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歴史は事実で文学はフィクションなのか あるいはテクストと解釈または権力と権威のこと1-1

2016年11月29日 | 批評・歴史・フィクシ...

       ▲岩波講座 『文学 9 フィクションか歴史か』 2002年 岩波書店 定価3400円+税

 

歴史は事実で文学はフィクションなのか あるいはテクストと解釈 または権力と権威 その1-1

 

歴史は事実で文学はフィクションなのか あるいはテクストと解釈 または権力と権威

日本で定期的に刊行されている日本史の歴史研究の講座シリーズに歴史学研究会・日本史研究会編集の『日本史講座』 東京大学出版会 と岩波書店の『岩波講座日本歴史』がある。カラー写真もないし、図版も少なく、大手出版社から出している通史に比べてあまり、売れ行きは好調ではない、販売数も少ないのか、歴史研究の雑誌にのみ書評が掲載されることも多いので、ますます、一般の人から注目されることなく、刊行終了後、しばらくすると図書館の閉架図書コーナーに収まってしまう。

大都市の大型新刊書店のコーナーには、予約注文者用のスペースもあるだろうが、そもそも、参照用の本が置いてないのだから、講座シリーズのパンフレットを偶然入手でもしない限り、目に触れることもなく、その存在も知らないで購読せず終わったものも多い。

岩波書店刊行の『岩波講座日本歴史』は、予約注文制をとっているので、20巻以上となると、一般読者としては敷居が高い。零細な地方都市の書棚には、そもそも、シリーズものの講座、個人全集、テーマ別の講座などは郷土出身の作家でもない限り、購入対象から外しているので並んでいるはずもない。

うっかり、岩波書店の講座ものに手をだして、愛着が増してくると、大変怖いことが待っていた。

いまや、下層老人・年金のみ老人。ぎりぎり年金生活者となると、岩波講座などの手持ちのシリーズが、なにやら、にわかに、少年時代の日本蝶類図鑑や、山旅でいつも私とともについてきたリュックの中の武田久吉編高山植物図鑑のように、わが「お宝」、「僕宝」に見えてくるから不思議!?

最近は、ブログを綴るのに頻繁に愚痴から始めるので、品性のある読者は、早々にこのブログを訪れることもなく立ち去ってしまったように思われる。

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さて、整理の悪い書棚から目的の本を探している間にブログを2週間近くも休み、空けてしまったのだが、今日のタイトルにちなむ、講座もののシリーズの巻を、おおよそみつけたので、ブログを再開することにする。

今日のブログタイトルは、

「歴史は事実で、小説はフィクションなのか、あるいは、テクストと解釈、または権力と権威」その1-1

論理的には、同じ土俵に括り、語り、論ずべきものではないのだろうが、1970年代初頭~1970年代頃は現象学、ソシュールや、構造主義・記号学など、人物でいえば、最近訃報が報じられた竹内芳郎や、木田元、丸山圭三郎、ロラン・バルト、メルロー・ポンティなどの著作を読んでいた頃があった。また、講師で大学に来ていた西江雅之さんの講義で、言語学や、文化人類学の面白さを味わった。

私の学生時代の学問的熟度は一般教養科目程度の入門・概論ほどもので、専門性を目指すまでには至らなかったのだが、「このような分野の探求をすれば、こんなことも分かり、またこんなものが、実はまだ分かっていないのですよ」と、なお一層未知の分野の学問領域は広大で、こんな分野にこだわり続ければ、あなたも何かとんでもないものが発見できるのですよということを教えられたのである。

当時の学生時代は、資料館・博物館に関わる科目で役立つものは甘粕健さんの考古学・古墳文化論や、西郷信綱さんの「古事記論」、西江雅之さんの「文化人類学」などを聴講していただけであったので、その後、地方の零細な資料館などで、開発に伴う発掘調査にも関わり、日本のバブル期に突入した時期でもあったので、発掘調査を整理する隙間もないほどの繁忙の極にあった。学生時代の初々しい素朴な疑問や、関心はほとんど成長することもなく、現役時代はその関心領域は封印され絶滅危惧状態であったのだが。

 

今年の春、足かけ3年の『岩波講座日本歴史』全22巻の刊行も終わり、以前に出版されていた、先行する、東京大学出版会の『日本史講座』を合わせ、読み始めていたところ、面白いことに気がついたのだ。

何やら、1970年代に、大学の講義と単位には直接関係はないのだが、ソシュールや、ロラン・バルトなどを読んでいた論文の意味などが、発酵・熟成が効いてきたようなのだ。

直接には、近代史の研究者の吉田孝や、小路田泰直が、上野千鶴子編の『構築主義とは何か』、『ナショナリズムとジェンダー』などで扱われていた「言語論的転回」について触れていることの意味についてなのだ。なぜか日本史の専門家が上野千鶴子に対して、素朴な反応を示しているように見えたのはなぜなのだろうか。

哲学・現代思想、社会学、文化人類学、文学批評の分野では、20世紀後半ころから、煩雑に、「言語論的転回」もしくは、人類学では「存在論的転回」もしくは、それに類する言説が人々を捉え始めていた。

その結果、あるいはその問題に関わる領域を扱った本や講座ものなどに私が目に触れたものでは次のようなものがある。

まずは、吉田孝・小路田泰直が、引用・参照している上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』及び『構築主義とは何か』をまず紹介。

 

▼ 上野千鶴子 『ナショナリズムとジェンダー』

▲上野千鶴子 『ナショナリズムとジェンダー』 1998年3月 青土社

なお、吉田孝・小路田泰直が、引用・参照している、この本の第Ⅰ部・第Ⅱ部の初出は、1996年『現代思想』1996年10月に掲載された。書籍化にあたっては、全面的に加筆改稿しているとある。いまから20年前の論考なのだが、先見性はやはりあった。上野千鶴子は、ずばずばと異見するので、「触らぬ神にたたりなし」なのか敬遠する人が多いのだが、いかなる歴史と歴史研究論も再審に付されるという、中心的論説を開いたというこの点では、この論説は、当時の歴史実証論時代の壁を破ったのだと思う。

Ⅰ国民国家とジェンダー から

「1 序ー方法の問題」

「歴史とは、「現在における過去の絶えざる再構築」である。歴史が過去にあった事実をありのままに語り伝えることだというナイーブな歴史観は、もはや不可能になった。もし、歴史にただ一つの「真実」しかないとしたら、決定版の「歴史」は、・・・・・・・「フランス革命史」であれ、「明治維新史」であれ、・・・・・一度だけ書かれたら、、それ以上書かれる必要がなくなる。だが、現実には、過去は現在の問題関心にしたがって絶えず「再審 revision」にさらされている。だからこそ、フランス革命や、明治維新について、たった一度「正史」や「定説」が書かれたら終わり、ということにはならず、時代や見方が変わるにつれ、いくども書き換えられる。わたしは基本的には、歴史は書き換えられると思っている。したがって、栗原幸夫にならって、わたしもまた「リヴィジョニスト(歴史再審論者)である」といってもいい。だがここでもつねに問題なのは、「誰にとっての歴史か」という問いである。」 『ナショナリズムとジェンダー』 11ー12頁

「言語論的転回 linguistic turn」以降の社会科学はどれも。「客観的事実」とは何なんだろうか、という深刻な認識論的疑いから出発している。歴史学も例外ではない。歴史に「事実 fact」も「真実 truth」もない、ただ特定の視角からの問題化による再構成された 「現実 reality」だけがあるという見方は、社会科学のなかではひとつの「共有知」とされてきた。社会学にとってはもはや「常識」となっている社会構築主義(構成主義)social constructionism とも呼ばれるこの見方、歴史学についてもあてはまる。」 『ナショナリズムとジェンダー』 12頁

「したがって、他の社会科学の分野同様、歴史学もまたカテゴリーの政治性をめぐる言説の闘争の場である。わたしの目的はこの言説の権力闘争に参入することであって、ただひとつの「真実」を定位することではない。わたしがここで用いる「政治」は階級闘争のような大文字の「政治」ではなく、フーコーのいう言説の政治、カテゴリーと記述のなかに潜む小文字の政治を意味する。」

『ナショナリズムとジェンダー』 12頁

「たとえば、戦時下の歴史下の歴史記述について、「歴史の偽造を許すな」「歴史の真実を歪めるな」というかけ声がある。この見方は。歴史に「ただ一つの真実」がそこに発見されるべく存在している、という歴史実証主義の立場を暗黙に前提しているかのように聞こえる。だが、「事実」は、そのまま誰が見ても変わらない「事実」であろうか?」

「こう言ったからといって、わたしは「事実とは観念の構築物にすぎない」というカント主義を採用しているわけではない。「事実を事実として定位するもの、ある「事実」に他の「事実」以上の重要性を与えるもの、ある「事実」の背後にあって、それと対抗する「もうひとつの現実を発掘するものは、それを構成する視点にほかならない、と言いたいだけである。社会的構築物としての「現実」とは物質的なものであり、わたしたちはそのなかで、正統性を付与されてきたものだけを「事実」と呼び慣わしてきた。」

『ナショナリズムとジェンダー』 13頁 

 

 ▲ 上野千鶴子 『ナショナリズムとジェンダー』 目次1

▼上野千鶴子 『ナショナリズムとジェンダー』 目次2

 ▲上野千鶴子 『ナショナリズムとジェンダー』 目次2

 

 次回は、

▼ 上野千鶴子 編 『構築主義とは何か』 

 ▲上野千鶴子 編 『構築主義とは何か』 2001年2月 勁草書房 定価2800円+税

 ▲ 『構築主義とは何か』 目次1

▲ 『構築主義とは何か』 目次2

 ▲ 『構築主義とは何か』 目次3

 

この中の上野千鶴子の、論集の総括論文「構築主義と何か」から、歴史相対主義を越えてという項目を主に、上野論文の中心的課題が何だったのか、抄出したい。

 

これ以降は、以下の、『岩波講座 現代思想 9テクストと解釈』 『言語論的転回』などを抄出予定

  

▲岩波講座 現代思想テクストと解釈1994年  ▲岩波講座現代思想 言語論的転回 1993年      

  

▲岩波講座文学1 テクストとは何か2003年  ▲岩波講座文学 フィクションか歴史か 2002年

  

 ▲岩波講座 現代社会学 1996年   ▲岩波講座 現代思想16 権力と正統性 1995年

 

日本歴史学の分野では、実証主義的史学者の一次資料の読みの豊かな蓄積にも支えられて、歴史理論の再吟味が、不調だったようなのだが。

あるいは、権力とその正統性の問題を歴史学以外の分野ではどのように理解し、分析してきたのか?

「歴史は事実で文学はフィクション」なのかなど、

20世紀末からの社会学・現代思想・哲学、文化人類学、文学批評理論などの分野は魅惑する論考が目白押しだった。今振り返ると、日本史学周辺は、他の関連諸学からの検討を少しばかり怠ってきたような気がする。今日本史実証史学の弱点は攻められつつあるのか?

2015年~2016年にかけ、ヒュレの、『歴史のアトリエ』日本語訳、長谷川貴彦著 『現代歴史学への展望』や、ヘイドン・ホワイトの翻訳論文紹介など、「言語論的転回」「パブリック・ヒストリー」などをめぐる公開討論会などが、開催されたようだ。いずれ、これらをめぐる関心領域の研究者から、歴史理論で時代を牽引する論客が現れるだろう。

今後は、上野千鶴子の先見性に共感しつつ、それを越えて「歴史的研究の方法・ものさし」のさらなる吟味が進められていくに違いない。

 

つづく

 



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