太平洋戦争後、海外に残された日本人は多数いた。当初、日本政府は居留民を現地に留まらせ、定着させようとした(見捨てようとした)が、米国に反対されたため、引揚事業を行うこととなった。
シベリアで抑留された日本兵たちは、旧ソ連で鉄道建設等に従事させられ、強制労働を受けることとなった。食料が不足し、極寒の地でこき使われるうち、多数の人が亡くなっていったのである。
舞鶴引揚記念館は、赤れんがパークからは、だいぶ離れている。車で15分くらいかな。歩いて行くのはちょっと厳しいです。

赤れんが博物館で共通券を購入していたので、その券で入館する。喫茶店が併設されており、50円の割引券を貰った。

右に立っているのは、監視のロシア人です。体の弱い人は、比較的暖かくなる部屋の上の方に横たわっています。

収容所の模型です。冬は一日何人も亡くなることがあり、死んでしまうと身ぐるみをはがされて、凍土の中に埋められたということです。凍土を掘るのも捕虜の仕事で、硬い凍土を掘るのに徹夜になったこともあるとか。死者に服はいらないということでしょう。

生還者の話などが書かれたボードがあります。漫画で、当時の生活ぶりが書かれていたりします。ま、中には現地でうまく立ち回った人もいるようですが。(詳細は、現地を訪れて、ご確認下さい)

舞鶴は、日本で最後まで引揚が行われていた港です。岸壁の母のお話も、ここですね。当時の引揚桟橋は残っていませんが、再生した桟橋があります。(桟橋としては機能していない)引揚記念館から、車で数分の所です。ここだけの見学なら、入館料は不要です。

あれ、海中に3本足のロボットのようなものがあります。

あれれ、高台から見ると無数にあります。敵の上陸艇が迫ってきたら、だだ~っと攻撃しに行くのか。さすが、軍港だな。←うそ

引揚は、敗戦の昭和20年から、昭和33年9月まで続いたのである。
京都府舞鶴市字平1584番地 無料Pあり
展望台があり、館内に入らなければ無料。
シベリアで抑留された日本兵たちは、旧ソ連で鉄道建設等に従事させられ、強制労働を受けることとなった。食料が不足し、極寒の地でこき使われるうち、多数の人が亡くなっていったのである。
舞鶴引揚記念館は、赤れんがパークからは、だいぶ離れている。車で15分くらいかな。歩いて行くのはちょっと厳しいです。

赤れんが博物館で共通券を購入していたので、その券で入館する。喫茶店が併設されており、50円の割引券を貰った。

右に立っているのは、監視のロシア人です。体の弱い人は、比較的暖かくなる部屋の上の方に横たわっています。

収容所の模型です。冬は一日何人も亡くなることがあり、死んでしまうと身ぐるみをはがされて、凍土の中に埋められたということです。凍土を掘るのも捕虜の仕事で、硬い凍土を掘るのに徹夜になったこともあるとか。死者に服はいらないということでしょう。

生還者の話などが書かれたボードがあります。漫画で、当時の生活ぶりが書かれていたりします。ま、中には現地でうまく立ち回った人もいるようですが。(詳細は、現地を訪れて、ご確認下さい)

舞鶴は、日本で最後まで引揚が行われていた港です。岸壁の母のお話も、ここですね。当時の引揚桟橋は残っていませんが、再生した桟橋があります。(桟橋としては機能していない)引揚記念館から、車で数分の所です。ここだけの見学なら、入館料は不要です。

あれ、海中に3本足のロボットのようなものがあります。

あれれ、高台から見ると無数にあります。敵の上陸艇が迫ってきたら、だだ~っと攻撃しに行くのか。さすが、軍港だな。←うそ

引揚は、敗戦の昭和20年から、昭和33年9月まで続いたのである。
京都府舞鶴市字平1584番地 無料Pあり
展望台があり、館内に入らなければ無料。
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