ギョーザ、あれこれ
中国の天洋食品廠公司の冷凍ギョーザで、400人にも及ぶ中毒者が出たとのことである。幸い死者は出なかったが、中毒された方の回復を願うものである。
今や国民食とも言えるギョーザの歴史は、戦後からといわれる。私が始めてギョーザを体験したのは、昭和28年(1953)である。バイト先の社長が、戦前中国にいたとのことで、ご馳走してくれた。新宿の歌舞伎町に、専門の店があった。1955年に勤めてから、先輩がギョーザを知らないとのことで、誘ったこともある。
それが、ラーメンと餃子は、どこでも食べられるようになるとは、信じられないほどの展開である。手軽さと、おいしさが後押しをしたと思う。
中国に行ったとき、本来のギョーザは“水餃子”であることを知った。日本のギョーザは、独特の発達をしたと言えよう。日本食が、外国で変形して発達をすることが多い。食の文化は、その土地向きに変形していくのが宿命かも知れない。
我が家の餃子は、味が少し違うようだ。これも変形である。私でも作れる。しかし、最近は、食べる量が減ったこともあり、既製品や冷凍食品の世話になることが多くなった。
最近は、便利さと危険がトレードオフの関係にあることが見られる。
食は多様化し、多様な選択ができる。しかし、食材を選ぶのに、安全性まで考えなければならないのは、残念である。
中国の天洋食品廠公司の冷凍ギョーザで、400人にも及ぶ中毒者が出たとのことである。幸い死者は出なかったが、中毒された方の回復を願うものである。
今や国民食とも言えるギョーザの歴史は、戦後からといわれる。私が始めてギョーザを体験したのは、昭和28年(1953)である。バイト先の社長が、戦前中国にいたとのことで、ご馳走してくれた。新宿の歌舞伎町に、専門の店があった。1955年に勤めてから、先輩がギョーザを知らないとのことで、誘ったこともある。
それが、ラーメンと餃子は、どこでも食べられるようになるとは、信じられないほどの展開である。手軽さと、おいしさが後押しをしたと思う。
中国に行ったとき、本来のギョーザは“水餃子”であることを知った。日本のギョーザは、独特の発達をしたと言えよう。日本食が、外国で変形して発達をすることが多い。食の文化は、その土地向きに変形していくのが宿命かも知れない。
我が家の餃子は、味が少し違うようだ。これも変形である。私でも作れる。しかし、最近は、食べる量が減ったこともあり、既製品や冷凍食品の世話になることが多くなった。
最近は、便利さと危険がトレードオフの関係にあることが見られる。
食は多様化し、多様な選択ができる。しかし、食材を選ぶのに、安全性まで考えなければならないのは、残念である。