JOHNY’s BLOG

かほりたつあざやかなはなとどめおくおもいをよせる淡雪のふみ

モルスキン

MOLESKINE モレスキン ルールドノートブック・横罫・ラージ ([文具])

アフィリエイとってのは

2005-01-31 15:37:14 | Weblog

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いくつかあるんだよね、運営会社が。
わたしもやってみようかなとおもい、ちょいといじっています。BLOGに貼り付けたりは意外と簡単。
 うーんよくできてますね。
自分の買い物にも適応してくれればいいのにな。
売るほうとしてはクーポン券配ってるようなものだからいいじゃないね~とか思いながら広告を選んでいたりします。
 おもしろいのみつけてきて貼ってみますね。
   
                 JOHNY

つづけるって難しい

2005-01-31 15:25:24 | Weblog
 いまさらですが、なんでもかんでも続けるって大変。結果がでなくても続けてかなければいけない。
 いままでで続けてこれたことってなんだろう。
遊びでも趣味でも何でもいいからあげてみな。
もしやなにもない・・・。
いや、バイクとかずっと乗ってるし、お金にならない勉強続けてるし・・・。なんかよわいな~。
彼女・・・3年くらいで終了。これもだめか・・・。
 あえてゆえば、やっぱり勉強かな、ひろーい意味でのね。
これは友達探しともかぶってる。誰かに会いたくて選択しているのが、それなんだろうな私の場合。ほんの少しは誰かに会えているような気がします。
それでよしかな。
誰かを探して明日も続けて生きていきましょう。

海外にも探しにいくぞ。
   
           JOHNY


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振り向けば カニ

2005-01-31 15:06:14 | Weblog
 なぜかカニがいえに・・・誰かが買ったんだね。
おっきいやつが二ひき・・・にはいか。
もうボイルしてあるからかるく焼いて香りを漂わせて、ばりばりばり。
おいしい!
でももう飽きちゃった。足三本で。
 めんどくさいです、殻バリバリするのが。
 食通ではない私、でもたまにはこういうのもいいですね。
のこりのいっぱいは、冷凍庫の中に眠っております。

かにかに市場


     JOHNY

てぶくろ

2005-01-30 23:04:17 | Weblog
 探している手袋が、イメージの中にある手袋。イデアの手袋がうってないかな~と新宿をぐるぐるしてきました。どこにでも売ってるじゃんとかおもってたのに、いざ探すとないんです。
ルミネ マイシティ 伊勢丹・・・これっていうのがないの。
まだ時間はあるのですが、ないないない、っとおもうとちょっと不安。
もしかしたら通販とかで検索したら簡単に見つかるかな。

 ひさびさにキレイな売り場をはしごして、ハイになっています。そういえばチョコのレシピ本とかチョコとか、も多く目にしました。楽しげな季節。
                 
        JOHNY

テンプレートをいじる

2005-01-30 22:51:02 | Weblog
カリスマのブログも読んでみましょう→M&A投資の株式投資ブログ


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 近時、資金難のため株式投資をしていこうかと・・・。働き出してから勉強をかねてじみーちに参加してはいるのですが、純粋なプラスにはなっていません。
 チョイ本格的にやってみようかなと思ったりします。

用水路で1500万ひろうというのもいいな~。

テンプレはいまだいじれず。
        JOHNY

内部の問題、個人の問題

2005-01-30 19:59:54 | Weblog
 これもメモ。
この世界はおかしくってね、お互いに、何とか先生って呼びかけるのよ。おかしいと思うから私はなるべく個人名で、何とかさんってよびかけるけど。
 大学院生もね、さんづけよ。院生は将来のライバルだとおもうから。
シンプルに当たり前のことだとおもう。現実、なかなか実行できないことかもしれない。でも基本姿勢をはっきり示してくれると安心感がある。
 
 院生のほうも、あるときから、私のことを先生と呼ばないで、さん付けで呼ぶようになる。きたなって思うときね。
 なんだかうれしそうなのが、声のトーンにでている気がする。
ライバルが増えたというより、友達が増えたと感じるのかもしれない。
実は私はそれを求めている・・・。
 上野さんを慕う人が多いのはそんなことからなのだろうと思います。

      JOHNY

忘れる前に上野千鶴子メモ

2005-01-30 19:31:19 | Weblog
 あるゼミにでてみて、なんとなく違和感を持ちました。
今この場には何かが絶対的にかけていると・・・。
その場の年齢構成は先生ほか三名ぐらいを除けば20代前半。ある人の論文の批評をしていて、その根拠が不確かだという指摘。
私もそのとおりだと思うのですが・・・。
指摘は論旨の全否定をした(と私はかんじた)。その部分はある人の感情の部分。
個人的感情の一般化を性急にしているてんでその論文はまづいのですが、そこに生じた感情は一考の余地がある。
 実例にもとづいて客観的だと思われる見方で論理的に否定した場合にも、必ず遊びの部分があるとおもう、グレーゾーンだよね。
多くの場合そこに個人の感情というものがある。
 それに対する配慮が足りないと感じたのです。少しの時間見ただけでの判断ですから、それこそ一般化していうことはできないですが、官僚養成大学にいる人の発想かもなんて思ったのでした。
 個々人の感情を考えていかなければならないからこの社会って難しい・・・

           JOHNY

はやばや一輪車 Z会

2005-01-30 13:50:16 | マスメディア

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 なんとなくファニーなCM 増進会 z会。
やってみたいと思いながらやらずにその時期は通り過ぎてしまいました。
通信教育もし高校生の頃だったら絶対に途中でやめてたと思いますが、いまなら・・・。
 不得意というか、才能の欠片もない数学とか地道にやってみたい気もします。

          JOHNY

メディア文化を読み解く技法

2005-01-30 05:53:54 | Book
 なんとなく落ち着かない夜、とりあえず本をよんでみます。
「恋する力」を哲学する 梅香彰 PHP 
二度くらい読んでるのですが、もう一回。フロイト ユング プラトン ニーチェ キルケゴール スタンダール 村上春樹・・・。多くの思想を簡単に押さえていけるのでおとくかんがあります。書評は後ほど。
で今読んでるのが、メディア・・・これはお勉強としてかな・・・。

          JOHNY

一喜一憂恋わずらい

2005-01-29 01:29:30 | Weblog
 苦しいですけど、たまに楽しいことあったりして。
さっき袋に入っているチョコをあげたら、ひとつ『あげる』って返してくれて・・・。
 ゴメンナサイ、もともと自分のなのに、もらったチョコに、とけそーかも。
     
       JOHNY

あなたはネコ?イヌ?

2005-01-29 01:12:56 | Weblog
 対称的な例として挙げられますねこのふたつ。性格の違いが際立つことにもよるんだろうけど、何よりも身近にいる動物ということでくらべるのかな。 
私は気まぐれ・・・イヌ。逆だね普通は。
 ネコの形容詞よろしく気まぐれは、きまぐれなんですが、どうも最近は人にくっついて歩くことがあり・・・。でまちしてたり・・・。
 誰かに翻弄される毎日です。
ネコを待つイヌかな。

          JOHNY

空白には

2005-01-28 15:10:28 | Weblog
 昨日BLOGが飛ばしたね。カレンダー上では空白ということになるんだけれど、ここにはかかれていない意味が明らかにある。
 日付を直して埋めたい気にもなるのだけれど、それではひとつの空白のココロが消されてしまう。
空白の意味の主要なところは 私の場合なら、何かを不安に感じたか、すごくうれしいことがあったかどちらかだと思う。
 カレンダーの空白が語っています。私のココロを。

              JOHNY

二つに分けても

2005-01-28 15:03:07 | Weblog
女脳男脳
お友達のところにこんなのがありました。
個々人の人間を二つのカテゴリーで分けられると思うのはあまりにも無理があるのですが、現時点構築された社会の中で、その言説に乗ってみるのもまたたのし。
 さてこの結果、私は少し女性脳よりでした、もっと女性よりに行くかなと思ったのですが、思ったほどではない結果でした。パーセンテージの高いところで男女とも重なり合う部分、そこで自分と異なる性の脳に近いと判断される人、その人がバランスがよいといえるのかな。
私はバランスがよい!とおもう誰もいってくれないけど。

 フェミニスト?が集まるゼミの中で男女比はどうなんだろうと考えて数を数えてみることがあります。前回は12対2 今回は15対3 女性せんせいと自分を入れてこの数字。
どっちがどっちだとおもいます。
おもったとおり女性が多い。
 で、あっと気がついた。女性男性で数を数えるとき私は自分を女性のほうにカウントするのです。うーんなぜだ。とくにカミングアウトではなくて、もちろん性的志向が一般の男と違うということではなくて。心象的に自己を女性にカウントする。
 われながら、へーって。
自分の中での基準が他者と違うということ。
前述の分析とからめておもしろいなーと。

          JOHNY

読売新聞 元旦

2005-01-26 08:41:14 | マスメディア
「脱戦後」国家戦略を構築せよ(対応を誤れば日本は衰退する)2005/1/1
新年初めての社説で何が述べられているかによってその新聞が何を目指しているかを推し量ることができるだろう。読売新聞では次の三点を挙げていた。

1戦後民主主義の残滓憲法の廃棄主として9条。
2教育基本法の改正とりわけ愛国心について
3平等偏重からの転換自己責任へ

いかにも読売新聞らしい内容である。
1に関してはソ連崩壊、911、IT革命という雑駁な世界の流動原因を挙げ、それに対応できる体制を作るということでいわゆる戦後民主主義を否定してみせる。その否定論拠は日本国憲法がGHQによって押し付けられたものであるというものと9条2項の「戦力放棄」の非現実性を挙げる。
 
新聞は日本国憲法をどのように捉えるか
 
私見によれば、この国のジャーナリズムは1952年 から再スタートを切ったといえる。第二次大戦を終えてから1947年に日本国憲法が施行されてからも日本は連合国軍に占領されていた。その初期に言論の自由化政策がGHQによって採られた。

「言論及び新聞の自由に関する覚書」9/10
「新聞の政府より分離に関する覚書」9/24
など、
また1947以降は憲法の中で表現の自由が保障されていたが占領下ではGHQ政策に基づく検閲がされていた。
大戦中、国家に戦争協力を強いられ、ある意味主体性をもてなかった新聞社が終戦で主体性を得たと思ったのもつかの間、あらたな権力に屈しなければならないという状況があった。この状況がかわるのが、サンフランシスコ講和条約以降ということである。そのことからこの国のジャーナリズム(新聞)は1952年に再スタートしたということができるのである。このことは同時に日本国憲法もここから再スタートしたということを示唆するのではないだろうか。
 
 この国の新聞ジャーナリズムは日本国憲法とともにあるのである。過去、権力にゆがめられてきた新聞の自由を保障してくれるものが日本国憲法である。この憲法の精神は平和と民主主義を基調としたものであり、新聞はそれを国民とともに保持する役割を担っている。
ゆえに、第九条派中心問題になりえるのである。すなわち、平和と民主主義を維持するために、「戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」ということが機能的なのか否か。さらにはそこに自衛権という概念があるのかないのかというようなことが考察されなければならないということなのである。

 この考察の部分を市民に提起すべく新聞は積極的に発言、もしくは言論空間をつくるべきなのであるが、この約半世紀それは十分にはされてこなかった。
 
 この点反省し読売新聞は今、新たな試みをしようとしているのであろうか。答えはNOであろう。社説の中に使われる戦後民主主義の残滓という表現からもわかるように、読売新聞社説のいうところは、戦後日本国憲法の下の民主主義の否定である。それは、自らの言論空間作成機能の否定でもある。なぜならば平和を求める民主主義なくして自由な新聞というものは存在できないと思われるからである。
 
 2教育基本法の改正とりわけ愛国心について
近時、世界で活躍するスポーツ選手などの応援風景にでてくる日の丸君が代、そしてここにセットであるかのような「愛国心」。これについて社説では次のように言う。

「愛国心が是か非かなどということが議論の対象になる国など、世界中、どこにあろうか。こんな奇現象が生じるのは『愛国心』と聞けば、反射的に『狭隘な』という形容詞をかぶせたがり『戦前回帰』『軍国主義復活』などとして騒ぎ立てる”守旧”思考が、いまだに一定の勢力を有しているためだ。」

 この論の中でもし同意できるものがあるとすればそれは「愛国心」自体が悪いものではない、ということであるが、他は論理のすり替えであり同意できない。社説が指摘する狭隘、戦前回帰というような形容詞を使いたがる人たちが言おうとしているのは、「愛国心」がなにものかによって(多くは国家であるが)個人に強制されること、その態様について異議を提起しているのである。これは人間の精神活動に重きをおき、そこに生ずる思想を国家からの自由として確保しようとする近代憲法の考え方といえる。
 これを言論の自由をはじめ、個人の自由の不可侵性を明らかにしたJ・Sミルの著『自由論』にみれば次のような記述がある。

 「政府が国民に対して完全に責任を負っていると否とを問わず、意見の発表を統制しようと企てる場合がしばしばあるとは、危惧するに及ばないのは立憲諸国においてである。但し、政府自らが、公衆全体の不寛容の傀儡となって、意見の発表を統制しようとする場合は別である。それ故に、われわれは、政府が完全に国民と一体であって、従って、国民の声と考えられるものと一致しない限りは、いかなる強制権をも行使することを欲しない」とする。近代の立憲諸国においては政府による言論、思想統制のごときものはゆるされないというのである。また仮に統制をしようとする世論がありそれに添った形で政府がそれを行使しようとした場合もそれは害悪であるとする。その行為は「世論に反対して行使せされる場合と同様に有害であり、あるいは、それ以上に有害である」というのである。その後に述べられているものも近代憲法の理念の基盤となるものといえるので引用する。「仮に一人を除く全人類が同一の意見をもち、唯一人が反対の意見を抱いていると仮定しても、人類がその一人を沈黙させることの不当であろうことは、仮にその一人が全人類を沈黙させうる権力を持っていて、それをあえてすることが不当であるのと異ならない」とする。このことによって守られるものは人類の利益だという。すなわち、一人を沈黙させることは現代、後世に渡り、もしかしたら真理であったかもしれないことを採る可能性の放棄になるのである。

☆つづく


憲法19条「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」この点についての齟齬は互いに確認を取れば共通認識とできるはずと思えるが現実問題としてできていない。これは「愛国心」