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ヤッセンボの七目八目 (By 鈴木ジョージ)

情報・通信の世界に半世紀以上います。擬科学の横行には??です。世情の動きにも切歯扼腕することがあります。

扉温泉の雪 旅で見つける夜景 2

2008-01-21 10:51:30 | 国内-旅
 松本から、30分ほどビーナスラインの扉峠に向かうと、山間に扉温泉があります。小さな温泉地ですが、明神館は谷間の宿であると共に、料理にも定評があります。ダイナースクラブも、斡旋しています。

 ここに、2度泊まりました。2002年の12月初旬に行ったときは、着いたら雪になりました。宿の周りがライトアップしてあるので、雪に彩られた木々を、窓から眺めることができました。このような景色は、始めてでした。

 5月に行った時は、谷川にカモシカが降りて居ました。自然が一杯の宿です。ただ、私の年代では、せっかくの料理を食べ残してしまいました。

雪の函館はすばらしい! 旅で見つける風景 26

2008-01-18 20:41:55 | 国内-旅
16日から17日にかけて、東京でも初雪が降りました。今年の裏日本は、かなり雪が深いようです。南国育ち、東京生活なので、雪の経験は少なく、雪を見るとうれしくなります。

1999年12月12日、”雪で到着しないこともある”との警告付きで、羽田から函館へ行きました。まだ積もる時期ではなかったのですが、雪が降り続き、13日は空港が閉鎖になりました。この日、函館山に登ったら、市内は雪景色で、今までの函館紹介で見たことのない風景です。

前回来たときは、夏でした。雪の函館、全景を見ることが出来たのは幸いで、記憶に残ります。ただ、散策するには、足ごしらえが不十分です。泊まった函館駅前、朝市が中心になりました。

稚内で流氷を見ました! 

2008-01-10 11:51:38 | 国内-旅
 オーツク海の流氷が、北海道に近づいているそうです。稚内には、仕事を含めて数回行きましたが、流氷の時期に行ったことがあります(1884年3月)。

 北海道の寒さの一端に触れると共に、機上から、また最北端の地から、流氷のある海を眺めることができました。写真には、最北端の碑が下に見えています。

 氷った道を滑りながら坂を上がったこと、タコのしゃぶしゃぶが美味しかったことなどを思いだします。

 住んでいる人にとっては、厳しい冬かもしれません。しかし、旅人にとっては、魅力のある、記憶に残る季節です。帰途、稚内-札幌間はバスに乗り、雪景色を堪能しました。

川越の古い街並から電線が消えた 旅で見つける風景 19

2008-01-03 11:54:43 | 国内-旅
 毎年、川越で新年を迎えることにしています。今年は好天に恵まれました。喜多院に初詣し、古い街並みや菓子屋横丁などを歩きます。
 2006年の正月、時の鐘から菓子屋横丁の一帯から、電線が消えていることに気がつきました。2006年の秋でしょうか、TVの番組で、地井さんが川越を歩いているときに、電線のことにも触れていました。

 アメリカ、ヨーロッパの都市では、空中の電線を見ることはありません。日本では、電力、電話、ケーブルTV、有線放送の線が網の目のように巡らされています。これらは、都市の美観の大敵だと思います。切断事故も発生します。

 欧米との習慣の差でしょうか。地震、水害が多いからでしょうか。コスト優先で、ここまで来たからでしょうか。

 川越の古い街並みには、電線の無い風景が似合います。そういえば、馬籠にもありませんでした。

中央線 国分寺にも駅弁があった 駅弁2

2007-12-28 13:58:58 | 国内-旅
 地元、中央線国分寺駅の、駅弁の包み紙(昭和3年、1929年)を紹介します。国分寺駅からは、東京駅に40分で行けます。通勤圏でも近い方でしょう。しかし、半世紀以上、この駅を使っていますが、駅弁の存在は知りません。

 武蔵の国の国分寺は、天平時代(平城京時代、8世紀)に建てられました。14世紀の源平時代に焼失しました。

 包み紙のデザインは、現在の「国分寺」の楼門、本堂です。発掘された瓦も描かれています。楼門、本堂の屋根、囲んでいる木の感じは、現在と変わりません。これらは、1773年の建立、昭和62年改築とのことです。
現在、この絵を利用しても、違和感はないでしょう。80年にわたり、よくその景観が保存されたと言えます。

 一帯は、都立の武蔵国分寺公園として整備され、かつての国分寺、尼寺の礎石があり、発掘された品などが展示されています。万葉植物園もあります。天気のよい日には、ハイキングがてらの人々が訪れます。自宅から、10分余なので、私も、ときどき散歩がてらに行きます。

旅の楽しみは駅弁!! 80年前の駅弁

2007-12-27 17:17:59 | 国内-旅
 各国に弁当はありますが、日本ほどバラエティ、地域性のある所はないでしょう。米国のランチボックスは、サンドイッチかパン、ジュースなど飲み物、フルーツ、デザートが入っています。去年、カナダで貰った弁当には、サラダがドレッシング別で入っていました。最低だったのは、ハンガリーのホテルから貰った弁当で、歯が立たないくらい固いパン、サラミソーセージが10cmくらい、パプリカの大2個でした。飲み物はなしです。

 地理の教官だった父は、よく旅行しました。そのコレクションに、昭和初期の駅弁の包み紙があります。古い方の代表として、沼津駅・桃中軒の包みを図示しました。昭和2年ですから、80年も前ですね。文は三保の松原を扱っています。沼津ではないが、知名度から題材にしたのでしょうか。なお、桃中軒は、今も営業しています。

 時代とともに、デザインが変わり、戦時中には、標語が載り、紙の質も悪くなります。時代を反映しているので、興味深いものがあります。

 単に弁当と書いてあるのは、幕の内でしょう。あと、寿司、サンドイッチがあり、変わったものは“鯛飯”と“かしわ飯”だけです。

 寿司が20銭で、他は30-35銭です。大学出のサラリーマンの給料が、50-70円のころです。35銭は、70円の1/200です。今の月給を20万円とすると、1/200は1000円です。相対的には、あまり変わらないようですが、大学出が少なかったから、当時では高値でしょう。しかし、今の駅弁、弁当の品揃えはすごいですね。

PS: 上記の日記は当初、25日に書きました。一部、私の誤解がありました。27日に、桃中軒から丁寧なメールをいただいたので、その部分を引用させていただきます。

”沼津にも、三保の松原のように、千本松原という松が植樹されているところがあります。沼津港の西に千本松原という地名もあります。
昭和2年の掛紙も沼津の千本松原をイメージしたものです。
三保の松原のような天女伝説はありませんが、
実は、千本松原にもそのむかし、かなりのドラマがありました。”

「むかしむかし、塩害と風を防ぐために
増誉上人というお坊さんが、
1本1本お経を唱えながら、植樹したという松原がございます。
明治大正の頃、その松原を伐採する計画が持ち上がったとき
反対運動をしたのが、晩年沼津に居を構えた歌人の若山牧水でした。
若山牧水記念館もその地にございます。
・・・」

包み紙には、その地の歴史、風俗を反映していることがある。を銘記したいと思います。
記事を判読して、”天の羽ごろも・・・三保乃松原・・”から早とちりしました。訂正いたします。

寝台特急ブルートレインが、思い出とともに消える?  

2007-12-23 22:24:16 | 国内-旅
 2008年3月のダイヤ改定から、寝台特急のブルートレインが徐々に消えるそうです。最初に、東京‐大阪間の「銀河」、「なは」(京都‐熊本)、「あかつき」(京都‐長崎)がなくなります。「日本海」(大阪‐青森)と「北斗星」(上野‐札幌)が1日2往復から1往復に減ります。また2009年春には「富士」(東京‐大分)と「はやぶさ」(東京‐熊本)が廃止されるそうです。(朝日新聞11月18日付)。
 淋しくなりますが、新幹線、航空路線の発達した結果、乗客が減少したので仕方がないでしょう。

 学生時代は、特急も座席指定もないため、鹿児島駅に7-8間並んで、急行「霧島」の席を確保しました。乗っている時間も1日です。やむを得ないときは、日豊線経由の急行「高千穂」を使いましたが、30時間以上で、2夜を車内ですごしました。

 「はやぶさ」(当時は東京-鹿児島)ができ、寝台が使えることは、天国みたいでした。家族で帰鹿できたのも、この列車があったおかげです。東京駅ではやぶさに乗ると、車内に鹿児島弁が飛び交い、郷里が近くなったことを感じました。ただ、切符を手に入れるのは大変でした。

 1月前の予約申込券を、国分寺駅が朝6時から受付けます。駅員は、9時から予約センターに電話で申込みます。ただ、日本中からすべての列車の予約が始まるから大変です。午後、切符が取れたかどうかがわかります。予約できるまで、駅に通うこともありました。また、伝手をたどって、JTBの団体センターから予約したこともあります。

 それだけに、鹿児島までの旅行は、大旅行でしたし、旅の楽しさも大きいものでした。

 自宅から、ネットで列車、航空機の切符がとれる時代になったことは、情報化のおかげです。ただ、乗っている時間が短く、旅の楽しさも変わってしまいました。

 ブルートレインの時代は、過ぎ去ったと言えるのでしょう。