* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第十句 「神輿振り」

2006-03-30 15:44:27 | Weblog
            源三位頼政の意を山門大衆に伝える”渡辺唱” 
    <本文の一部>
同じき(安元三年(1177))四月十三日、日吉の祭礼をうちとどめて、陣頭へ振りたてまつる。
下り松、柳原、加茂河原、河合(ただす)、梅忠、東北院の辺に、白大衆、神人、宮仕、専当
みちみちて、いくらといふ数を知らず。神輿は一条を西へ入らせ給ふに、御神宝は天にかがやき、「日月地に落ち給ふか」とおどろかる。

 これによて源平両家の大将軍に、「四方の陣頭をかためて、大衆(僧兵)をふせぐべき」よし仰せ下さる。平家には小松の内大臣左大将重盛公、三千余騎にて大宮面の陽明、待賢、郁芳三つの門をかため給ふ。舎弟宗盛、知盛、重衡、伯父頼盛、教盛、経盛なんどは、西、南の門をかため給ふ。

 源氏には大内守護の源三位頼政さきとして、その勢わずかに三百余騎、北の縫殿の陣を
かため給ふ。所はひろし、勢はすくなし、まばらにこそ見えたりけれ。
山門大衆、無勢たるによって、北の門、縫殿の陣より神輿を入れたてまつらんとす。
頼政はさる人にて、いそぎ馬よりおり、兜をぬぎて、手水うがひをして神輿を拝したてまつる。 兵どももみなかくのごとし・・・・・・

 源三位入道殿の申せと候。「今度山門の御訴訟、御理運の条、勿論に候。ただしご成敗遅々こそ、よそでも遺恨におぼえ候へ。されば神輿をこの門より入れたてまつるべきにて候ふが、しかもひらきて通したてまつる門より入らせ給ひて候ふものならば、山門の大衆は
目だり顔しけりなんど、京童部の申さんこと、後日の難にや候はんずらん。
またあけて入れたてまつれば、宣旨をそむくに似たり。ふせぎたてまつれば、
医王山王に頭をかたぶけたてまつる身が、ながく弓矢の道にわかれなんず。
かれといひ、これといひ、かたがたもって難儀にこそ候へ。東の陣頭は小松殿
大勢かため給ふ。それより入らせ給ふべうも候ふらん」と申したりければ、
唱(頼政家来)がかく言ふにふせがれて、神人、宮仕しばらくここにひかえたり。

 若大衆、悪僧どもは、「なんでふその儀あるべき。ただこの陣より入れたてまつれ」
と言うやからも おほかりけれども、老僧どもの中に三塔一の僉議者と聞こえし摂津の
堅者豪雲すすみ出でて・・・・・

                 (注) カッコ内は、本文ではなく私に注釈記入です。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 山門(延暦寺)の衆徒は、国司などの処分を度々上奏していたが埒があかないために、比叡山や日吉の神輿を飾り立て内裏の門へ強訴に向かった。 勅命で源平の大将がこれを防ぐことになったが、源氏は、大内裏守護の源三位頼政が家来の渡辺の省などを中心に、わずか三百余騎で北門の縫殿を固めることになった。

 神輿を振りたてた大衆たちは、この防禦の手薄な門を突破しようと押し寄せる、多勢に無勢でとても一戦は無理!と思った頼政は一計を案じ、馬から下りて神輿の前に平伏し、家来の渡辺長七唱を使者にたてゝ機転の口上を申し送ったのである。

 やがて山門の大衆は神輿の方向を変えて、東の陣、待賢門から入ろうとした、入れてはならぬと 平重盛 指揮の軍勢が一斉に矢を放ち、神人、宮仕たちはばたばたと射殺され、或いは刀で切り倒され、それは地獄絵さながらの有様となり、ついに大衆たちは神輿を東の陣に振り捨てて、泣く泣く比叡山に帰山するのであった。

      <白大衆> 僧官・僧位を持たない僧
      <専 当> 雑用を勤める下法師
  <神輿・神木による強訴> 白河法皇の院政時代以降、鎌倉前後期、南北朝
               室町期まで、二百数十度に及び "天文九年"の
               延暦寺の強訴をもって終りを告げたとされる。

       地方の荘園を巡って、国司と延暦寺、興福寺など大寺社が対立し
       たり、末寺、末社の僧侶、神人と国司との紛争が生じたりした時
       に、大寺社は僧兵の強訴によって国司・地頭などの処罰を朝廷に
       要求してきた。

   <白河法皇の天下三不如意> 加茂川の水と、双六の賽の目、そして山法師
                 は、これぞ朕が心に随わぬもの・・・・と。
                   
                 さすが権力絶頂の法皇としても、ままならぬ
                 と、お嘆きになったそうであります。

        

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