シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

"独断と偏見" で世相・経済からコミックまで 読んで楽しい 面白い内容を目指します。 

数年ぶりの慣れない法事であれやこれや2

2015年05月18日 | 分からな~い人生
託明寺の画像から。 右は託明寺本堂で、右端に映るのは幼稚園建物。
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翌日 駅前ホテルのバイキング朝食をビル2階の中華料理店で済ませた。 なぜか 和洋スタイルのみで、中華ものはおかゆと杏仁豆腐以外ない。 意外とホテル客で混んでいたが、近郊のゴルフ場などへ向かう客が多い印象だった。 朝食付きで税込み 6,000円 は手頃なのだろう。

11時の法事前に、10時頃 葬儀社に出向いて簡単な打ち合わせをし、花や供物などの支払い (1.3万円) をする。 読経費用のお布施 (3万円) と御膳料 (1万円) の用紙も受け取る。 法事が11時なので10時45分頃に行こうかなどと話していると、葬儀社の以前からの担当者がいう__

「この後 11時半に次の法事予定がありまして、お寺さんに供物などをお届けしたのですが、随分 立て込んでいますね」「そういえば 前回も法事が終わったあと、部屋でお茶をいただいてお話ししていると、住職から『それでは次の予定が控えてますので …』と慌ただしくなったことがありました」「檀家の方に 今日11時半に間に合うように手配しましたと お伝えしたら、ああ今日だったのかという反応でしたから、檀家の方から11時半にしてくれという指名ではなかったようなんですが …」という。

「う~ん お寺さんのご都合なんですかねぇ」と私も腑に落ちないままで寺に伺う。 11時前に着くと、住職が出てきていう__「今日10時と聞いてお待ちしていたんですが、いらっしゃらなくて …」「あっ 11時とお願いしたのですが …」__行き違いだったのだ。
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2月に電話で「5月15日午前11時で宜しいでしょうか?」と訊き、了解を得たので家族に日時を手配 弟にメールでも確認、お寺にはつい1週間前にも電話で「5月15日 予定通り お願いします」と確認を入れたまでは良かったが、”時間の確認” まではしなかった。 お寺とメール確認はしていなかった。「今後はメールでも確認したいと思いますので、アドレスの記入してある名刺などをいただけますか?」と名刺をもらってきた。

その名刺を見ると、真宗大谷派 “託明寺” とある。 浄土真宗なのだが、門外漢には分かりづらい表現だ。 読経の準備の間 エプロンを着たお兄さんがお茶を出してくれる。 訊くと住職の息子さんだという。 お寺を継ぐ修行をしているのだろう。 ネットで見た託明寺の写真の中に、このお兄さんが僧衣を着てギターを弾きマイクの前で歌う写真があった (モダン説教か?)。
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真宗大谷派 (しんしゅうおおたには) は、浄土真宗の宗派の1つで、宗教法人法による包括宗教法人である。 京都府京都市下京区烏丸通七条にある「真宗本廟」(通称 東本願寺) を本山とし、別院、教会を含む所属寺院数は、約 8,900 (ウィキペディアから)。

なお “託明寺 (たくみょうじ)” と入力してネット検索すると、2つ出てくるのでややこしい。 1つが 新潟県・新発田市 宗派が真宗大谷派 本尊が阿弥陀如来のこの “託明寺”。 もう1つが 大阪府・池田市 宗派が浄土真宗本願寺派 本尊が阿弥陀如来の “託明寺” (weblio 辞書から)。

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本堂広間では20人くらいの幼稚園児たちが何かの行事をしていたが、11時過ぎに終了した。 境内 (けいだい) には幼稚園も併設しているのだ。 なぜか 多くのお寺は幼稚園も経営する。 税金対策上の利点でもあるのだろうか?

11時半の次の法事に間に合わせるために、11時半前に終わるのかと思ったが、しっかりと35分くらいまで、30分は読経した。 控えの間に戻ろうとすると、次の法事客10人ほどが控えていたから、失礼ながら玄関で立ったまま お布施 (3万円) と御膳料 (1万円) を住職にお渡しして辞去した。

Iお婆さんのいう通り 墓は綺麗だった。 その墓に柄杓 (ひしゃく) でお水をかけ、花をお供えし、お参りして引き上げた。 昔は墓地の中に木が何本か植わっていたが、年月を経て木が育って太くなり 墓地を圧迫するので、大分切られて少なくなっていた。 当家の墓も後ろの木が太くなり過ぎて、墓石を持ち上げるようになったので、抜いてしまった。 本堂前を通ると、先ほどと同じ読経の声が聞こえてきた。 住職も連チャンで忙しい?

地方のお寺経営というのはどういうものなのだろう。 年寄りが多いから商売繁盛といえるかどうか?(最近の年寄りは長生きだから)。 参拝客が来るような逸品なりホトケ様でもない限り、収入は檀家が法事で払うお布施・御膳料、幼稚園収入しかなく、経営拡大はまず見込めないだろう。 けれど 息子が代々引き継ぐくらいだから、収入が低いということでもないのだろう。
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新発田市 託明寺の由緒沿革 __ 新江山堅固院託明寺の開基は、斎藤別当実盛の二男斎藤六宗光といい祐玄房と称す。 祐玄房は、源平の合戦に父実盛が寿永二年 (1183) 戦死するや出家して南都東大寺に入り法相宗を学んだが、後生国越前国坂北郡新江に帰り 一宇を創建して専光寺と称した。 承元元年 (1207) 宗祖親鸞聖人の御弟子となり、浄土真宗となった。 その後 戦乱をさけて尾州中島郡溝ロ村に在ったが、天正三年 (1575) 溝ロ家の初代秀勝公の父君溝口彦左衛門尉勝政公の菩提寺となり、その後 秀勝公の移封に随従して慶長三年 (1598) 加州大聖寺より現在の新発田に移住したものである。

その後 溝ロ家が曹洞宗に改宗後も溝口十万石領内真宗寺院二百余ケ寺の僧録所という役職を与えられ、領内浄土真宗寺院の諸問題を解決する役を勤め、明治廃藩されるまで三百年これをつとめた。 これらのことは、大日本人名辞書、和漢三才図絵、仏教大辞典等に記戴されている。 寛永八年 (1631) 寺号を専光寺から託明寺に更めた (新発田市仏教会の HP から)。

池田城関係の図録 HP から __ 1576年 (天正4) 1月11日 葛野 (かどの) 兵衛行光が石山合戦に数百名の門徒を率いて参加し、長柄表にて討死と池田市栄本町にある託明寺に伝わっています。 この行光という人が、この寺の開基のようです。 また 同寺から発行されている託明寺縁起には、証明するものはないがと前置きして、池田には古くから今の託明寺のある所に真言宗や真言律宗の小坊があったのだろうと推定されています。

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“数年ぶりの慣れない法事であれやこれや3”へ続く

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