原発問題

原発事故によるさまざまな問題、ニュース

『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<ぶらぶら病> ※28回目の紹介

2015-10-08 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。28回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかっ た からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

----------------

**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<ぶらぶら病> ※27回目の紹介

 1964年、埼玉の浦和市(現・さいたま市)に、新卒医師の研修ができるセンター病院をつくって、民主的な医療活動を受け継ぐ若手医師を養成していこうと、民主診療所を建設することになりました。私はその診療所に移って活動しました。

 その診療所で、長野県から来たという中年の男性の被爆者を診たときのことです。

「ぶらぶら病」がいかに深刻なのか、私は初めて目の当たりにしました。

 患者は、最近、急に身体がだるくなって仕事ができなくなり、医者にかかると、どこも悪くないと言われた。そこで私に診てほしいと訪ねてきたのです。

 彼は中学2年生のとき、岡山県に住んでいましたが、原爆が落とされた翌日、父を探しに広島に行き、焼け跡を歩き回りました。しかし、結局、父を見つけられないまま、遺骨のない葬式をすませます。少したってから身体がだるくなり、何日か学校を休んだりしたのですが、それはいつの間にか治っていました。そういうことが何回かあったけれども、今回、だるさを覚えるまで忘れていたと話してくれ、「それが」と言いかけたときです。驚くようなことが目の前で起きました。

 患者は「先生、すみません、だるくて」と言って、椅子からおり、床に座り込んでしまったのです。それでもつらいのか、最期は「ごめんなさい」と言って横になってしまいました。彼を抱き上げて診察台に寝かせましたが、被爆者の言う「だるさ」がまったく普通のものじゃない、私たちが感じるものとは質が違うということを、そのとき知ったのです。

 診療所に2ヶ月か3ヶ月に一度、相談にくる女性の被爆者も、誰にも打ち明けられない大変深刻な悩みをかかえていました。初めてやってきたときから相談したいことがあると言いながら、結局はそれらしい話もせずに帰って行くことが何度もあって、診察室では話しにくいのだろうかと思っているうちに、書留で分厚い封書が送られてきました。開けてみると、「この手紙が先生のお手元に着くころ、私はこの世にはもういません」と書き出されていて、青ざめました。

「11 ぶらぶら病」は、次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、10/9(金)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


最新の画像もっと見る