*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。30回目の紹介
被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎
はじめに
私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。
私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかっ た からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。
だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。
----------------
**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介
前回の話:『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<ぶらぶら病> ※29回目の紹介
これまでお話ししてきたように、私は多くの被爆者を診てきましたが、私の印象に残っている被爆者の死をつづっていくと、直接ピカにやられて、「あれじゃ助かりようはない」という死に方よりも、後から肉親を探すため入市した人とか、遠距離でわずかしかピカを浴びなかった人とか、いわゆる残留放射能によって内部被曝して、後になって死んでいったという症例にたくさん出会っています。原爆で殺されたと証明する方法がない、口惜しい、歯がゆい死に方をした被爆者が強く印象に残っているのです。
考えてみると、被爆者には、ひと目で被爆者とわかる火傷あとやケロイドの目立つ障害をもった人よりも、なんとも言いようのない不運を背負って、連れ合いからも、身内からも甲斐性なし、怠け者と思われながら、あまり幸せでない人生を歩かされてきた人たちの方が多かったように思われます。
ピカを生きのびた被爆者がこうした不幸な死への道をたどらざるをえなかったのは、繰り返しになりますが、第一に、アメリカが対ソ戦略上の理由から、原爆被害をプレスコード(報道規制)をしいて隠し続け、被爆者にもっとも必要だった傷害の研究と、治療法の開発の道を閉ざしたこと、第二には、日本政府がアメリカの理不尽な圧力に屈して、1957年に原爆医療法をつくるまでの12年間、社会の底辺で苦しむ被爆者をまったく放置したことによると、私は確信しています。
※『被爆医師のヒロシマ』の紹介は今回で終わり、『美味しんぼ「鼻血問題」に答える』の紹介を始めます。10/13(火)22:00に投稿予定です。
==『美味しんぼ「鼻血問題」に答える』著者 雁屋 哲==
何度でも言おう。
「今の福島の環境なら、鼻血が出る人はいる」
これは”風評”ではない。”事実”である。
2年に及ぶ取材をへて著者がたどりついた結論はこうだ。
「福島の人よ、福島から逃げる勇気を持って下さい」
==============================