シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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また2人音楽家が …

2013年02月28日 | 音楽界よもやま話
上写真はサヴァリッシュ。 下はクライバーン。
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二人の音楽家が相次いで亡くなりました。 サヴァリッシュは一度か二度実演を聴いたことがあります。 N響を日比谷公会堂で指揮したもので、R. シュトラウス「ドン・ファン」は良かった。 それ以外ではシューマンの交響曲だったと思うが、曲が良くなかった記憶がある。 大体において地味な指揮者だが、実力派という評判だった。 ニルソンがバイロイトでイゾルデを歌った時、相方のトリスタンが歌っている場所が分からなくなり、つられてニルソンも分からなくなってしまったが、指揮していたサヴァリッシュはそれを見て 的確に歌い出しの入りを指示してくれ、危機を脱することができたと褒めている。

それとバイエルン国立歌劇場音楽総監督時代 指揮で話題を集めていたのは、たまにしか登場しないクライバーだったと雑誌で読んだが、総監督をかすれさせるようなクライバーの影で、内心 面白くなかったのではないだろうか? コンサートの選曲が地味なのと、銀行員風の表情からくる地味な印象はどうも受けなかったのではないか? だが、N響の楽員には受けが良く、毎年のように来日して振っていた。
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もう1人のクライバーンだが、チャイコフスキー・コンクール優勝後の人気は凄まじかったらしいが、その後の数年で人気がなくなってしまい、70年以降はとんと活躍したとは聞かない。 中村紘子の本に詳しいことが書かれているようだが、そういえば 米国生まれのピアニストの大家というのはあまりいないようだ。

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「独指揮者のサヴァリッシュさん死去…N響でも活躍」(2月24日 読売新聞/ベルリン) _※追加1へ
ウィキペディアから__ ウォルフガング・サヴァリッシュ (Wolfgang Sawallisch,1923~2013年)はドイツ、バイエルン州ミュンヘン生まれ。 ドイツ・オーストリア音楽を代表する指揮者の一人 (※追加2へ)。
「ヴァン・クライバーン氏死去=冷戦期に活躍した米ピアニスト」(2月28日 ニューヨーク時事) _※追加3へ
ウィキペディアから__ ヴァン・クライバーン (Van Cliburn、1934~ 2013年) は、アメリカ合衆国ルイジアナ州生まれのピアニストで、本名はハーヴィー・ラヴァン・クライバーン・ジュニア (Harvey Lavan Cliburn Jr.) _※追加4へ
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以上


※追加1_ ドイツ音楽の精髄を伝える指揮者として、日本でも人気の高かったウォルフガング・サヴァリッシュさんが22日、ドイツ南部グラッサウの自宅で死去した。 89歳。 DPA通信が伝えた。

ドイツ生まれ。ミュンヘン音楽大で学んだ後、1947年、アウグスブルク市立歌劇場でデビュー。 ドイツ国内で腕を磨き、57年にはワーグナー上演で高名なバイロイト音楽祭に当時の最年少で登場した。 71~92年にバイエルン国立歌劇場音楽総監督、93年~2003年にフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督を務めるなど、欧米の有力ポストを歴任した。 ベートーヴェンやワーグナーの管弦楽曲からオペラまで、ドイツ音楽を最も得意とし、安定感ある解釈で定評を得た。 ピアノの腕前も一流で、室内楽や歌曲に取り組んだ。

日本では、64年にNHK交響楽団を指揮して以来、N響と関係を深め、長年ファンに愛された。 94年にはN響から桂冠名誉指揮者の称号を贈られ、2004年11月の共演が最後となった。 体調を崩し、06年3月に指揮活動からの引退声明を発表した。
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※追加2_ 幼少期からピアノ、音楽理論、作曲を相次いで学ぶ。 指揮も、現代音楽の指揮で名高いハンス・ロスバウトに師事する。 第二次世界大戦で通信兵として徴兵され、大戦後は1947年にアウクスブルク市立歌劇場でフンパーディンク作曲のオペラ「ヘンゼルとグレーテル」でデビュー。 この指揮が高く評価され、第一指揮者に抜擢される。 ついで1949年にはピアノ奏者としてヴァイオリニストのゲルハルト・ザイツと共演し、ジュネーヴ国際音楽コンクールの二重奏部門で1位なしの2位となる。 以後指揮者とピアニスト(主にリートの伴奏者として活躍)を並立させる。

1953年にはアーヘン、1958年にヴィースバーデン、1960年にケルンのそれぞれの市立歌劇場の音楽総監督に就任する。 その間の1957年にはロンドンデビュー (エリーザベト・シュヴァルツコップの伴奏者&フィルハーモニア管弦楽団の指揮) と、バイロイト音楽祭初出演を果たす。 33歳でのバイロイトへの出演は当時の最年少記録 (1960年にロリン・マゼールが30歳で初出演し、現在はこれが最年少記録) だった。

歌劇場での活躍の一方でオーケストラの音楽監督でも活躍し、ウィーン交響楽団やハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団、スイス・ロマンド管弦楽団の首席指揮者を歴任。 スイス・ロマンド管弦楽団では創設者エルネスト・アンセルメ亡き後のオーケストラの再構築に尽力した (この再構築を評価する者と、「アンセルメの響きが失われた」として評価しない者が二分している)。1971年からはバイエルン国立歌劇場の音楽監督(1982年~1992年は音楽総監督)に就任。若手の逸材歌手を積極的に登用し、出演者の相対的な若返りに成功した。1988年には、ミュンヘン・オペラ・フェスティバルにおいて、リヒャルト・シュトラウスのすべてのオペラを上演して話題を呼んだ。

バイエルンのポストを退任後、リッカルド・ムーティの後任としてフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督に就任。 フィラデルフィアのポストを退任した後は特定のポストには就かずフリーの指揮者となっていたが、2006年3月に、5月以降に予定していたフィラデルフィアやローマなどでのコンサートを心臓病の悪化を理由にキャンセルし、現役からの引退を事実上表明した。 2013年2月22日、バイエルン州グラッサウにある自宅で死去。 ミラノ・スカラ座からトスカニーニバトン、ベルリン・フィルからニキシュメダル、ウイーン交響楽団からブルックナーメダルを贈られている。
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※追加3_ 国際的に著名な米国人ピアニストのヴァン・クライバーン氏が27日、テキサス州フォートワースの自宅で死去した。 78歳だった。 クライバーン氏の財団が発表した。 骨のがんを患っていた。

ルイジアナ州生まれ。 3歳でピアノを始め、10代には国内のコンクールで連勝した。 冷戦さなかの1958年にモスクワで開催された第1回チャイコフスキー国際コンクールに23歳で参加して優勝、一躍国際的な名声を得た。
 
この優勝を記念して62年からフォートワースで原則4年に1度、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールが開催されており、2009年のコンクールで全盲のピアニスト、辻井伸行さんが日本人として初優勝した。
 
10年間ほどのコンサート休止期間を経た87年、ソ連のゴルバチョフ書記長 (当時) による歴史的訪米の際にホワイトハウスで行われた夕食会で復帰演奏し、ゴルバチョフ氏を感激させた。 03年、米文民最高位の大統領自由勲章を受章。 04年にはロシアのプーチン大統領から友好勲章を授与された。
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※追加4_ ロジーナ・レヴィーンに師事した後、1958年 23歳で世界的に権威のある第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。 このコンクールは1957年10月ののスプートニク1号打ち上げによる科学技術での勝利に続く芸術面でのソビエトの優越性を誇るために企画された。

クライバーンのチャイコフスキー協奏曲第1番とラフマニノフ協奏曲第3番の演奏後はスタンデイングオベーションが8分間も続いた。 審査員は審査終了後、ニキータ・フルシチョフにアメリカ人に優勝させてもよいか聞いた。 フルシチョフは「彼が一番なのか?」と聞き、「それならば賞を与えよ」と答えた。 冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、一躍アメリカの国民的英雄となる。 このコンクールに審査員として参加していたスヴャトスラフ・リヒテルは、クライバーンに満点の25点を、他の者すべてに0点と皮肉的な点数をつけた。

凱旋公演では、コンクール本選で指揮を担当したキリル・コンドラシンを帯同させている。 この優勝を祝してヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールが1962年より開催されている。1966年には初来日も果たした。

クライバーンの『チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番』(コンドラシン指揮 RCA 交響楽団 1958年) は、ビルボードのポップアルバムチャートで1位 (7週連続) を獲得した唯一のクラシック作品である (2007年現在)。 キャッシュボックスのポップアルバムチャートでも最高2位を記録。

続く『ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番』(コンドラシン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア) もビルボードのポップアルバムチャートで最高10位を獲得している。 その後、フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団との共演で、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番とピアノ協奏曲第5番「皇帝」、ワルター・ヘンドル指揮シカゴ交響楽団との共演でプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番なども録音した。 2003年に大統領自由勲章、2004年に親善勲章 (ロシア) を受章している。

ピアニストの中村紘子は近年の来日公演に関して「その演奏はもはや正面きってどうのこうの、といえるような対象ではありませんでした」と論じつつ、「彼が芸術家として成熟することなく終わってしまったのは、結局アメリカのこの豊かさ、楽しい生活に問題があったのではないか、と考えたものです」と述べている。 中村紘子著「チャイコフスキー・コンクール」に、一介の「田舎のピアニスト」だった彼が、チャイコフスキーコンクールの第一位になり、文字通りの「アメリカン・ドリーム」を実現するまでと、その後の停滞と挫折までが、アメリカのクラシック事情と共に詳しく述べられている。

以上 

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