*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。26回目の紹介
被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎
はじめに
私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。
私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかっ た からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。
だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。
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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介
前回の話:『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<孤立無援の被爆者たち> ※25回目の紹介
それでおそろしくなって、1953年の暮れに妻の実家を頼って埼玉県の行田市に来たのです。ところが、頼みの妻が急性白血病で3ヶ月前に死んでしまいました。そうしているうちに、最後の頼りの義父も脳出血で倒れ、あっという前に他界。知らない土地で頼れる人は誰もいなくなってしまいました。これでは生きていけないと思い、再び生活保護を申請したら、大きな仏壇を財産とみなされ、売れば当面、生活できるからという理由でまた断られたと言いますから、酷い話です。肝臓病で動けない人が12歳の娘を抱えて、見知らぬ土地で寝込んでしまったわけです。生活保護の見込みもなく子供に食べさせることもできなくなって自殺をはかったというのが真相でした。
私は当時、行田市の市議会議員に当選したばかりで、初めて招集された市議会で、この問題を市長にぶつけました。
市長の答弁は、「ご本人が医師の診療を受けておられなかったため、肥田議員からご報告を受けるまで、市側は本人の病状がそんなに悪いという認識をもっていなかったのであります。生活保護の申請に対して、もっとよく健康状態をつかむべきであったのに、厚生省の指導を強く意識して経済状態の判定に目を奪われ、本人に必要以上の苦しみを与える結果になりました。市長の監督不行き届きとして深くお詫びします」というもので、結果、本人は生活保護を受けられることになりました。
当時は彼が被爆者だということがわかっても、何も公的な支援はありませんでした。政府が被爆者の医療法(「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(原爆医療法)」)をつくって被爆者手帳を交付したのは1957年4月のことです。それまで政府は12年もの間、被爆者をまったく捨ておいていたのです。その結果、彼に援助の手がいかず、こういう被爆者が行田にいたことですら、誰も知らなかったのです。
被爆者がどんなに酷い目にあって死んでいくのかを、私はこの人の場合にも、骨身に徹して教えられました。
(「10 孤立無援の被爆者たち」は、今回で終わり、次回は「11 ぶらぶら病」)
※続き『被爆医師のヒロシマ』は、10/7(水)22:00に投稿予定です。