* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第八句 「成親大将(なりちかだいしょう)謀叛」

2006-03-25 16:33:41 | Weblog
                   「絵の中央右の縁の上に立つのが成親」
    <本文の一部>      

 同じき三年(嘉応(1171))正月五日、主上(高倉帝)御元服ありて、同じき十三日、朝勤の行幸ありけり。法皇(後白河院)、女院(建礼門院)待ちうけさせ給ひて、初冠の御よそほひいかばかりろうたく(愛らしく)おぼしめされけん。

 主上御年十三歳、入道相国の御むすめ(平徳子)女御に参らせ給ふ。法皇御猶子の儀(名目上の養子)なり。

 そのころ(安元三(1177))、妙音院(藤原師長)の太政大臣、内大臣の左大将にておはしけるが、大将を辞し申させ給ひけるときに、徳大寺の大納言実定の卿も所望あり。そのほか故中の御門の藤中納言家成の卿の三男、新大納言成親の卿もひらに(切に)申されけり・・・・・

 そのころ叙位、除目と申すは、院、内の御はからひにもあらず、摂政、関白の御成敗にもおよばず、ただ一向平家のままにてありければ、徳大寺(実定)、花山の院(兼雅)もなり給はず。
 入道相国の嫡男小松殿(重盛)、大納言の右大将にてましましけるが、左(左大将)に移りて、次男宗盛、中納言にておはしけるが、数輩の上臈を超越して、右(右大将)に加はられけるこそ申すばかりもなかりしか・・・・・・

  東山のふもと鹿の谷といふ所は、うしろは三井寺につづきて、ゆゆしき城郭にてぞありける。これに俊寛僧都の山荘あり。つねはその所に寄りあひ寄りあひ、平家をほろぼすべきはかりごとをぞめぐらしける。あるとき法皇も御幸なる・・・・

             (注)カッコ内は、本文ではなく私の注釈記入です。
         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  
 安元三年(1177)のころ、藤原師長が太政大臣・左大将であったのを、左大将を辞された。そのあとを徳大寺実定や藤原成親が大将になりたいと、切望していた。

 そのころの位を与えたり官職に任ずることは、上皇や帝ましてや摂政関白の裁決にもよらず、もっぱら平家の思いのまゝの任免であった。 先の二人も大将にはなれぬのに、清盛の嫡男・重盛は大納言、右大将から左大将に昇進して、次男・宗盛は中納言であったが、数人の高位の貴族を飛び越えて右大将となった。

       これは思いもよらぬ人事で、あきれ果てたものだと世の人は云うのであった。

 大納言・藤原成親は、徳大寺実定や花山院兼雅に越されたのなら仕方ないが、平家の次男ずれに越されたのは、まったく心外であり、平家が何もかも切り回しているからだ、何とかして平家を滅ぼして自分の望みを遂げたい、と口にする位であった。

 東山の鹿の谷にある俊寛僧都の山荘では、しばしば平家討伐の密議が繰り返されていた。ある時 後白河法皇もこの中に加わられたが、成親もその主要な一員であり、あるとき多田の蔵人行綱を呼び、「そなたに一方の大将軍になってもらいたい、この謀叛が成功したら望みは思いのまゝ 云々」と、衣料の絹布を贈るのであった。

  (しかし、もっとも頼りにしていた多田の蔵人行綱(源行綱)が、自分でも
   恐ろしくなって、”裏切り”清盛に事の次第を密告! 破綻をきたすことに
   なるのである。 「第十三句(多田蔵人返り忠)」  )

            本文中の 宗盛 が”次男”とされていますが、
            史実では、嫡男・重盛の次に基盛が居たが早世
            し、三男であった次の宗盛が一般的な本では
            次男と記述されている。

             重盛、基盛の母と、宗盛、知盛、重衡の母は
            別の女性である。
 
 
 

最新の画像もっと見る