水戸市)、方向を変えて南~南東に進むと(途中、式内社「鴨大神御子神主玉神社」(前項)付近を通る?)「常陸国府」(現・茨城家石岡市)(2018年1月6日記事)に行き当たることになる。が、「延喜式」(平安時代中期)には「大神駅家」の名は無く、いつしか廃止されてしまったらしい。
さて、蛇足。「伽婢子」(浅井了意・著、寛文6年(1666年刊行))に次のような話が語られている。少し長いが、概要を記すと「常陸国笠間郷の野原に小さな社があった。この社の前を通る者が供物を捧げないと祟りがあり、村人は誰も通らなくなった。明徳年間(1390~1393年)、性海という僧が北陸での修行の後、相模国(ママ)の足利学校に行こうとして常陸国に到り、その小社の前を通る際、何も捧げる物がないので、法施として礼拝読経した。行き過ぎると道に迷い、後ろを見ると、たくさんの化け物が追いかけてくる。観音経を必死に唱えながら逃げ、ようやく鹿島明神の社の前に辿り着いた。ここでも礼拝読経し、笠間の社ではなぜ化け物に追いかけられるようなことになったのか教えて欲しい、と祈って寝た。すると、夢の中に鹿島明神が現れ、取り次ぎの官人から、明神は法施を喜ばれ、性海の願いを聞き届ける、と言われた。忽ち、老人が連れてこられ、なぜ法施した僧を苦しめるのか、と詰問された。老人(笠間の小社の神)が言うのには、年を経た大蛇に社殿を奪われ、その大蛇が悪さをしているのだと釈明した。これを聞いた鹿島明神が5千の神兵を派遣し、暫くすると、神兵が巨大な白蛇の首を持ってきた。官人が、鹿島明神は常陸国第一の神として公正な裁きをした、と告げたところで目が覚めた。翌日、再び、笠間の小社の前に戻ると、社殿や鳥居は焼け焦げ、巨大な白蛇の胴体が転がっていた。」というのである。夢の中に出てきた官人や神兵の描写は、いかにも中国風だが、それもそのはず、この物語は中国の怪異小説「剪燈新話」の中の「永州野廟記」という話の翻案だということらしい。また、笠間から鹿島まで1日で歩いたというのはひとまず措くとしても、相模国の「足利学校」、というのもおかしい。東洋文庫版の註では、「金沢文庫」との混同ではないか、としているが、(確かに現・神奈川県横浜市にあるが)「金沢文庫」の所在地は武蔵国になる。道順もおかしい。北陸方面(「越の国」と書いてある。)から笠間に来るなら、「下野国府」や「下野国分寺」のあった現・栃木県栃木市、「下野薬師寺」があった現・栃木県下野市の方面から、「新治郡衙跡」(平成30年8月4日記事)・「新治廃寺跡」(平成30年8月11日記事)付近、それから「大神駅家跡」付近を通って、西から東に進めばよい。「足利学校」(現・栃木県足利市)では反対方向である。いや、長々と引用したのはそういうことではなく、茨城県の民話の1つとして語られることがあり、その際「笠間の野社」というのを「稲田神社」(2018年7月21日)のこととしているものがあるからである。「笠間郷」というのは中世の郷名で、現・茨城県笠間市の笠間・稲田地区を指すとされる。そうした中で、「大神駅家」=蛇が多い、「稲田神社」=スサノオの八岐大蛇退治神話や中世における衰退ぶり・・・などから連想したものかもしれないが、もちろん「伽婢子」では特定されていない。
写真1:「大神台遺跡」説明板。右にある石碑は「たかみね山桜」と刻されており、この道路を北へ向かうと「高峯(山)」の登山口があり、桜の名所になっているらしい。
写真2:説明板の後ろの台地。現状は麦畑など。