神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

佐志能神社(茨城県笠間市)(常陸国式内社・その10)

2018-09-15 23:01:17 | 神社
佐志能神社(さしのうじんじゃ)。
場所:茨城県笠間市笠間3613。国道355号線「荒町角」から東に進み(途中に「笠間稲荷神社」がある。)、突き当りを左折(北へ)して直ぐ右折(東へ。「佐白山→」の案内標識あり)、約850m進んで右折(「→笠間城跡)の案内柱あり)、約350mで「笠間城跡」の駐車場。そこから徒歩で「佐白山」山頂へ約5~10分。
当神社の創建時期は不明。伝承によれば、白雉年間(650~654年)には「佐白山」(182m)に「佐志能神社」と「三白山 三白寺」(現・「佐白山 正福寺(観世音寺)」。同寺の開基は白雉2年という。)があったという。「続日本後紀」承和4年(837年)に「常陸国新治郡の佐志能神と真壁郡の大国玉神が官社に預かる。この年、特に霊験があったためである。」という記事がみえる。また、「延喜式神名帳」に新治郡小社として登載されている(所謂「式内社」)。なお、現在、「佐志能神社」を名乗る神社が当神社を含め4社あるが、他の3社はいずれも現・石岡市にあり、古代「茨城郡」域に当たるため、当神社が式内社「佐志能神社」論社の中で最有力とされる。しかし、中世以降、いろいろ変転があったようだ。
鎌倉時代初期、「佐白山」には「佐志能神社」と「正福寺」の百坊があったという。この「正福寺」と現・茨城県城里村(旧・七会村)の「布引山 徳蔵寺」三百坊とが争いとなった。元久2年(1205年)、「正福寺」側が下野国(現・栃木県)の宇都宮氏に援軍を乞い、「徳蔵寺」勢力を打ち破ったが、結局、双方とも破却された。そして、笠間を領有した宇都宮氏によって「笠間城」が築かれ、「佐白山」山頂(特に「阿武山」と称する。)にあった「佐志能神社」は麓に下され、天守が造られた。宇都宮氏は「宇都宮明神」(下野国一宮「宇都宮二荒山神社」)を「笠間城」内に勧請し、「佐白山権現」・「三白権現」などと呼ばれた。これと「佐志能神社」との混同・混乱が生じたらしく、祭神もよくわからなくなったようだ。その後、笠間城主は目まぐるしく変わったものの、長らく笠間藩の藩庁として機能していたが、明治期に入って廃城令により「笠間城」は廃城となり、その楼閣の材を用いて、元々の鎮座地とされる「阿武山」(「佐白山」山頂)に当神社が「佐志能神社」として再建されたという。現在の祭神は「豊城入彦命」・「建御雷之神」・「大国主神」となっている。「豊城入彦命」は第10代崇神天皇の皇子で、東国の平定に当たったといわれ、下野国一宮「宇都宮二荒山神社」の祭神でもある。「豊城入彦命」の子孫である「佐白公(佐代公)」が茨城国造、あるいは新治国造に任命されたという伝承があり、「佐白公」(「佐志能」は「佐白」の転訛)が新治国と茨城国の境となる「佐白山」に祖神を祀ったともいわれている。
ところで、当神社の背後に「石倉」と呼ばれる、巨石が連なった場所がある。これを「磐座」と捉え、元々は素朴に山の神を祀った、ということはないのだろうか。


笠間市のHPから(笠間城の歴史)

同(笠間城跡)


写真1:「史蹟 笠間城大手門跡」の石碑。ここから徒歩で上る。


写真2:「笠間城跡」石碑。左手奥の石段が旧・天守、「佐志能神社」への道。


写真3:「笠間城天主跡」石碑


写真4:「佐志能神社」前の石段


写真5:「佐志能神社」社殿。当神社周辺は東日本大震災により崩壊の危険があり、立入禁止になっている。


写真6:神社裏手への道


写真7:巨石がゴロゴロ。


写真8:同上。道も花崗岩が風化した真砂土で、滑りやすい。


写真9:神社背後の鎖場
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