* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第八十四句「六箇度のいくさ」

2010-10-06 21:00:42 | 日本の歴史
  敵兵(源氏方)の首を運び込む“平教経”軍の軍兵たち。
 淡路島の福良の津に攻めよせた“平教経”軍は、源氏方を討ち破り、賀茂の冠者は討ち死に、淡路の
 冠者は手傷を負い捕らわれた。
 

<本文の一部>
 さるほどに、平家は正月中旬のころ、讃岐の屋島より摂津の国難波潟へぞ伝はり給ふ。
東は生田の森を大手の木戸口とさだめ、西は一の谷を城郭とぞかまへける。そのうち、
福原、兵庫、板宿、須磨にこもる勢、ひた兜八万余騎・・・・・・・・・・

 一の谷は口は狭くて奥広く、北は山、南は海、岸高うして屏風をたてたるがごとし。北の
山ぎはより南の磯にいたるまで、大石をかさね、上に大木を切って逆茂木にひきたり・・・

  阿波、讃岐の在庁らども、源氏に心ざしありけるが、「昨日まで平家にしたがうたる者
が、今日参りたらば、よも用ひられじ。平家に矢一つ射かけて、それを面にして参らん」と、
小船百艘にとり乗って、門脇の平の中納言、平宰相教盛の子息、備前の国下津井におは
しけるを、討ちたてまつらん」とて、下津井に押し寄せたり。

 能登の前司これを聞き、「昨日まではわれらが馬の草飼うたるやつばらが、今日ちぎりを
変ずるこそあんなれ。その儀ならば、一人ものこらずうち殺せ」とて、五百余騎にて駆け給
へば、これらは、「人目ばかりに、矢ひとつ射かけ、引きしりぞかん」と思ひけるところに、
能登殿に攻められて、「われ先に」と船に乗り、都のかたに逃げのぼるが、淡路の福良に
着きにけり・・

 正月廿八日、都には、院の御所より、蒲の冠者範頼、九郎義経二人を召され、「わが朝
には神代よりつたはれる三つの宝あり。神璽、宝剣、内侍所これなり。ことゆえなく都へ返
し入れたてまつれ」と仰せくだされければ、両人かしこまって承り、まかり出づ。

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<あらすじ>
(1) 寿永三年(1184)正月中頃に、平家は(四国の)屋島から(兵庫の)“一の谷”へと陣を
   移した。総勢八万余騎と・・・・・・

(2) 阿波(徳島)や讃岐(香川)の地元役人らは、源氏に味方をしたいと思っていたが、手
   土産代わりに功績を挙げようと、下津井の港に陣を敷く“平教経”に弓を引こうとした
   が、逆に攻められ蹴散らされて淡路の福良の港に逃げ込んだ。

(3) 淡路の城を構えていた源氏の二人の大将(賀茂の冠者・末秀と、淡路の冠者・為清)
   を攻撃した“平教経”軍二千余騎は、丸一日を戦い尽くした末に、賀茂の冠者は
   死
淡路の冠者は手傷を負って自害して果てた。そしてこれらの郎等百人余りの首
   を刎ね、福原へ持参し名簿を差し出した。

(4) 伊予の国(愛媛)の河野四郎は、安芸の国(広島)の沼田次郎と合流し沼田の城
   に立て籠った(二千余騎)が、それを知った“平教経”軍三千余騎はすぐさまそれを
   追い、沼田城を攻め沼田次郎は降参し捕われ、河野四郎は何とか逃げ延び
   て四国へと渡ったのであった。

(5) 又、淡路の阿万六郎忠景も源氏に心を寄せていたが、大船二艘で都へ上るが、
   “平教経”軍は小船二十余艘を率いてこれを攻撃し、阿万の忠景は敗れて和泉国
   吹飯浦(大阪)に逃げた。

(6) 紀伊の国(和歌山)の園部兵衛忠泰は、和泉の吹飯浦に逃れた阿万六郎と合流し
   たが、これも“平教経”軍に攻められ、阿万六郎園部忠泰は、家来に“防ぎ矢”さ
   せて都へ向かって逃げ、そして郎等たち五十余人は平家に首を取られ、“教経”は
   福原へ帰還したと云う。

(7) 豊後(大分)の臼杵維高と緒方維義、伊予(愛媛)の河野通信の三人は合流し、三千
   余騎で備前(岡山)の今来の城まで攻め上った・・・・、これを知った“教経”は、一万
   余騎でこれを攻めた為、合流した三人は敗れて、それぞれの国へ逃げ帰ったと伝
   えられている。

          平宗盛ら平家一門の人々は、“教経”の度重なる合戦での功名を
          賞めそやしたと云う。    

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