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真木悠介 「自我の起原 愛とエゴイズムの動物社会学」 『思想』 1992 9号、10号、12号岩波書店

2017年06月11日 | 真木悠介=見田宗介

                        ▲真木悠介 「自我の起原 愛とエゴイズムの動物社会学」 『思想』 12号1992 

 

真木悠介 「自我の起原 愛とエゴイズムの動物社会学」 『思想』 1992 9号、10号、12号岩波書店

 

真木悠介 「自我の起原 愛とエゴイズムの動物社会学」 『思想』 1992 9号、10号、12号岩波書店

 

 ▲『思想』 1992年 12号 岩波書店  真木悠介 「自我の起原 愛とエゴイズムの動物社会学」の下 収録

 

現在では単行本、岩波現代文庫、『真木悠介著作集』にも収録されている。単行本化にあたり、改訂ないし、補訂、著作集には自作についてのコメントもあるようで、私はまだ未読である。後で読んでみたい。

この「自我の起原」は、大きな構想のうちの序論にあたるものとしているのでそれが完成しないことには解読できないといえるが、その構想では下の頁の、<補注>に示されている。

この大きな著作の構想を成し遂げるには、Ⅰ章10年とすれば、あと50年ほどは真木悠介さんに生きてもらわねばならないが。

弟子たち、後継者に託せる部分も在るに違いない。

柄谷行人は、もちろん真木悠介の弟子ではなく、生年も近いのであるが、ともに1960年安保世代の過剰に政治的な社会の後を受け社会構想に着手したと言える。

柄谷行人の『世界史の構造』などは、自我を取り巻く歴史環境の変化を読み解く視点は鮮やかで、未知のⅢ・Ⅳ・Ⅴの構想を誰かが引き継いでいく場合、アイデアを練るときには、参照できるように思う。

 

 

 ▲ 『思想』 1992年 12号 岩波書店  真木悠介 「自我の起原 愛とエゴイズムの動物社会学」 150頁

 

 

われわれの身体を構成している遺伝子の約90%は、このような「無益な」遺伝子であるという。つまり個体のどんな形質をも「遺伝しない遺伝子」という形容矛盾の、しかも自己複製力をもつ存在が、特殊なものではなく、一般的なものであることが明らかになってきている。」

「ウィルスは逆に、他の生物個体の細胞という遺伝子コロニーから離脱した遺伝子たちという可能性が大きいという。つまり特定の「個体」という共同体の内に定住することをやめた自由の民たちである。あるいはさまざまな個体の内部に分散仮住してその才能を発揮するディアスポラの民たちである。」

「漂泊民の定住化ということが、歴史の進化のように進歩史観的な歴史は教えてきたが、定住民の漂泊化というプロセスもまた平常のものである。」 

『思想』 1992年 9号 岩波書店  真木悠介 「自我の起原 愛とエゴイズムの動物社会学」

21-21頁)

真木悠介さん、いきなりウィルスと人間社会を遺伝子を媒介に進歩史観を一刀両断すところ、なかなかのものと見えた。

われわれの内なる進歩史観は、長い近代教育と調教期間があるので、全く疑うことができなくなっているので実に厄介だ。

「われわれ自身がそれである多細胞「個体」の形成の決定的な一歩は、みずから招いた地球環境の危機に対処する原始の微生物たちの共生連合であり、つまりまったく異質の原核生物たちの相乗態としての<真核細胞>の形成である。この<真核細胞>が、相互の二次的な共生態としての多細胞生物「個体」の、複雑化していく組織や器官の進化を可能とする遺伝子情報の集積体となる。個体という共生系の形成ののちも、その進化的時間の中で、それは数知れぬ漂泊民や異個体からの漂泊民や移住民たちを包容しつつ変形し、多様化し豊饒化しつづけてきた。」

「私」という現象は、これら一切の不可視の生成子たちの相乗しまた相克する力の共生系である。」

「この数千年来、とりわけ最近の数百年の間、われわれの「自我」の絶対性という傲慢な不幸な美しい幻想を自分自身の上に折り返して増殖させることとなるこの身体的個という位相は、われわれの実体であるこの重層し連環する共生系の一つの中間的な有期の集住相である」  『思想』 1992年 9号 岩波書店  真木悠介 「自我の起原 愛とエゴイズムの動物社会学」( 36頁)

このあたりの真木悠介さんの文章は、宮沢賢治の「春と修羅」の「序」にふれあっている。

宮沢賢治もまた、銀河系宇宙の生命としての「身体・私」を、「私という現象は・・・・・・です」と、巻頭に掲げていた。

「わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」


 

 ▲ 『思想』 1992年 12号 岩波書店  真木悠介 「自我の起原 愛とエゴイズムの動物社会学」 下( 160頁)

 

 個を越えた誘惑のセリーは、生命体に一つではない。

人間に対して、また別の共生系遊民が身体に入ってこないとも限らない。

真木悠介さんの構想、この『自我の起原 愛とエゴイズムの動物社会学』 以後、何を書き継いでいるのか、ようやく、気になってきた。

 

 ▲ピエール・クラストル 渡辺公三 訳 『国家に抗する社会 政治人類学研究』 1987年5月 水声社 定価3500円+税

 

上の本は真木さんの『自我の比較社会学』 構想の Ⅲ  原始共同体における個我と個我間関係 あたりの考察に参照されそうな気がする。出版社がなくなっているので絶版状態だが、この本、原始時代の実態と捕らえると間違いだが、「あり得べき社会」という、社会構想には大いに示唆するものがあると思う。

「漂泊民の定住化ということが、歴史の進化のように進歩史観的な歴史は教えてきたが、定住民の漂泊化というプロセスもまた平常のものである。」 

という真木さんの提起に答えていくためには、人類学・人類史・考古学をもう一度起原に向かって、方法的・ものさしの自覚をもって探索してみたくなる。

つづく

 



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