*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。29回目の紹介
被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎
はじめに
私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。
私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかっ た からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。
だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。
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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介
前回の話:『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<ぶらぶら病> ※28回目の紹介
彼女は当時、18歳。8月9日の正午すぎ、兄と共に長崎で被曝した父を探しに行き、3日間、長崎の街を歩き回りました。結局、消息不明のまま父の葬儀を出します。そのうち、兄弟とも下痢が始まり、激しい怠さが続きます。下痢がよくなっても、怠さだけは相当長くつづき、突然、死んだように動けなくなることもあったほどでした。医者にかかっても神経衰弱と言われるだけで、原因はわかりません。
しかし、いつの間にか怠さもなくなり、忘れていたそうです。父が関係していた商社でずっと働いていて、38歳のとき、出張先の東京でいまのご主人に見初められて、望まれて結婚します。理想的な夫だと聞いています。それなのに、なぜ、彼女は自殺しなければならなかったのでしょうか。それこそ彼女が相談したいことだったのです。手紙には次のようなことが書かれていました。
結婚して10年がたち、記念に2人で欧州旅行に出かけた。旅行の最終日に泊まったジュネーブのホテルでカゼ気味だったこと意外、旅行中変わったことはなかった。欧州旅行から帰ってきた翌日、夫とセックスをしているときに、突然、手足の力が抜け、全身がゴム人形のようにだらんと伸びてしまった。急に死んだようになってしまったので、夫は驚いて心配してくれたが、自分でもどうなったのかわからず、泣いてしまった。
泣きながら、原爆のあとにこういう発作があったことを思い出した。それ以来、セックスのたびに発作が起こった。心配した夫が親しい医師に相談してくれたが、被爆者を診たことのない医師は不思議がるだけ。長崎の親しい友人が、「被爆者仲間に似たような症状の人が何人もいて、『ぶらぶら病』と言われている。あなたも直後から爆心地を歩いているから、それと同じでしょう」となぐさめてくれた。
だが、発作が自然におさまるまで根気よく待つ以外なかった。セックスの機会がどんどん遠のいた。数カ月して、夫がほかの女性と付き合っていることがわかっても、黙って耐えるほかなかった。表向きは仲のよい夫婦をよそおってすごした。決定的だったのは、夫と女性の間に子供が生まれ、夫の関心が一気に向こうに傾いたことだった。
このような手紙の内容から、私への相談はぶらぶら病の治療のことだと思いました。相手が医師でも、女性が口にするためにはためらわれる相談だったのです。
(「11 ぶらぶら病」は、次回に続く)
※続き『被爆医師のヒロシマ』は、10/12(月)22:00に投稿予定です。