世紀末に起こった、地下鉄サリン事件の被害者インタビュー集です。当時メディアによって与えられる情報により私たちはオウムのことに必要以上に詳しいのではないか。教団の幹部がだれそれで、どこの出身であり、どんな家庭に育ったのかなど。
それらはどれもが私たちの将来になんの解決策を与えてくれるものではない。
膨大な報道によって、ただ時間が消費されただけであった。
地下鉄サリン事件がなにかを知りたければ、当事者の声をキチンと聞かなければならなかったはずだ。そしてそれは事後的にも継続されるべきことだろう。
一般的に私たちがメディアとして捉えるものは、そういうものとしては機能しない。だれがそれを担うのか?
例えば小説家、村上春樹ということなのだろう。
公式な発表によれば3800人という被害者がいたにもかかわらず、インタビューできたのは60人あまりであったという。問い合わせに拒否の姿勢を示す人たちはプライバシーの問題からということともにマスメディアに対する不信をあげた。それは、つくられた被害者像に当てはめられてしまうことに対する拒否でもあった。それを村上は丁寧な取材をすることである程度払拭したといえよう。小説家としてであるが。
最後の章では事件に対する村上の違和感の原因が語られる。そこでユナボマーの文章に触れている。
-システム(高度管理社会)は、適合しない人間は苦痛を感じるように改造する。システムに適合しないことは『病気』であり、適合させることは『治療』になる。こうして個人は、自律的に目標を達成できるパワープロセスを破壊され、システムが押し付ける他律的パワープロセスに組み込まれた。自律的パワープロセスをもとめることは『病気』とみなされるのだ -
村上はこれを評して、自律的パワープロセスは他律的パワープロセスと合わせ鏡であるから単独立はできないとする。自律的、これを達成するためにはクローズされた自己完結の空間を欲する。その体現がオウムであった。
なるほど、しかしこれはいつか破綻することが約束されたものである。この破綻に社会が耐えられるかどうか。自律的パワープロセスの抑圧もしくは過度の他律的社会によって逃げ場を失ったものたちがどこへ向かうかについて関心を払う必要がある。そのことを加害者側をみるのではなく被害者の心情から浮かび上がらせたのが本書であろう。
インタビューを丹念に読んでいくと、破綻を表したのがオウムではなくすべての人を含む社会の破綻であることがわかる。
JOHNY