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ケネディ暗殺事件 マーク・レーン の 『おおがかりな嘘』 1992年 飯塚忠雄訳 扶桑社

2012年07月18日 | JFK ケネディをめぐる本・新聞記事

マーク・レーン の 『おおがかりな嘘』は、すでに邦訳のある、『ケネディ暗殺の謎ーオズワルド弁護人の反証ー』中野国雄訳 1967年 徳間書店 に続く、日本語訳のあるものでは2番目の著書である。共著ではドナルド・フリードとの『ダラスの熱い日』井上一夫訳 1974年 立風書房 がある。前著『ケネディ暗殺の謎ーオズワルド弁護人の反証ー』が、アメリカ政府刊行の『ウォーレン報告書』に対する徹底的な反論であったのに対し、この『おおがかりな嘘』は、ウォータゲイト事件、の後を受け、アメリカの高まる政府批判や公式報告書不信の中で「アメリカ下院暗殺調査委員会」の結果報告後の状況が展望できる点にある。事件当日、ウォータゲイト事件の実行犯の一人、ハワード・ハントが、ダラスにいたのか、をめぐっておこされた裁判にも関わった弁護士、マーク・レーンの 事件追及の目は鋭い。 ウォーレン報告書以後の経過の情報の蓄積の乏しい日本では、オズワルド単独犯行 以外の可能性、つまり陰謀の可能性をアメリカ議会が指摘していたことなどを的確に知る機会が少ない。ジム・ギャリソンとともに、ケネディ暗殺事件を生涯をかけて探求しているマーク・レーンのことばに耳を傾けたい

 

このマーク・レーン の 『おおがかりな嘘』 1992年 飯塚忠雄訳 扶桑社は
直接的には、著者が 「プロローグ ースパイ裁判ー」 で冒頭に述べているように、

「本書は元CIA高官のE・ハワード・ハントが、『スポット・ライト』紙とその発行元であるリバティ・ロビー社を名誉毀損で提訴した裁判を分析したものである。
 訴訟の原因は、ハントがケネディ暗殺に関与していたと断言した記事」 にあり、「大統領暗殺後15年にして掲載されたこの記事は、元CIA当局者のヴィクター・マーチェッティが書いて寄稿したもの 」であった。
ハントが、65万ドルという、リバティ・ロビー社を倒産に追い込みそうな裁定額で勝訴した時、リバティ・ロビー社は助けを求めてきた。裁判は控訴に持ち込まれ、リバティ・ロビー社は、一審判決が破棄され、審理やり直しのため差し戻されることを希望していた。

マーク・レーンが20年以上にわたりケネディ暗殺事件の調査に時間を費やして来たことから弁護を求めてきた」ということである。

マーク・レーンは、この裁判の弁護を引き受けた。

宣誓証言のもとに、関係者を呼び寄せ、証言を集め、審理することにより、国民のもとで、証拠が十分に検討されることを期待していたからである。
 
 かつてキューバのカストロの恋人だったマリータ・ローレンツが、それと知らずに、暗殺実行部隊の武器運送に関わり、「ダラスのモーテルで、ハワード・ハントに会ったこと、スタージスの実行部隊に金を渡していたこと、仲間の中にはオズワルドと思われる人間もいたこと、ラテン系の人間がいたこと、ジャック・ルビーも会いに来たことなどを、かつて証言し、記録として残していた。


裁判の一部始終・またマリータ・ローレンツの証言のことなど、ハントに関して記述すべきことは多いが、次回に回して、ここでは扱わない。



 裁判は、一審のハント側の勝利から、2審でリバティ・ロビー社の勝利となって終わった。

 すなわち、

ハワード・ハントが暗殺当日ダラスにいなかったという証言による2審裁判は敗れたのであった。

彼(ハント)の証言で、家族とともに、ワシントンにいて、事件当時、テレビの前に釘づけだったといっているのだが、肝心の子供たちが、後になって、お父さん本当はどうなのと、子供たちに詰め寄られているのである。

この裁判の肝要な部分であるので、ここだけはとりあげよう。

この件に関する法廷での質問と、証言はレーンのこの著書ではこのように記述されている。

 

私(マーク・レーン)は ハントに1981年12月16日にリバティ・ロビー訴訟の第1回裁判で、彼が述べた証言について質問した。


は、質問者 マーク・レーン(リバテイ・ロビー側弁護士)

は ハワード・ハント

Q 1981年12月16日にあなたは1963年11月22日にあなたがテキサス州ダラスにいたという記事が出た時、あなたのお子さんたちがかなり動揺したと証言したことを覚えていますか?

A はい

Q あなたがあの日テキサスにいなかったことをもう一度お子さんたちに言って安心させてやらなければならなかった、と証言したことは覚えていますか?

A ええ

Q お父さんはケネディの暗殺に関わってはいないんだ、と言ったんですね?

A その通りです。

Q お父さんは身に覚えのないことで、ひどい目にあわされているのだよ、と言ったんですね?

A ええ

Q 1963年11月22日にあなたがダラスにいたという記事は家庭内をぎくしゃくさせる原因となり、深刻な問題となった、と言いましたか?

A 言いました。


Q ハントさん、もしあなたが言うように14歳の長女、13歳の次女、10歳の息子さんが1963年11月22日にワシントン地域であなたと一緒にいて、そのあと少なくとも48時間はみんなでテレビの前に釘づけだったとするならば、1963年11月22日にあなたがダラスにいなかったことを、なぜわざわざお子さんたちに納得させる必要があったのですか?

A 答えてもよろしいですか?
 

Q どうぞ、質問しているのですから。


A なにしろあの子たちはまだ未熟でしたから、しかも息子のハワード・セントジョンは新聞に何度も繰り返し掲載されていた、私がケネディ暗殺に関わった という記事を読んでいたのです。ですからそれは、私がワシントンに家族と共にいたということを納得させるというより、あの子たちにそのことを想い出させて、私に対するどんな告発も根拠がないということ、ましてや浮浪者を装った私がディーリー・プラザにいたなどという嫌疑など、とんでもないことだと言って安心させてやりたかったのです。

Q ハントさん、1963年11月22日、あなたのご家族はテレビの前で48時間もあなたと過ごしたのですから、同じ日にテキサス州ダラスのディーリー・プラザにいた浮浪者姿のあなたが写っているという写真を見せられたところで、ふつうなら信じたりするはずはないんじゃありませんか?


A それは、マスコミのごうごうたる非難の声がやまなかったからです。・・・


Q あなたがこのような嫌疑をかけられれば、お子さんたちが心穏やかでいられないのはわかります。しかし「あの事件が起こったとき私は父と一緒にいました」と証明できるのは、この世の中で自分たち三人だけなんだと、お子さんたちは考えなかったのでしょうか? 私が知りたいのはそこなんですよ。親にかかっている嫌疑が全く根拠のないものだとわかっているお子さんたちは考えなかったのでしょうか?私が知りたいのはそこなんですよ。親にかかっている嫌疑が全く根拠のないものだとわかっているお子さんたちに、どうしてあなたがテキサスにいなかったとわざわざ念を押す必要があったか、という点です。

A 思い出させるためですよ、思い出させるため。

Q お子さんたちは言われなくては思いだせなかったんですか?


     ・・・・・・・

Q お子さんたちはケネディ大統領の暗殺以後、全員あなたと一緒にいたのですか?


A 暗殺のあった日と同じように、あの子たちはその後も私と一緒にいました。間違いありません。



Q ハントさん、お宅の成人したお子さんたちは、あなたが1963年11月22日にディーリー・プラザにいたという記事が出てからあなたのところに来て、「この中に書かれているのは本当なの」と訊いた、とあなたは証言しました。お子さんたちがそう言った、と証言したのですね。


A ええ。その通りです。


以上

 重大な父親の嫌疑・危機に対して、アリバイ証人たるべき子供たち3人は、むしろ父親に対して訊いているのである。また生きていれば、彼のもう一人の証人だったはずの妻は、航空機事故でなぜか死亡している。
残る証人はCIA関係者2人 これは、同業者仲間であてにならない。引用するまでもないだろう。

かくてこの裁判は 1985年2月6日 午前10時40分 陪審員が席につき、評決がくだされた。

判事   本件の評決は一致にいたりましたか。

陪審員長 はい。

判事   結果を書記にお渡しください。では評決を発表して下さい。

書記官  南部フロリダ地区米連邦地方裁判所(在フロリダ州マイアミ)、訴訟番号80-1121ー民事JWK。原告E・ハワード・ハント対リバティ・ロビー。評決日時1985年2月6日。我々陪審は被告リバティ・ロビーの勝訴、原告E・ハワード・ハントの敗訴と認める。我々全員一致の見解であり、陪審員長が署名した。


評決の後で陪審員長にマスコミがハントの敗訴評決をくだしたか質問した。
陪審員長 レズリー・アームストロング(女性)は、マーク・レーンによれば、下記のように言ったと記している。

「証拠があったのです、と彼女は言った。CIAがケネディを殺しハントはその一味だったのです。これほど入念に調べて提出された証拠は、いま合衆国のしかるべき機関が精査しなければなりません。そして暗殺の責めを負うべき人間は、裁きをうけなければならないのです。」

その晩マイアミ・テレビは「ハントが名誉毀損の訴訟に負けたことを伝えたが、名誉毀損では常に「実際の悪意」の有無が評決の要因になる、と述べているところだけが、とりあげられた」とレーンは書いている。
 ついでにこのテレビ局はワシントン・ポスト紙とニューズ・ウィーク誌の所有だった。とも記している。報道の自主規制は この時から始まったわけではないが、ホントにアメリカのメディアの腐敗ぶりには改めて驚かされる。

 さらにレーンは続ける。この時の判決は、首都ワシントンでは、さらに限られた報道であったとしている。
ワシントン・ポスト紙は第一審で、ハントが勝った時には、国家的には重要な問題が裁かれたり提起されたりわけでもないのに、事件の推移に大きな紙面を割いたのが、やり直し裁判のでは陪審の評決には一言も載せなかかった。
 このやり直し裁判でこそ、暗殺にCIAの果たした役割が明らかにされたというのに、である。
 国内のほとんどすべてのマスコミがこの歴史的な評決を鉄のカーテンで囲う作業に加わり、評決のニュースはついにそのカーテンから漏れることがなかった。事実上、アメリカのすべての出版社が、本書の出版を拒んだのだ。
 とマーク・レーンは締めくくっている。
出版が日の目を見たのは、オリバー・ストーンによる映画JFKで、潮の流れが変わってきてからなのである。

 この裁判で、明らかにした最大の事実は、マリタ・ローレンツの証拠提出である。ローレンツはすでに1970年代後半に同じことを述べているのだが、記憶違いの間違いを「下院暗殺調査委員会」の一連の調査で指摘され、そのときは証拠として十分に採用されなかったのだった。
 今回は、まずは ハント対リバティ・ロビー社の裁判の結末を示し、次回、この著作の核心部分であり、陪審員たちに、ハワード・ハントたちCIAが、間違いなくケネディ暗殺に関わっていたと確信させるに至った、命を賭した彼女の証言を考えよう。

 (続く)






     
  

 


         




   

 





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