JOHNY’s BLOG

かほりたつあざやかなはなとどめおくおもいをよせる淡雪のふみ

読売新聞 元旦

2005-01-26 08:41:14 | マスメディア
「脱戦後」国家戦略を構築せよ(対応を誤れば日本は衰退する)2005/1/1
新年初めての社説で何が述べられているかによってその新聞が何を目指しているかを推し量ることができるだろう。読売新聞では次の三点を挙げていた。

1戦後民主主義の残滓憲法の廃棄主として9条。
2教育基本法の改正とりわけ愛国心について
3平等偏重からの転換自己責任へ

いかにも読売新聞らしい内容である。
1に関してはソ連崩壊、911、IT革命という雑駁な世界の流動原因を挙げ、それに対応できる体制を作るということでいわゆる戦後民主主義を否定してみせる。その否定論拠は日本国憲法がGHQによって押し付けられたものであるというものと9条2項の「戦力放棄」の非現実性を挙げる。
 
新聞は日本国憲法をどのように捉えるか
 
私見によれば、この国のジャーナリズムは1952年 から再スタートを切ったといえる。第二次大戦を終えてから1947年に日本国憲法が施行されてからも日本は連合国軍に占領されていた。その初期に言論の自由化政策がGHQによって採られた。

「言論及び新聞の自由に関する覚書」9/10
「新聞の政府より分離に関する覚書」9/24
など、
また1947以降は憲法の中で表現の自由が保障されていたが占領下ではGHQ政策に基づく検閲がされていた。
大戦中、国家に戦争協力を強いられ、ある意味主体性をもてなかった新聞社が終戦で主体性を得たと思ったのもつかの間、あらたな権力に屈しなければならないという状況があった。この状況がかわるのが、サンフランシスコ講和条約以降ということである。そのことからこの国のジャーナリズム(新聞)は1952年に再スタートしたということができるのである。このことは同時に日本国憲法もここから再スタートしたということを示唆するのではないだろうか。
 
 この国の新聞ジャーナリズムは日本国憲法とともにあるのである。過去、権力にゆがめられてきた新聞の自由を保障してくれるものが日本国憲法である。この憲法の精神は平和と民主主義を基調としたものであり、新聞はそれを国民とともに保持する役割を担っている。
ゆえに、第九条派中心問題になりえるのである。すなわち、平和と民主主義を維持するために、「戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」ということが機能的なのか否か。さらにはそこに自衛権という概念があるのかないのかというようなことが考察されなければならないということなのである。

 この考察の部分を市民に提起すべく新聞は積極的に発言、もしくは言論空間をつくるべきなのであるが、この約半世紀それは十分にはされてこなかった。
 
 この点反省し読売新聞は今、新たな試みをしようとしているのであろうか。答えはNOであろう。社説の中に使われる戦後民主主義の残滓という表現からもわかるように、読売新聞社説のいうところは、戦後日本国憲法の下の民主主義の否定である。それは、自らの言論空間作成機能の否定でもある。なぜならば平和を求める民主主義なくして自由な新聞というものは存在できないと思われるからである。
 
 2教育基本法の改正とりわけ愛国心について
近時、世界で活躍するスポーツ選手などの応援風景にでてくる日の丸君が代、そしてここにセットであるかのような「愛国心」。これについて社説では次のように言う。

「愛国心が是か非かなどということが議論の対象になる国など、世界中、どこにあろうか。こんな奇現象が生じるのは『愛国心』と聞けば、反射的に『狭隘な』という形容詞をかぶせたがり『戦前回帰』『軍国主義復活』などとして騒ぎ立てる”守旧”思考が、いまだに一定の勢力を有しているためだ。」

 この論の中でもし同意できるものがあるとすればそれは「愛国心」自体が悪いものではない、ということであるが、他は論理のすり替えであり同意できない。社説が指摘する狭隘、戦前回帰というような形容詞を使いたがる人たちが言おうとしているのは、「愛国心」がなにものかによって(多くは国家であるが)個人に強制されること、その態様について異議を提起しているのである。これは人間の精神活動に重きをおき、そこに生ずる思想を国家からの自由として確保しようとする近代憲法の考え方といえる。
 これを言論の自由をはじめ、個人の自由の不可侵性を明らかにしたJ・Sミルの著『自由論』にみれば次のような記述がある。

 「政府が国民に対して完全に責任を負っていると否とを問わず、意見の発表を統制しようと企てる場合がしばしばあるとは、危惧するに及ばないのは立憲諸国においてである。但し、政府自らが、公衆全体の不寛容の傀儡となって、意見の発表を統制しようとする場合は別である。それ故に、われわれは、政府が完全に国民と一体であって、従って、国民の声と考えられるものと一致しない限りは、いかなる強制権をも行使することを欲しない」とする。近代の立憲諸国においては政府による言論、思想統制のごときものはゆるされないというのである。また仮に統制をしようとする世論がありそれに添った形で政府がそれを行使しようとした場合もそれは害悪であるとする。その行為は「世論に反対して行使せされる場合と同様に有害であり、あるいは、それ以上に有害である」というのである。その後に述べられているものも近代憲法の理念の基盤となるものといえるので引用する。「仮に一人を除く全人類が同一の意見をもち、唯一人が反対の意見を抱いていると仮定しても、人類がその一人を沈黙させることの不当であろうことは、仮にその一人が全人類を沈黙させうる権力を持っていて、それをあえてすることが不当であるのと異ならない」とする。このことによって守られるものは人類の利益だという。すなわち、一人を沈黙させることは現代、後世に渡り、もしかしたら真理であったかもしれないことを採る可能性の放棄になるのである。

☆つづく


憲法19条「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」この点についての齟齬は互いに確認を取れば共通認識とできるはずと思えるが現実問題としてできていない。これは「愛国心」

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