備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム152.矢坂山・富山城址(その3)

2009-04-23 22:13:04 | Weblog
矢坂山の北側は「矢坂(本町、東町、西町)」、南側は「大安寺(中町、東町、西町)」という地名である。大安寺というのは、聖徳太子創建伝承を持つ奈良の古寺で、南都七大寺の1つとして「南大寺」と呼ばれた。現在、岡山市北区大安寺西町に日蓮講門宗「大安寺」があるが、もちろん関係はない。
岡山市の「大安寺」という地名は、奈良時代から大安寺の荘園であったことに由来している。天平19年(747年)成立の「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」によれば、笹ヶ瀬川が矢坂山(当時は「石木山」という名だったらしい。)の西で海に注ぎ、入り江となっていた東岸の原野(「長江原」と称した。)50町歩が大安寺領とされていた。
平安時代には、備前国御野郡の総社が置かれ、この地の豪族富山氏の先祖が郡司と神主を兼ねた。富山家は中世に武士化し、矢坂山に城を築いたとされる。なお、富山氏は文明年間に金川城主松田元隆に攻められて敗北、子孫が(北向)八幡宮の神主になったという。
さて、御野郡の式内社「石門別神社」の元宮が矢坂山にあったということについて、備前国総社宮武部宮司は、かつて次のように書かれたことがある(岡山日日新聞2005年7月30日)。「万成山に石門別神社があったと考えてもおかしくはない。ただし、その遷座地(北向八幡宮)が南の大安寺ではなく、北の矢坂であることは「吉備温故秘録」と矛盾するので、断定に踏み切れない。」(要約)。しかし、矢坂はもともと大安寺村の枝村であり(江戸時代には「矢底村」といったらしい。)、大安寺(村)の一部であったようである。なぜ、あえて北向きにしたかはわからないが、矢坂にあったとしても「大安寺村鎮座」と記されたこともあり得るだろう。だからといって、やはり断定はできないのだけれど。


写真上:北向八幡宮


写真中:北向八幡宮境内末社。ひょっとすると旧御野郡総社?


写真下:北向八幡宮そばにある竜王堂の磐座。説明板によれば、日蓮宗に深く帰依した富山城主松田氏が艮(うしとら)封じとして城の東北に八大竜王を勧請したものという。北向八幡宮も、これが北向きの理由かもしれない。