JOHNY’s BLOG

かほりたつあざやかなはなとどめおくおもいをよせる淡雪のふみ

モルスキン

MOLESKINE モレスキン ルールドノートブック・横罫・ラージ ([文具])

おひがらもよく

2006-04-28 23:22:38 | Weblog
今日もたのしく遊んできました大学で。
拘束がないので気楽にいってるのがよいのか、行くのが楽しいです。
しかーし21時も過ぎると眠気に襲われるのは、体内仕事受付キャパが減っている証。そもそもいままでが過剰な仕事量だったので今の状態が正しいとも思えます。

 夕方に学食に行くと、お友達Mさんに発見してもらい歓談。マニアな話題がいつも楽しいです。連休の予定などをはなす。彼女は海。わたしは・・・いつもとは違うことをするという漠然抽象。

 なにするみんな?

図書館でゆるりとして帰る頃、昔のお友達を発見。
まだ勉強しているのか・・・法律の勉強をしていた彼女、していた私。
あれから7年です。 尊敬です、続けるコトが一番難しいと私は思う。現にわたしはやめてしまったからね。違うことはやっていますが。

 結局私の非日常計画はたぶん勉強がらみでしょう。このなかで独創的な非日常トピックを考えたいです。

                 JOHNY

趣味の大学

2006-04-27 00:47:02 | Book
 講義に行くと魅力的言葉に出会います。
 
 ”階級還元主義への批判・・・”

悪くないでしょ、知っている言葉とならべると、生物的還元なんたら、ジェンダーとかではこんな言葉がでてきます。

 よくわからなくてもいいのです、漢字がかっこよいのだから。
今日のトピックは資本主義のオルタナティブとしての社会主義というものであり、実は私が最もよくわからないところです。

日頃はなすことは、しばしば、それマルクス主義だよねといわれることもあり、社会主義には親近感がありますが、マルクスは読んだことがない。
 もういまさら読めません・・・
だって大著すぎ。ゆっくり読む時間がないです。
というわけで、上部構造によってすべてが規定されるがごとくの階級還元主義はさらっと批判だけして、部分の解読に逃げようと思います。

 とはいえ批判的ポジションを取るわけですから基本だけ本で押さえたい。

『フランス人権宣言と社会主義』1989 日本評論社

階級還元主義は”社会主義国家”のものであって、社会主義のそれではない、とすれば社会主義の未来はありえる。そのことを確認するためにフランス革命との近似性をみることが可能かどうか。
 本心を言えば、言葉は消耗老化するものだからあえて”社会主義”という枠に固執する必要はないと考えています。
 自由と平等を求めることが担保されれば人は幸せでいられるのだから。

                   JOHNY

めも

2006-04-25 07:59:12 | Book
2005/4/18 Japan times のトップ記事は
China reffuses to apologize for anti-Japan violence
Machimura fails to mend ties in Beijing visit


Never mind pope's stand against Iraq war
acquiescent media have found it best simply to ignore them

書きかけのノートには

2006-04-25 04:43:17 | Book
書きかけのノートは、
 
 戦争、貧困、差別、抑圧、民族、憎悪、本質的解決が見出せない・・・と始まっている。
 
 途中までしか書いていないので何を書きたかったのかは思い出せないが、20代初めの頃、とにかく何かに怒っていたのだろうということはわかる。つい最近このフレーズに近いのをきいたなあと思う。
 映画「GO」の冒頭に出されたフレーズが同じようなものだった。

嫌悪すべき言葉たちが永遠に現在であることが、人間の愚かさを語る。

                 JOHNY




ナショナリズムとデザイン

2006-04-24 06:05:31 | Book
ニッポンプロダクト
カラー写真満載のちょっとレトロな人のココロくすぐるラインナップの商品デザイン解説書。掲載されるいくつかの商品にココロをつかまれ買ってしまいました。3000円。
ニッポン・プロダクト―デザイナーの証言、50年!

美術出版社

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前書きにGKデザイン機構会長が寄せた言葉によれば、日本人は元来ものづくりに長けている、そしてゼロ戦、隼をつくった日本人だから進駐軍にあるものを作れないはずはない。このように考え当時コピーと揶揄はされたが、日本なりのデザインが始まったとする。そして60年のときを経てみれば日本のデザインは世界に冠たるものとなった。これは日本の伝統文化がデザインに反映され世界に評価されたものとする。結びには日本のインダストリアルデザインは新たな挑戦期にはいったとして、ここで生きてくるのが日本の数百年続いてきた質素の美学や、優しい自然との共生思想、ものに心ありといった有史以来のアニミズム信仰が大きな影響を持つことは必至とする。これらの言葉をみるとすこし首を傾げたくもなるが、ものづくりにかかわり日本を発展成長させたという自負が言わせることだと素直に捉えたい。
 
 しかし個人的な発言としてではなく、社会的なものとして考えていくときにはそこに存在するナショナリズムに関心が向く。本書のあとがきには別の人物が言葉を寄せているのだが(日本産業デザイン振興会理事Gマーク事業部長)この人は日本のデザインの発展には、ふたたび負けたくはないというはっきりとした敗戦国日本のナショナリズムが起爆剤になったと記述している。現在、デザインという言葉を抽象的に捉えれば一見温度の低いクールなものと感じられるが、デザインという言葉にいったん創出する人の存在を見つけるとナショナリズムと急速に近しいものとなるようである。それは日本の商品デザインの確立期というのが1965年から67年という時期であろうということとも関係がありそうである。1964年は東京でオリンピックが開かれた年である。そしてこの時期にすでに国民に浸透し主要なメディアとして捉えられたテレビが速度を増して白黒からカラー化された。カラー化されたメディアによって国民に提供された商品情報は国民の購買意欲を増大させるものであったであろう。またその意欲に反応する形で商品は生み出されたといえる。そのときに重要視されたのがCMの視覚的効果と、さらに商品自体のそれ、つまりデザインの洗練、より消費者に訴えかけるデザインというコンセプトが、ひとつの確立期を見た、このようにいえるだろう。

 デザインされることは消費されることを前提としている。戦後日本のこの状態を増強していくきっかけが世界的イベントであるオリンピックにあったことは興味深い。先の大戦につながる流れは近代オリンピックがはじまってからの期間と苦しくも重なっている。

オリンピック憲章で目指されたものはスポーツを通した民族を超えた人類の共存であり平和であったが、メディアとしてのオリンピックで見えてきたものは国威の発揚でありナショナリズムの強化であった。
日本は二つの大戦を経たあと、参加を許されなかった大会がありそのご国際社会に復帰し1964年に第十八回オリンピックを東京で開くまでになった。戦後約20年、このときのオリンピックで日本社会はどのような空気を作ったであろうか。2004年に東京オリンピック40周年ということで市川昆監督の映画東京オリンピックが再編集され販売された。映画自体はスポーツ選手の躍動感を余すところなく伝える、表現として優れたものであるのはいうまでもないが各競技の勝敗を丹念に追っていくという競技記録的な側面は少なかった。映画全体で伝えようとしているメッセージは、オリンピック憲章にもとづいたナレーションで理解できるもので、とくに平和ということを強調している。
 その一方で、映画の始まりには日の丸のメタファーである朝陽が昇る映像があり、終わりにも同じものが挿入される。そして中には君が代が演奏されると立ち上がる観覧に来ている裕仁天皇そして国民の映像が挿入されている。また競技を観覧するカットに一般市民のものとともに、皇室の人の映像が挿入される。アキヒト皇太子、美智子さん、まだ幼かったヒロノミヤ君。これらには 平和を強く意識させるメッセージがある一方、皇室を中心とするナショナリズムを強化する意図が感じられなくもない。すこし見方を変えれば皇室の人の観覧姿のカットは日本国憲法に忠実な形を表し平和をさらに強く訴えたということもできなくはない。
 
 日本国憲法の第一章は天皇であり、第一条にあるのは、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する国民の総意に基づくというものである。市川昆が現したのはこのことだったかもしれない。
 しかしなんにせよ、オリンピックそのものというよりも“イメージとしてのオリンピック”として作られた映画を見た国民は競技そのものを感じるよりも、皇室の映像に国家としてのシンパシーを感じることがつよかったことは疑いがないであろう。この映画が公開されたのはオリンピック翌年の三月であり、延べ1800万人がみるという大成功となっている。オリンピックが終わってまだ半年もたたないうちに少なくないものたちがこの作品を見たことは大きな意味を持っているように思える。
 
 テレビのカラー化を進めた東京オリンピック、カラー化された広告によって売られる商品、洗練されるデザイン。このように考えてみるとデザインの本に寄せられた言葉の中にナショナリズムが強調されていることは必然なのかもしれない。
タイトルにある“ニッポン”についた小さな○もその表れなのだろう。


                      JOHNY

プロセス小林よしのり

2006-04-22 23:10:23 | Book
 お友達とお茶をしながら話していて、プラトン『国家』読んだことある? と質問してみました。

 あるある、おもしろいよね。

コウこたえてもらえると安心感ありますね。

そこから特にプラトンの話になるわけではないのになぜなのか。
それはね、
プラトンを読むまでの過程を推測することができるからなのでしょう。よほどのことがない限り いきなりプラトンは読まない。
 少なくない読書量と思考の積み重ねの上にプラトンがでてくるはづだという理解です。
 そう思えば他の話題をふってみてもだいたいのところの共通理解があるとおもえるわけだ。

 でおもうのだが、最近流行っていたらしい 韓国嫌いの漫画本や小林よしのり系、この手の思考を好む人のなにが嫌いかといえば、そこにいたるプロセスの薄さにある。
 小林よしのりは悪くないのに、小林よしのりに同調傾向を示す人は弱い・・・。
よしりんはもうちょっとそこのところに気を配って欲しいな~とずっと私は思っています。
たとえば、よしオレを読んだら次はプラトンな、みたいなね。


                   JOHNY

掟の門と

2006-04-22 22:31:04 | Book
審判

角川書店

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フランツ・カフカ『審判』は文学講義の課題として読んだような気がする。
このSFこわいよ~という単純な感想だけが残っていますが、その中のエピソードをいますこし思い起こしています。
 
 ある男が「掟の門」とうところにたどりつき、その門をくぐろうとおもうが、門番に阻まれる。まだ入ってはいけないといわれる。いつまでも許可はでないまま、男は門の前で目を閉じる。
 最後に男は門番に質問する。自分以外がここにこないのはなぜなのか?
門番からの言葉は、 この門はおまえだけのためのものだったというもの。

ここからかんがえられることが重要なところ。
この門をくぐらなかったのはなぜなのか、門は開いていたにもかかわらず、くぐらなかった意味はなんなのか。
 ある男には意識していない規律があった。内部に自己を規制するプログラムがあった、外部にではなく内部にというところが肝心だ。
 人は知らずのうちにあるコードプログラムを埋め込まれていると考えられる。単純な話をすれば学校制度によって養われたものがそれであるわけだが、これは書き換え可能なものだろう。
 男は目を閉じる前にそのことに気づかなければならなかった。何年もまって結局時間切れになった。
 門は閉じていたのではなく開いていたのだ。
くぐらなかったのは意識の問題に他ならない。
 
 とはいえ、内面化された規律に意味がないのかといえばそうとも言い切れないのかもしれない。究極的には意味がないという意味があるというような状態になるかもしれないが、その点を考えていくことは必要なように思う。

 こんなことを考えるのは、自分にとってはやっぱり先般の卒業式が大きく影響しています。その場所まで行きながら門をくぐらないという、ことにほんとにショックを受けた。哀しいし悲惨だとおもった。

 昨日、ある講義の聴講生の手続きをしてやっと一つの門をくぐったように思う。自己を規制するものは限りなくあるが、その規制を抜ける穴も少なからずあるはずだ。なんらかの穴をさがして力をかりて門をくぐればいいのだ。

                    JOHNY
 ここまで書いて気が付くのだが、学校制度に埋め込まれたものは=左翼的イデオロギーとかいうものではないですよ。もうひとつでかいロジックでいうところのものですから間違いないよう願います。

ほんとにたまに

2006-04-22 19:43:46 | Book
だけラーメンをたべたくなります。昨晩購入した飴玉の袋におみくじ、ラーメン入り、とありました。はたしてラーメン入りとはなんなのか?とあめ玉をなめながら散歩していたら、食べたくなった。というわけ。
広告の効果があらわれた一例。
でも結局ラーメンいりは不解明、おみくじは大吉でした。


歴史と小熊英二シラバス

2006-04-21 07:34:36 | Book
歴史って何?例えば60年前の戦争は歴史なのか?
 こんな問いを受けてなんとこたえるか。

そうだね~歴史とは現在ではないか。
現在の私の輪郭をはっきりさせるために知らなければならないこと、過去の歴史という言葉は語義矛盾ではないだろうか。今と切り離された歴史というものはないように思う。

以下は小熊英二の講義のシラバスですが、なんとなく答えがあるように思います。

たんなる年号や事件の羅列としての「日本史」ではなく、近代国家成立の仕組みを総合的に把握し、現実政治を分析する視点を養う場としての「近代史」を学ぶことが目標である。


 ・教材
 第1回(4月10日)

 手始めとして、「近代とは何か」についてこの講義で必要な範囲において話す。人間が身分や慣習から自由になりながら、同時に戦争と環境破壊が絶えない「近代」とは何なのか。「近代」とはたんなる年号の区切りではなく、一定の特徴を備えた社会のかたちであることを理解してもらいたい。

 第2回(4月17日)

 この回では、「学校」について講義する。読み書きソロバンといった「実学」を自発的に学ぶための場だった江戸時代の寺小屋にたいして、近代国家の学校の特徴の一つは、「生活の役に立たないことを、強制的に教える」という点にある。近代国家が、いったい何のために多額の予算を投じてまで、学校をつくったのかを考える。

 第3回(4月24日)

 この回では、「開発」について講義する。発展途上国が上からの産業開発を行なう場合、資本の不足や技術の立ち後れなど多くの困難が発生する。明治の日本がなぜそうした困難をクリアできたのか、それはどんな問題点を残したのかを話し、現在の発展途上国の問題への示唆を学ぶ。

 第4回(5月1日)
 この回では、「国語」について講義する。国民統合が進んでいない第三世界国家では、公用語が複数だったり、英語やフランス語が公用語である(つまり「国語」と「公用語」がちがう)ケースは珍しくない。日本でも英語公用語案や漢字全廃論などの議論を経ながら、単一の「標準語」が成立していった。一つの国家に所属する人間が、全員同じ言語を話すという異常な事態は、どのように可能になったのかを学ぶ。

 第5回(5月8日)

 この回では、「ナショナリズム」について講義する。明治初期においては、薩摩人と会津人は自分たちが「同じ日本人」とは思っていなかった。天皇への民衆の関心はうすく、幕末の内戦では日の丸は旧幕軍側の旗だった。そうした人間集団が、いかなる方法で天皇と日の丸をいただく「日本人」として形成されていったかを考え直す。

 第6回(5月15日)

 この回では、「国境」について講義する。近代国家の特徴のひとつは、国境線を明確に引くことにあり、そのために前近代から近代への移行にあたって国境紛争が発生する。明治初期の日本にとっての最大の国境紛争だった沖縄問題を中心に、欧米や中国との外交経過とともに、ひとつの地域が「日本」に編入されてゆく経緯を学ぶ。

 第7回(5月22日)
 この回では、「性と家族」について講義する。性に関する観念は近代以前と近代以後では大きく異なるが、一般に誤解されているのとちがい、「封建的」と呼ばれる貞操感は明治以後に流布したものである。身分制度に基づく社会から国民国家に変貌する過程で、人々の性意識や家族形態がどのように変わったかを検証する。

 第8回(5月29日)

 この回では、「教育」について講義する。身分秩序を破壊し、一元的な価値観のもとに自由競争による社会上昇を可能にした近代教育は、やがて心理的・社会的・経済的にさまざまな問題を引き起こす。近代教育の試行錯誤の歴史をふりかえると同時に、多様性と平等、自由と安定のジレンマというすぐれて「現代」的な問題と特徴をとらえる。


 第9回(6月5日)

 この回では、「福祉」について講義する。共同体の解体と競争の拡大は、必然的に競争の敗者に貧困をもたらす。その対応として、共同体の代用となる労働運動や福祉政策が生まれるが、それはやがてコーポラティズムと国家の肥大をも招いてゆく。貧困とその対応をとおして、現代国家の特性を考える。


 第10回(6月12日)

 この回では、「差別」について講義する。近代社会は、自由で自立した近代人を人間の典型として描くが、女性・障害者・老人・異民族など、その基準から外れた者が差別の対象となる。差別は近代化が進むことによって解消するのか、それともより悪化してゆくのかという問題を考察する。

 第11回(6月19日)

 この回では、「戦後体制」について講義する。現在の日本のあり方は、第二次世界大戦直後の占領改革や新憲法の制定、そして一九五〇年前後の国際情勢などによって決定された部分が大きい。そうしたなかで、国内の改革やアメリカとの関係がどのように構築されていき、現在にまで影響を及ぼしているかを考える。

 第12回(6月26日)

 この回では、「戦後補償」について講義する。戦後補償問題は、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」といった特定のトピックに議論が集中し、ナショナリズムに関する議論もからんでやや錯綜している。補償問題の全体像を把握し、現在の日本の国際的位置にこの問題が与えた経緯や影響などを整理して解説する。


 第13回(7月3日)

 この回では、「外国人」について講義する。現代における国民国家の成熟は、国内の国民に権利を拡張してゆく過程であると同時に、外国人との権利の差が拡大してゆく過程でもある。日本にとっての最多数の外国人である在日韓国・朝鮮人を中心に、「日本人」と外国人の境界の問題を考える。


  



① 竹内洋「教養主義の没落」(中公新書)

教育社会学者が、近代日本における階層文化としての「教養」の成立と崩壊過程を描いたもの。ブルデューの階層社会分析が応用されている研究の一例。

②芹沢一也「狂気と犯罪」(講談社+α新書)

 近代日本における「狂気と犯罪の歴史」。フーコーの「狂気の歴史」の日本への応用として成功している事例。


③吉見俊哉「博覧会の政治学」(中公新書)

 社会学者による、日本における博覧会の歴史。博覧会がどのように近代国家形成や植民地支配にかかわっていたかにも言及される。フーコーの「まなざし」の概念の応用もみられる。


④タカシ・フジタニ「天皇のページェント」(NHKブックス)

 人類学やメディア・イベント研究を応用した近代天皇制の分析。天皇家のメディア戦略を考察した多木浩二「天皇の肖像」(岩波書店)および若桑みどり「皇后の肖像」(筑摩書房)は問題意識が近いが、理論的背景はクリフォード・ギアツなど。

⑤牟田和恵「戦略としての家族」(新曜社)

 いわゆる「近代家族」論の日本近代史への応用。落合恵美子「二〇世紀家族へ」(NHKブックス)と併読するとわかりやすい。

⑥赤川学「セクシュアリティの歴史社会学」(勁草書房)

 フーコーの「性の歴史」の近代日本への応用版。オナニー有害説の言説の歴史をあつかう。学問的方法論を述べた部分が充実しているので、自分も研究してみたいというひとには参考になるかもしれない。

⑦橋本毅彦・栗山茂久編「遅刻の誕生」(三元社)

 近代日本における時間意識の変化を、学校・鉄道・時計といった制度や技術の変化から追跡した論文集。興味深い事例が多い。


⑧品田悦一「万葉集の発明」(新曜社)

 近代日本における「伝統の発明」のケース・スタディ。万葉集がどのように「国民的」な古典になったかを検証。木博志「近代天皇制の文化史的研究」(校倉書房)やホブズボーム編「つくられた伝統」(紀伊国屋出版)などと併読するとよい。

⑨イ・ヨンスク「『国語』という思想」(岩波書店)

 「国語」という概念が日本に定着した過程、およびそれが植民地支配でどのように働いたかを検証したもの。田中克彦「ことばと国家」(岩波新書)と併読するとよい。

⑩木村直恵「<青年>の誕生」(新曜社)

 明治二十年代における政治意識の変化と「青年」概念の誕生を、ブルデューの「ハビトゥス」概念も応用しつつ検証したもの。アリエス「<子供>の誕生」(みすず書房)、ロジェ・シャルチエ「書物の秩序」(ちくま学芸文庫)を併読するとよい。

⑪柄谷行人「日本近代文学の起源」(講談社学術文庫)

 近代日本における「文学」概念の成立を、フランス現代思想の応用から読み解いたもの。今回取り上げた本のなかでは、読むのに若干の予備知識が必要なものの一つ。


 全部読もうと思うとけっこうな手間・・・ですが。せっかくだからいっときましょうか。

                         JOHNY

今、あなたが必要なのだ

2006-04-21 06:46:02 | Book
20世紀で最も完璧な人間は誰?
サルトルがゲバラといい

あのころ世界で一番カッコいい男だった。
とジョンレノンが言った

マラドーナは身体に刻み、ウオホールがシルクスクリーンに。現代の日本でもTシャツにすられる。

人間愛と正義感に突き動かされて生きた男、実現されることが困難な理想世界を求め続けた人。


今、あなたが必要なのだ、という言葉は人を信じることができた人間であることを語っている。

 もしゲバラの時代に生きていたら私はゲバラに会いにいったとおもう。

 1967年10月9日射殺されたチェ・ゲバラ

ボリビア共和国サンタクルス州カミリ地方イゲラ村 ゲバラの死地

出会う言葉

2006-04-21 05:52:56 | Book

ここにとどまるわけにはいかないけれど

 理論が、知識が、理解が、輝かしい光を放つのは、それを展開する私たちの身が安全であるからだ。それらが私たちとはまるで関係のない遠方の未開部族であるかのように眺めているからだ。

 コールガール ジャネットエンジェル著 より

 このことを問うのはなるべくやめようとは思っている。自分がそこにスポイルされることだけを避け、優秀な学者にそれを問うのはやめようと。

 他人事にしている人がほとんどだけれど、そうじゃないひともいる。人間に良い人がいれば悪い人もいる、ということと同じことにすぎない。

私のことを好きな人もいればキライな人もいる。

たったこれだけのことを理解するのにずいぶん時間をかけた私。

                  JOHNY

ヒトラーの最後

2006-04-20 06:02:43 | マスメディア
ヒトラー

アイ・ヴィー・シー

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すごい映になりますね、ジャケットだけなのに。
アドルフに読み込むもの、かぎ十字と、赤と黒。私のケイタイ待ちうけは赤バックのチェ・ゲバラですがこれも似てなくはない。
 
 赤と黒のインパクトぷらす描かれているものへの知識。

ツタヤにヒトラーものがいくつか並んでいて気になります。戦後60年という時期になりやっとタブーに触れ始めたともいわれてましたが、さて。

 日本の場合ならば裕仁天皇ということなのでしょうが、どの程度ここに切り込んでいるか・・・。皆さんが知るとおり。
  
 日本では正義を判断するココロと他人への配慮というようなことは積極的に教え込まれることはないように思えます。差違がない個人の集積としての社会に同調することは他者への尊重を読み込んだものではない。天皇というものが社会というものと結び付けられている。象徴としての社会?

 社会が解体しそうで怖いから誰も切り込めないんだろうね。

                    JOHNY