原発問題

原発事故によるさまざまな問題、ニュース

『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<孤立無援の被爆者たち> ※23回目の紹介

2015-10-01 21:12:35 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。23回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかっ た からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<孤立無援の被爆者たち> ※22回目の紹介

   私が東京に出てからはじめて被爆者の死にぶつかったのは1950年、朝鮮戦争が始まった年のことでした。戦後、私の身分は、先に話したように厚生省技官という公務員となり、国立病院に所属していたわけですが、朝鮮戦争を目前にした1949年9月に、私は厚生省技官をクビになりました。右傾化を強めた占領政策のもと、労働組合の幹部などが官庁でも民間大企業でも大量にクビをきられました。日本全国を吹き荒れたいわゆるレッドパージ(※)の最初の一吹きでした。

 ※レッドパージ・・・1950年に朝鮮戦争が始まると、アメリカは日本の再軍備を求めて、日本国憲法第9条で戦争・武力の放棄を定めているにもかかわらず、日本政府に7万5千人の警察予備隊をつくるよう指示しました。それとともに、共産党員やその支持者を公職や民間企業から追放する政策(=レッドパージ)を本格化させ、反戦運動や労働運動に大きな打撃を与えました。

 そこで、私は翌1950年4月から、杉並区の西荻窪に労働者や貧しい人のための民主的な診療所をつくり、活動を始めました。個人宅の一部を借りた小さな診療所で、3畳の玄関が待合室、11畳の応接間に受付、薬局、診察室があり待合室の隣にはトイレ。それだけが診療所の広さでした。

 この診療所に、下痢が続くと言って通院していた、一見、すごく年寄りに見える男性患者がいました。実際の年齢は25~6歳ぐらいで、職業はやはりニコヨン。いつも首に手ぬぐいを巻いているのが印象的で、絶対にとろうとしませんでした。その患者がぱったり来なくなりました。治療を中断してよい患者ではないのです。来ないことに看護婦が気づいて、みんなで心配し、往診の途中にカルテの住所を訪ねてみることにしました。

 ところが、その番地のあたりは大きな農家ばかり。なかなか住所がわかりません。ようやく探し当てたのは、ある農家のニワトリ小屋でした。もうニワトリはいませんでしたが、トタン屋根の金網をはったニワトリ小屋のなかに、戸板をおき、その上にせんべい布団を一枚しいて寝ていました。やせこけて変わり果てていましたが、本人に間違いありません。もうあまり長くない顔つきでした。相変わらず垢にまみれた手ぬぐいを首に巻いています。「もういいよ。わかっているから、手ぬぐい取れよ」と行っても、首を横に振ります。

「10 孤立無援の被爆者たち」は、次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、10/2(金)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


9月30日(水)のつぶやき

2015-10-01 02:53:23 | つぶやき

【731部隊】
細菌兵器を開発するため多数の人間を人体実験に供し
「マルタ」と呼んで番号化し抹殺していた。

元731部隊の中枢にいた陸軍軍医学校教官が
戦後創業した製薬会社こそ『旧ミドリ十字』

そこには多くの731部隊員が就職していた。

(東京保険医新聞2001年6月5日)

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2012年05月01日
【原発に大量放射性廃棄物】
200リットルドラム缶で67万3344本分。溢れた廃棄物の貯蔵所建設も。
blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/5944e…

女川原発
貯蔵所に収容するのは3万本が限界、2014年度には満杯に
7月には、2万5千本分の貯蔵所の増設

3 件 リツイートされました

2013年1月10日
千葉県在住

喘息、完治したアトピーの悪化に悩んでる。

最近は、虫に刺されたような跡や
ひっかき傷が体の広範囲に、日に日に増えていく。

免疫も下がってるせいか、なかなか治らない。

去年は足の爪が3枚はがれた。
痛くないのが不思議。

下痢症状も多い。

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"rose_ponpa 2014年12月25日
さっき、母と電話してびっくり!

実家近所の大学生の息子さん
東京の大学進学して長期欠席してると学校から電話
駆けつけると突然死していたと

両親は、朝早くから夜遅くまで職を掛け持ちして
学費を捻出していただけに無念でならない。"

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俳優大沢樹生さんの子供は『無脳症』で2012年5月に妊娠6か月で人工死産 blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/e76a1… @neko_aiiさんから

neko-aiiさんがリツイート | 5 RT

【汚染】新潟ガソリンスタンドの洗車場汚泥からセシウム
最大9万ベクレル検出 (2011.8.4)
blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/c842c…

放射性物質が検出された地域の
全てのガソリンスタンドで同様の事が予想される

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クリスバズビー講演より
Q:ごみ処理の対策
70,000Bq/Kgの汚泥が見つかった

CB:焼却すれば汚染は国中に広がる
埋めると雨に溶けた放射性物質が地下水を汚染

放射性物質は谷にたまり、河口・海へ流れていくため
谷間や海岸近くでの癌発生率が高くなる
高地は影響をうけにくい

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2011/07/03
【群馬県】沼田市で高放射線量計測

毎時3.6マイクロシーベルト
年換算31.6ミリシーベルト
youtube.com/watch?v=WxFHvl…

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2011.5.9
東京板橋の某大手病院の救急救命センターでは
被曝症と断定せざるをえない患者が増えているという
blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/9a957…

大手病院を回っているプロパー(製薬会社の営業部員)
「日本の医療システムにとって完全に未知の領域で手に負えない事態」

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2012/03/13
「生きて帰れない」 死覚悟した原発作業 東電社員が証言
blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/def5f…

14日には3号機が、15日早朝に4号機の建屋が爆発した。
東電は15日午前、作業員約650人を退避させた。
原発に残ったのは、”決死隊” 約70人。

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2012年3月30日
デンマークとアメリカの調査チームが
福島の野鳥を調査した結果、

遺伝子の損傷を受けた鳥や
脳が萎縮した鳥が大量に発見されたそうです
independent.co.uk/news/world/asi…

>やがて人間にも同じような影響が
出始めるのではないでしょうか

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