備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム47.脇田山安養寺

2008-09-11 20:55:51 | Weblog
脇田山安養寺(わいたさん あんようじ)。天台宗の寺院で、本尊は聖観音。往古は10数坊あったとされるが、現在は「常行院」(じょうぎょういん)のみ。末寺として「法泉寺」(岡山市中区国府市場984)があるが、今は無住のようである。また、「祥雲院」(岡山市中区今在家397)があるとされるが、今は跡地のみのようである(なお、安養寺住職の兼務だが、いづれも独立して檀家があるようである。)。
場所:岡山市中区賞田333。「湯迫山浄土寺」と同様、JR「高島」駅方面から、県道219号線(原藤原線)「国府市場」交差点を右折(東へ)、「JA岡山 高島支所」のところを左折(北へ)。そこから約500mのところに「賞田上」バス停がある(そばに火の見櫓がある。)ところで左折(西へ)、道なりに進む(西から北へ)と当寺の駐車場がある。その右手の小道を登ると「日吉神社」、左手の道路を上って行くと当寺がある。
報恩大師開基の備前48ヶ寺の1つと伝える。寺伝によれば、もとは脇田集落の東の乗興寺というところにあったが火災で焼失。その後も焼失~移転を経て、宝暦年間(1751~1763年)に具法法印が現在地に移転再建したという(明治18年にも火災に遭い、現在の本堂も昭和11年(1936年)の再建である)。
最初の寺地の「乗興寺」であるが、上記「法泉寺」の東側、現在「金光教高島教会」がある裏側(北側)に「成光寺跡」がある(下記HP参照)。「成光寺」という地名のところに廃寺跡が発見されたということで、必ずしも「成光寺」という名の寺があったかどうかはわからない。読み方は同じ「じょうこうじ」であろうから、あるいは、当寺は元々ここにあったのかもしれない。なお、ここは「湯迫山浄土寺」の南約600mのところにある。
「改修赤磐郡誌」(昭和15年12月)の筆者は、堕落した里の寺僧の生活を批判し、山上に移転させ、元の寺を焼き払ったのではないか、というようなことを記している。
現在の当寺の山続きの南西約300mのところに、国内神名帳所載の古社「高島神社」(岡山市中区賞田)があり、また、西約300mの谷に「備前国総社宮」がある。なお、当寺には、第2次大戦後、備前国総社宮の社殿修理の際に天井裏から発見された僧形の神像が保存されているという。

岡山市立高島公民館のHPから(脇田山安養寺):http://kouminkan.city.okayama.okayama.jp/takashima/shiseki/ssk05.html

同(成光寺跡):http://kouminkan.city.okayama.okayama.jp/takashima/shiseki/ssk27.html

コラム46.湯迫山浄土寺

2008-09-09 20:34:10 | Weblog
湯迫山浄土寺(ゆばさん じょうどじ)。天台宗の寺院で、本尊は薬師如来。最盛時には40数坊あったというが、現在は1院のみとなっている(本坊は「新成院」(しんじょういん)といった。)。全国に「浄土寺」という名の寺院は多数あるようで、備前48ヶ寺の中にも「笠地山浄土寺」(赤磐市)があった。それで、近隣では単に「浄土寺」で通用しているが、他の寺と区別するときには山号を付けて呼ぶようだ。
場所:岡山市中区湯迫699。JR「高島」駅方面から、県道219号線(原藤原線)「国府市場」交差点を右折(東へ)、「JA岡山 高島支所」のところを左折(北へ)、突き当たり(「賞田廃寺跡」がある。)を右折(東へ)、約400mで「湯迫温泉 白雲閣」というホテルがある。そのホテルの真裏(北側)にある。駐車場あり。「竜ノ口山」山麓にあり、思ったより広い境内に、鎮守(日吉神社)や本堂などが散在している。
備前48ヶ寺の1つで、天平勝宝元年(749年)報恩大師開基という。鎌倉時代初期、備前国が東大寺再建のための造営料国とされ(建久4年(1193年))、東大寺大勧進職に任じられていた「俊乗坊重源」が備前国国司として赴任してきた。国府は岡山市中区国府市場の現「国長宮」あたりにあったとされているが、あるいは当寺を住まいにしていた可能性もある。重源は「湯屋」を民衆にも開放したと伝えられており、境内に「湯屋」跡もある。当寺の前に建つホテルも「湯迫温泉」を名乗っているが、泉質は単純硫黄泉で、源泉温度は19℃だから、冷鉱泉だろう。むしろ、「湯山神社」の項(2008年6月8日記事)と同様に、染物用の水として重宝したのではないか、という説もある。
いずれにせよ、国府跡、備前国総社宮、高島神社(吉備高島宮)、脇田山安養寺、唐人塚古墳、賞田廃寺跡、大神神社などの史跡が連なる地区の中にあり、歴史散歩には興味の尽きない場所である。

岡山市立高島公民館のHPから(浄土寺):http://kouminkan.city.okayama.okayama.jp/takashima/shiseki/ssk19.html
山本よしふみさんのHP「近隣輪散歩」から(湯迫山浄土寺):http://www.tvc-15.com/desktop_bicycle/walk/zyoudozi/zyoudozi.html


コラム45.千手山弘法寺

2008-09-06 19:14:13 | Weblog
千手山弘法寺(せんずさん こうぼうじ)。高野山真言宗の寺院で、中世には30数坊あったというが、現在は本坊「遍明院」(へんみょういん)と「東寿院」(とうじゅいん)の2院が残っている。「遍明院」の本尊は五智如来。
場所:瀬戸内市牛窓町千手239(遍明院)。県道28号線(岡山牛窓線)と県道235号線(橋詰千手線)が分岐するあたりの北西、県道28号線沿いに赤い山門があり、道路に分断される形で、向かい側に「東寿院」、その上に「遍明院」がある。それぞれに駐車場がある。徒歩で更に上って行くと「弘法寺」の常行堂などがある。
式内社(名神大)「安仁神社」の東、約3kmの位置にあり、狭い谷の山上~中腹にあり、向かい側の山上には報恩大師の墓といわれるものがある(報恩大師が実在したとしても慰霊塔であろう。)。谷を東に抜けると、牛窓港である。
当寺は天智天皇の勅願によって創建されたが、養老年間(717~723年)
に雷により焼亡し、後に報恩大師が再建し、備前48ヶ寺に加えたという。もとは「興法寺」と称したが、再度火災に遭い、弘法大師が大同2年(807年)に再興したことから、「弘法寺」と改称したという。
山上に残る常行堂には、大仏と言ってよい「阿弥陀仏」が安置されており、上層には「窓」が設けられている。当寺も会陽を行っていた(「備前48ヶ寺と会陽」2008年7月5日記事)ことが知られている。ただし、その際の「神名帳」の読み上げは、一般的な全国の神名帳に依ったものとみられる。

「日本すきま漫遊記」のHPから(弘法寺):http://www.sukima.com/14_sanyou01_02/14koubouji.htm

写真上:山門


写真中:本堂(遍明院)


写真下:常行堂

コラム44.金光山岡山寺・柴岡山光珍寺

2008-09-05 21:40:36 | Weblog
①金光山岡山寺(こんこうさん おかやまじ)。天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来、千手観音、釈迦如来。②柴岡山光珍寺(さいこうさん こうちんじ)。天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。この2つの寺院はもとは1つで、「備陽記」によれば、天平勝宝元年(749年)に報恩大師が備前48ヶ寺の1つとして2番目に創建した、という。もとの所在地「岡山」の地名(2008年7月19日記事参照)にちなんで「岡山寺」と号したが、宇喜田直家が父興家(露月光珍居士)の位牌所としたことから「光珍寺」と改称した。しかし、宇喜田家の没落により「岡山寺」に戻り、慶安5年(1652年)に「岡山寺」と「光珍寺」に分かれたという。
場所:①岡山寺:岡山市北区磨屋町5-5。駅前の大通り「桃太郎大通り」の「柳川交差点」の近くだが、このあたりは一方通行が多くて、案内に苦労する。自動車であれば、「柳川筋」を南から来て、「柳川交差点」の1つ手前を左折(西へ)、約100m。駐車場あり。②光珍寺:岡山市北区磨屋町6-28。岡山寺の1ブロック先。駐車場あり。
上記の「「岡山」の地名」の項や「岡山神社」の項(2008年6月22日記事)に書いたが、現在の岡山城のある辺りが小高い丘になっていて、宇喜田氏が岡山城築くにあたり、もともとあった「下宮」(現「岡山神社」)と岡山寺を移転させたのだ、という。移転前の神社と寺の関係は不明だが、ほとんど同じ場所にあったように思われる。いずれも、昭和20年(1945年)の岡山空襲に遭い、ほとんどが灰燼に帰してしまって、近代的な建物になっている。

Wikipedia記事(岡山寺):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E5%AF%BA

柴岡山光珍寺さんのHP:http://www.kouchinji.com/


写真上:岡山寺


写真下:光珍寺

コラム43.笠地山浄土寺

2008-09-04 19:34:01 | Weblog
笠地山浄土寺(かさぢさん じょうどじ)。天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来と薬師如来のニ体。かつては12坊と4つの末寺があったというが、現在は「持教院」(じきょういん)1院で「浄土寺」と称しているようである。
場所:赤磐市西軽部1378。県道27号線(岡山吉井線)から県道53号線(御津佐伯線)への分岐の信号(「サッポロワイン岡山ワイナリー」の案内看板あり)の手前、約100mのところに「浄土寺」の案内看板がある狭い道路に入る。「聖イエス会 清心教会」のちょうど裏手になり、そこに山門がある(写真上)。その前にも駐車場があるが、本堂はその先、500mほど急坂を登って行かなければならないので、自動車ならそのまま先に行くほうがよい。本堂前にも広い駐車場がある。
当寺も報恩大師開基の備前48ヶ寺の1つで、5番目に創建されたという。「サッポロワイン岡山ワイナリー」の前には国内神名帳所載の「天地神社」があり、当寺からは約2kmの距離。また、4つの末寺のうち東軽部村に「本願寺」があったという(ただし、具体的な場所は不明。)。

(写真上:山門)


(写真下:本堂)





コラム42.沓石山高福寺

2008-09-03 20:58:02 | Weblog
沓石山高福寺(くついしさん こうふくじ)。天台宗の寺院で、本尊は五智如来。少なくとも4坊あったが、現在の「高福寺」は本坊であった「蓮華院」(れんげいん)で、ほかに少し離れて「善行院」(ぜんぎょういん)があるが、無住らしい。なお、500m南に「日吉神社」があるが、あるいはこれも当寺に関係があるかもしれない。
場所:赤磐市戸津野186。国道484号線沿いにあるドライブイン「西の屋 菊ヶ峠店」の東約300mのところに「竜天天文台」「吉井竜天オートキャンプ場」等の案内看板があり、そこから北に登っていく(約3km)。駐車場あり。
このあたりは古社の多いところで、更に「竜天山」山頂目指して上って行く(西へ約3km)と「布勢巨神社」、東に約2kmほど行くと「鴨高岡神社」、登り口の東約1.5kmのところに「鴨新田神社」」(以上、2008年6月8日記事)がある。
当寺は報恩大師を開基とする備前48ヶ寺の1つ。寺伝によれば、報恩大師が霊地を求めて巡錫中、当地に至ると、空から「沓」の形をした奇岩が落下してきた。そこで当地に伽藍を造立し、山号を「沓石山」としたという。
霊石「沓石」は、本堂の後ろ、鎮守「山王社」の前にある。長さ1.35m、幅0.75m、高さ0.6mの花崗岩である(「改修赤磐郡誌」(昭和15年12月)等による。)。
巨岩というほどではないが、ちょうど物を載せるのに良いような形。当寺の本堂が南向きで、眺めも良い場所にあることから、これも「磐座」ではなかったか、と妄想する。

沓石山高福寺さんのHP:http://www.sanpounohashira.net/koufukuji/koufukuji_indx/koufukuji_indx.htm


写真上:高福寺本堂


写真下:霊石「沓石」


コラム41.上地山満楽寺(地蔵院)

2008-09-02 21:00:11 | Weblog
上地山満楽寺地蔵院(こうじさん まんらくじ じぞういん)。真言宗大覚寺派の寺院で、本尊は地蔵菩薩。最盛時には20数坊を数えたというが、現在は本坊「地蔵院」のみとなっているようであり、「満楽寺」ではなく「地蔵院」で通用しているようである。
場所:赤磐市上仁保561。赤磐市市街地から県道250号線(山口山陽線)を北へ進み、上仁保と下仁保の境で県道が90度カーヴして北東に方向を変えるところで、曲がらずに直進(ここに「鴨布勢神社」(赤磐市上仁保)がある。)、約1km進むと山門がある。山門の横の狭い道を上って行くと駐車場がある。
当寺は報恩大師開基の備前48ヶ寺の1つで、もとは背後の上地山(317m)の山上にあったといい、寿永年間(1182~1183年)、ここを居城とした領主葛木左京之進が現在地に移したという。
「鴨布勢神社」(赤磐市上仁保。2008年6月11日記事)との関係は不明だが、同神社の先の道路は実質的に当寺で行き止まりになるなど、位置的には近い。谷あいに20数坊あったとすれば、同神社も当寺の勢力範囲内だったと思われる。

コラム40.菖蒲山西光寺

2008-09-01 22:06:02 | Weblog
菖蒲山西光寺(しょうぶさん さいこうじ)。天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来で、観音菩薩・勢至菩薩を脇侍とする。かつては三重塔のほか、少なくとも5坊があったが、現在は本坊の「随縁院」(ずいえんいん)のみとなっている。
場所:赤磐市多賀736。赤磐市市街地から県道27号線(岡山吉井線)を北上し、「多賀上」交差点の先(北)約700mの右手(東側)に当寺の案内板があり、そこから狭い道に入って約900m。山門の横に駐車場あり。
同じ「多賀」に「鴨布勢神社」(赤磐市多賀。2008年6月12日記事)があるが、同神社は「多賀上」交差点を西に約1km入ったところに登り口があり、やや距離がある。当寺と関係があったかは不明だが、もし関連があるとしたら、「水」つながりかもしれない。
当寺は報恩大師が天平勝宝4年(752年)開基した、備前48ヶ寺の1つ。寺伝によれば、報恩大師が霊場を求めて巡錫していた際、当寺の現本堂の東にある沼の上にある岩に天龍がおり、阿弥陀仏の木像を守っていた。そこで、これを本尊として当寺を創建したという。
「鴨布勢神社」(赤磐市多賀)の祭神は「水分神」であり、当寺の山号「菖蒲山」や上記の縁起からして、水に関係ありそうではないか。
ただし、報恩大師開基伝説自体の信憑性のほか、仮にそれを信じるとしても、本尊が阿弥陀仏であること(もともと備前48ヶ寺の本尊は全て千手観音であったという。)など、寺の縁起は後の時代の創作だろうが・・・。