JOHNY’s BLOG

かほりたつあざやかなはなとどめおくおもいをよせる淡雪のふみ

モルスキン

MOLESKINE モレスキン ルールドノートブック・横罫・ラージ ([文具])

メモ

2005-04-30 21:11:43 | Weblog
 有山輝雄 戦後史の中の憲法とジャーナリズム 1998 柏書房 早大法学部学読

日々の出来事を記録し報道する新聞、この報道の中に過去の戦争の出来事を語ることも含まれている。過去の戦争がどのようなものであったかというようなことは戦後、多くの力をさかれてほうどうされてきたといってよい。報道されるにあたりより多くの視点からすべきであるといったことは新聞の中にあったことと思われる。
しかしそこにはたりない点があったのではないか。新聞自身と戦争との関係といったものである。
第二次大戦後、日本においてはGHQによる指導の下作られた日本国憲法とともに新聞は存在してきた。それを自明のこととして新聞自らのあり方というのは省みられることはなかったのではないだろうか。
 果たして新聞はどのようなポジションから出発しどのような過程を経て現在の存在となっているのか。


199411/3
読売憲法改正試案
有力な間で展開される憲法論争 戦後ジャーナリズムが、憲法論付議の中で果たしてきた役割はなんなのか。

鶴見俊輔 S24/8/15によせて(鶴見俊輔集9 方法としてのアナキズム)
「戦争中の軍国主義と超国家主義のにない手がそのまま戦後の平和主義と民主主義のにないてであるような日本の現代が、ニセものでないはずはない」
この記述のなかには当然に 新聞 というものの存在も読み込まれるべきであろう。
敗戦時において日本の新聞各社は解散させられ異なる担い手によってあらたな新聞社として出発すべきであった。現にドイツにおいては戦前の新聞社は解散させられるという現実があった。
 ここに現代の日本の新聞が抱える問題の萌芽があるように考えられはしまいか。
  

センスティブとは

2005-04-30 20:11:04 | Weblog
 学者にもとめられるものは、自分の発する言葉の定義に正確、敏感であれということ。ひとつとしてはこれがあるでしょう。しかしもっと重要なことがあると私は思います。
 人の感情に敏感であれ、ということ。いくら言葉を正確に使ってみたところで、その言葉がどのようにあいてに作用し、どんな感情を巻き起こすやも知れないということに無配慮であれば、そんな言葉の正確さは何の役にも立たない。
 勉強のできるか否かではなく、人の感情に思いをはせられる人が多いか否かが一番にこなければいけないと私はおもう。

                    JOHNY

れんきゅうチュウ全国憲

2005-04-30 19:59:53 | Weblog
 さて今年は何をするのか。
べんきょうとなっています。出かけるいく先は明治大学と早稲田大学とをぐるぐるしているだけだと思われます。
 5/3は私の大好きな憲法記念日 全国憲 の講演会が大熊講堂であります。13:00から。話者は樋口陽一 および大江健三郎となっています。
 樋口氏は昨年度いっぱいで引退されましたが、まだまだ頼りになる憲法学者、大江氏も戦後日本の文壇を支えてきた世界のビックネームです。
 時間のある方はぜひいらしてください。

 私は一年のうちで5/3が一番好きな日です。一年がもし本のようになっていたら5/3のページにはしおりがはさんでありますきっと。

                 JOHNY

一度おりたら

2005-04-30 01:12:03 | Weblog
 ほんのすこしアドバイスをくださいと大学生の子たち。余分に生きていることの経験を話してみる。参考になるかどうかは聴いた本人しだい。
話していて退屈になることがある。
彼らの中に
自由から、生きていることから降りようとする心性を感じるから。
 生活する形は変えても自由なココロから離れてしまってはいけないとおもう。
 一度おりてしまった人は本気の世界には戻ってこれない。

           JOHNY

ココロに太陽

2005-04-29 16:40:47 | Weblog
うちがわからひかってやろうかなって、
映像の中で
スーツ着ている人 バイク ミニ 真実なんてないってことを証明出来る
枠からはみだしてもそれが形になれば
形にはめられたくない私が形を作るのってやっぱきゅうくつなんだよね

映画
ロックンロールミシンより

ストレンジャーと

2005-04-29 00:03:29 | Weblog
 大学からの帰りがけ、留学生のお友達とおはなししました。長い時間はなしていたわけではありませんが、なんとなく繊細な部分の話をしたと思います。
 同国人であればかなりの時間を費やしてからでなければ話さないことを留学生とは短い時間の共有だけで話すことができます。
 それはたぶん留学生がストレンジャーだからだと思います。
私にとってのストレンジャーという意味からではなく、その社会の中でのストレンジャーであるということに共感するから。私から留学生に対するシンパシーが働く。
 私が社会の中で感じる疎外感を留学生の中にみるとともに、ナショナリズムにもとづく人間観より大きな枠のなかでの存在としての自己を確認できる相手として認識する。
 求める世界観の一部を共有できる人はストレンジャー。

               JOHNY

知るために誰を

2005-04-28 13:49:55 | Book
 海外で日本の現在のことを研究しようと思うとき、その時々の言論人をとりあげるのだという。
ときにそれは石原慎太郎であったり小林ヨシノリ、そして筑紫哲也。
 このような人々をピックアップしてそれで日本の状況を判断しようとすれば間違ってしまう・・・かも。
 こんな発言を聞いたのですが、はたしてそうか。
たとえば石原新太郎てき発言はいわゆる一般社会の中では許されない(と私は思う)。とくに公人としての立場ではぜったいにまずい。
それなのになぜ彼は現職の知事のままなのか。それは彼の発言を許す土壌が社会の中に醸成されているからに他ならない。
このように考えれば、外国の研究者が石原慎太郎をとりあげ、今の日本イメージを作り上げてもあながち間違いではないのではないかと考えられる。
もちろんそれですべてが語れるわけではないけれど、社会の一端が見えることは疑いがない。
 突出した言説の背後には無数の潜在需要があると考えられる。

                 JOHNY

島田雅彦と

2005-04-27 23:59:01 | Book
 先日行った講演で壇上にいたひとり。名前はしっている、姿をみるのは初めて、作品はよんだことがない(小説など)。ではどこで彼のことを知っていたのか。
おそらく広告批評か新聞紙上での発言などによって。
 好感を持っている名前なので思考方向も自分と遠くはない。にもかかわらず作品をひとつもしらないということは決定的な何かがかけているということ。

たしかに講演の中で発する言葉には鋭さがあり、ほほうとおもうのだが、そこからさき引っ張り込まない。意図的なのかそうではないのか。
 軽妙な語り口と若者うけするルックス、これは意図的でしょう。

 ほんのわずかに、軽い存在、その軽さがちょっと鼻につく。
2005/4/26朝日 文芸時評で彼はここ10年の日本の文学パターンを次のように言う。「フリーターのぬるい生活と意見」「もてない男の妄想人生「井戸端会議の愚痴」「トラウマと癒やしのバラード」。
ネットを介した口コミで売れる文学をポピュリズムの波の中に巻き込まれているというあたり、視点はとてもいい。
 芥川賞作品にはならなかった彼の作品は時代に少しだけ背を向けているのかもしれない。
現職の大学教授、
かれにとっては良い仕事先のように思う。
 彼の言葉に期待しています。

          JOHNY

200412/5朝日書評

2005-04-26 07:21:00 | Book
『精神病棟に生きて』『人間嫌いの言い分』『実感的人生論』
普通であることがすばらしいという価値観はいったいどうやってみにつけてしまったのか。過剰なまでに人とことなるということに恐怖し嫌悪感を覚えるのはなぜなのか。
 社会の中にいながらこの感覚を払拭することは難しい。
私の中にある感覚、ちがくないだろ、おなじだから・・・。ちがうんです、このような感覚に翻弄されていることがすでに違う。
 同じであることを苦しく哀しく求め続けた。
意味がない時間だと思う。
私の確立だけをめざそう。

12/5は誕生日、その日にあった書評に親近感、わたしのための紹介。
            JOHNY

書評から200412/5

2005-04-26 07:05:09 | Book
「ビジネスのサムライ」
戦後教育に欠落したものについて 戦前の教育の中にあってせんごにないもの 「世のため人のために生きるというエリート意識の育成」
たしかにその通りなのかもしれない、しかし教育の中に、個人のエゴがなかった戦前が良くて個人を尊重しようとする戦後が悪いといいきれるのか。戦後の社会が個人の犠牲の上に立った会社至上主義で進み現在の富を作ったことは疑うことのない事実である。個人を尊重するとうったったはずなのに、その力は会社に吸収されてしまったのである。今求められるのはかっての教育への回帰ではないだろう。
 個人と公共をプライベートとパブリック とした場合その原義をたどってみるとおもしろいことがわかる。プライベートというものはパブリックなものを剥奪されたものという意味です。これはまずパブリックがあり、その後にプライベートがあるということです。『日本の無思想』加藤典洋より。
 この前提には働きかける存在としての人間があるということです。
するとここにはある種の権理性があり、先の本のようにエリート意識教育のようなものをするというのではなく、個々人が持っている権利としての側面を教育の中ではっきりさせることによって社会を構成していくということが本旨であるように思います。

                JOHNY