ホルマリンのマンネリ感

札幌出身苫小牧在住、ホルマリンです。怪しいスポット訪問、廃墟潜入、道内ミステリー情報、一人旅、昭和レトロなどなど…。

原子力PRセンター とまりん館(前編)

2024-05-01 21:06:39 | ホルマリン漬け北海道 珍スポット編
※2016年訪問、2024年再訪


原子力エネルギーの信頼回復なるか?
(古宇郡泊村大字堀株村古川45)



後志管内泊村の泊原発が稼働停止してから、すでに12年が経過している。
北海道唯一の原子力発電所である同原発は1989年に1号機、1991年に2号機、2009年に3号機が運転開始。2010年度には道内で使用される電力の約4割を担っていたが、2012年5月以降「定期検査中」として一切の発電をストップしているのは、言うまでもなく2011年・東日本大震災による福島第一原発の事故を受けたものである。
原子力エネルギーの安全性を疑念する声はいっそう強くなり、泊原発は再稼働へ向けた審査を原子力規制委へと申請しているものの、審査は長期化している状況。
22年には反対派の道民ら約1200人の訴訟を受け、札幌地裁が「運転差し止め」の判決を下す(廃炉は認めず)。北電側は控訴している。



そんな泊原発から直線距離で2キロほどの場所に、今回紹介する原子力PRセンター「とまりん館」がある。原子力発電の仕組みや、泊原発の安全への取り組みなどを子どもでも分かりやすく学べる施設となっている。
原発停止以降どうなっているんだろうと思ったら、今日まで律儀にかつひっそりと開館を続けていた。
実は2016年に訪問しているのだが、中々デリケートで込み入った話題であるため更新を後回しにしていた。8年越しの記事編集に当たり施設を再訪してきたので、2016年、2024年の写真が混在していることをご了承いただきたい。

清潔感溢れる4階建ての施設は入館料無料とは思えぬ立派さ。
エントランスでは原子炉格納容器をモデルにしたと思われるマスコットキャラ「とまりん」がお出迎え。



2024年は、ちょうど3月末に新たな防潮堤の設置工事に着工したばかり。
これまで海抜16.5メートルあったものを19.5メートルに上げる計画で、工期は3年程度を予定しているという。
高い吹き抜けのホールでは、親切に防潮堤の高さ(敷地高さ10メートルを抜いた数値)が実寸で示されているのだが、すでに新たな高さの9メートルに書き替えられている(2016年訪問時は6.5メートルであった)。



なお施設の入り口には、敷地内での無許可取材やデモ行為などを禁止する注意書きが立っており、少し物々しい雰囲気。入館しカウンターの職員と対面するときは何やら緊張してしまった。
なお、私は原発反対派でも推進派でも無い。


展示室に入ると、まずはハンドルを回して電気を発生させたり、装置を動かしたりする、よくある科学展示コーナーが展開されていた。
写真には写っていないが、2024年訪問時はゴールデンウィーク真っ只中であったためか、家族連れや旅行者がチラホラと。




そんな中に、放射線の飛跡を観察できる「霧箱」や、体内の放射能を測定できる装置など原子力PRセンターらしい設備があったが、昨今の状況のせいなのかいずれも「調整中」であった(※2016年)。
※2024年訪問時には撤去されていました。



さて、ここからがメインの原子力展示コーナー。
とまりんが指し示す「原子力展示はこちらです」の看板に従い、卵形のゲートを進んでゆく(冒頭の写真)。
展示室内は原発3号機内を模しており、我々見学者は順路に従い原子炉や蒸気発生器の中に入って構造を学ぶ仕組みだ。



まず現れたのは原子炉格納容器内の蒸気発生器からつながる巨大なタービン。
原子炉内で冷却水を熱水にし、蒸気を送ることで回転し発電する。


向かいにはタービンとつながっている原子炉建屋がある。
原子炉の中の放射性物質は外部へ漏れないよう「5重の壁」で閉じ込められており、最も外側である建屋の「外部遮へい壁」が再現されている。
厚さ約1メートルの鉄筋コンクリート製で、内部には最大直径38ミリの極太鉄筋が使われており地震にも耐えうる設計。
外部遮へい壁と原子炉格納容器の間には、さらに幅約1.5メートルの密閉された空間「アニュラス」があり、圧力を低く保つことにより格納容器から万が一放射性物質が漏れても外部流出を防ぐ構造となっている。



原子炉建屋の前には、これでもかというほどの泊原発の安全対策アピール(※2016年)。
さて、いよいよ原子炉の中へ。まさに「核心」か。

続く。

三十路記念の旅 西と南の果てへ その14(最終回)

2024-03-16 00:39:37 | 旅行(道外)2020~
4日目 午後3時半 ~楽園~


帰りの船まで残り1時間を切ったので、自転車を返却し波照間港フェリーターミナルへと戻ってきた。
駐車場に「部落内徐行」の文字があり一瞬ギョッとしたが、よく考えてみるとこの単語自体は差別用語ではない。
ターミナルに貼ってあった町内会だよりにも「部落対抗ゲートボール大会」の表記があったので、ここの人には「集落」呼びよりも一般的なのかもしれない。

船を待つ間、ターミナルの売店で波照間島限定の黒糖ちんすこう(黒蜜付き)と黒糖チョコレートを購入した。可愛らしいパッケージはお土産にぴったり。
待合所では地元の女性たちが「今日は夏みたいな天気だったね」などと談笑していた。
今日は島民もびっくりの日差しの強さだったらしい。
冬で油断していたが、確かに1日中露出していた腕は日焼けで真っ赤になってしまった。
大満足の最南端日和であった。



午後4時7分、帰りの高速船が定刻通りに入船し一安心。
乗船待ちをしながら積み込まれる物品を見ていると「黒糖」と書かれた段ボール箱が多い。
さすが製糖所もある波照間島、名産品は他の八重山の島々へ渡っているようだ。

船内へ乗り込むと、乗組員が座席を回りながら「今日はかなり揺れますので酔いそうな人は後ろへ……」としきりに注意喚起しており思わず身構える。


船は定刻通りの午後4時20分に出港し、波照間港から出ると予告通りの揺れがすぐさま始まった。
主に上下にバウンドするような大きな動きが続き、乗り心地は行きの船の数倍悪い。しかも次第に酷くなっている。時おり船底に波がぶつかる低い音が響き、なかなか迫力がある。

船酔いを心配していたが、見た事のない波のうねりと窓いっぱいの豪快な水しぶきに夢中になってしまい全く問題なかった。
潮まみれの窓から外を眺めていると、相変わらずトビウオが何度も水面に現れ、魚を狙っているのかカツオドリがずっと並走して飛んでいた。
航路の中盤を過ぎると次第に揺れはおさまってきて、比較的快適な船旅を楽しめた。


午後6時、船は石垣港フェリーターミナルへと到着。無事に石垣島に帰ってくることが出来てよかった。
せっかく南の島にいるのだからと海鮮が食べたくなり、そのまま繁華街へ繰り出しひとり居酒屋へと入る。


日本4端制覇の記念とばかりに寿司9貫セット(1200円)とオリオンビールのジョッキ(390円)で乾杯。
沖縄ならではのイラブチャー(アオブダイ)の握りがあった。本来は鮮やかなエメラルドグリーンの魚で、寿司ネタでもその色合いがわずかに分かる。
くせのない白身魚だが、イカのようなコリコリとした食感があり初めての体験である。
イラブチャーの隣は大将によるとクロハマダイ(※うろ覚え)で、こちらも沖縄ならでは。

ジョッキ1杯のビールで終わらせたが、空腹に流し込んだためか多少酔ってしまった。
夜風を浴びながら宿に戻り、素晴らしい1日を振り返りながら就寝した。


2024年1月18日(最終日)

旅も5日目、とうとう最終日である。あとは北海道へ帰るだけだ。
午後0時15分発の飛行機で石垣島を発つが、まずはユーグレナモールで最後のお土産選びをしたいので午前8時に起床した。

おととい夜ご飯に連れて行ってくれた長期滞在のおじさんに最後のあいさつをし、ロビーへ行くと、オーナーのおじぃが併設の厨房にいらっしゃった。
勉強合宿で高校生のグループが滞在しているそうで、お得意の八重山そばを振舞っていたようだ。
「波照間は楽しめた?夏の石垣島も楽しいから、またおいでよ」。寝泊まりスタッフのおじさんと共に、相変わらず人のよさそうな笑顔で送り出してくれた。
地元での評判や口コミを拝見するに、この宿泊施設はおじぃの人柄で広く愛され支えられているようだった。
愉快な旅の思い出をくれたことに感謝しよう。



宿を出るときに北海道の寒さの話になり、スタッフと談笑していた地元民のおじぃに「恐ろしい場所へ帰るなぁ」と言われた。
こっちの人々は、島を出ない限りマイナスの気温はまず体験しないだろうな。
大変羨ましいが、暑がりの私には沖縄の湿度が辛いだろうな……などと考えながら繁華街まで歩いた。
この日は朝からどんより曇り空。観光する日じゃなくてよかった。


開店直後のユーグレナモールで酒類を買い込んだ後、石垣港のバスターミナルから空港行きバスに乗り午前10時15分に石垣空港着。
空港内のファミマで沖縄限定のポークおにぎりとさんぴん茶を買い、最後の沖縄めしを楽しんだ。

待ち時間に荷物の重量を確認すると、ピーチにて無料で持ち込める7キロをわずかにオーバーしていたが、かばんに仕舞っていた上着を着込むと700グラム差でギリギリOK。
危なかった。お土産の酒をあと1本買っていたらアウトだったかも。


午後0時15分発のピーチMM532便で成田空港へ。
午後3時に成田着、空港内で時間をつぶし、すっかり暗くなった午後5時35分発のピーチMM577便で北海道・新千歳へ。


午後7時半、ようやく帰ってきた新千歳空港は出発時と変わらず雪が舞っており、発着がやや乱れていた。前日は寒波の影響で大混乱だったようだから、1日違いで回避できたのは運が良かった。



雪だ……。
久々に見る気がする冬景色に、年甲斐も無く感動してしまった。
波照間島のヒマワリ畑やニシ浜の風景を思い出しながら、南北でここまで風景が違うのかと改めて驚く。
バスで苫小牧市内へ帰ると、よりによってこの街では珍しいくらいの積雪量で現実へと引き戻される。
沖縄は間違いなく別世界で、楽園のようだった。



という事で、三十路記念の旅と称した与那国島、波照間島への旅は無事に終了した。
歴代最長の移動距離に「最果ての離島」というロマンあふれる目的地。刺激的な旅になるのは予め約束されていたが、それに加え今回は道中での出会いに恵まれたと思う。
予想外の展開や思わぬ交流でのわくわく感は学生に戻ったかのような瑞々しさで、30歳のおじさんでもまだこんな感情になれるのだなぁと嬉しくなった。
やはり旅は良い。これからも時間を見つけて行きたいところへ行こう。


2014年8月 最北端・稚内 宗谷岬(自転車)


2022年5月 最東端・根室 納沙布岬(自家用車)


2024年1月 最西端・与那国島 西崎(飛行機と自転車)


2024年1月 最南端・波照間島 高那崎(飛行機と船と自転車)


2024年冬、
三十路記念の旅 西と南の果てへ


完。
※旅費合計:103,826円(お土産代を除く)

三十路記念の旅 西と南の果てへ その13

2024-03-06 00:27:07 | 旅行(道外)2020~
4日目 正午 ~宝石~


最南端広場にあった東屋とベンチで、朝にフェリーターミナルで購入したポークたまごおにぎりを頂く。
お値段は300円ほどだったがズッシリと重く食べごたえがある。そしてやはりスパムは美味しかった。
最南端のカラスたちに見つめられながら一緒に飲むのは沖縄限定のさんぴん茶。ジャスミン茶に近いようで、今回の旅ですっかりハマってしまい飲料水はこれしか買っていない。
果ての景色と共に昼食を満喫し、少し汗ばむ陽気のなか再び出発した。



最南端広場の駐車場から、波照間島随一の景勝地という「ニシ浜」を目指し西へと進む。
ヤギの歩く畑や草原の中を進む一本道は交通量が全くない。
お昼時のためか、畑仕事の休憩中であろう島人が木陰で昼寝していた。


午後0時50分、島一周道路と合流し島の西部をぐるりと半周すると、すぐに「ニシ浜」の小さな案内看板が現れ左折する。
下り坂の向こうにすぐさま美しい「波照間ブルー」の海が見えた。
行き止まりの小さな広場に自転車を停め、高まる気持ちと共に砂浜へと降りてゆく。





今まで見た事のない水色の海が、目の前に広がった。
あまりの絶景に言葉を失う。


ちょうどよく小さな岩陰を見つけたので、砂の上に座り涼ませてもらう。
日本にこんなに美しい場所があったとは。
日陰から眺めた快晴の海はより一層輝きを増し、エメラルドブルーを超えもはや透明である。
何と贅沢な風景だろうか。ここは間違いなく一人、ましてや冬靴で来るところではない。

心地の良い波音に時間を思わず忘れてしまう。
海外にバカンスに来たみたいだ。
足元で見事な巻貝を背負ったヤドカリが、砂から出たり潜ったりしていた。



ここニシ浜は沖縄で最も美しいビーチとも言われているそうだ。
欠航の多い航路に外洋の激しい揺れなど到達難易度は高く、苦難を乗り越えた者しか見られない特別な絶景であろう。
はるか遠く離れた道民の私にとっては、人生で最初で最後の風景かもしれない。
まるで宝石のようなビーチを存分に楽しんだ。
なお、ニシ浜の「ニシ」は波照間の言葉で「北」を意味しているそう。ややこしいな。





午後2時、ニシ浜を後にし、島の中央の集落へ再び戻ってきた。
帰りの船まではまだ2時間以上ある。集落周辺の散策をのんびり楽しむことにしよう。


集落の中にある日本最南端の酒造「波照間酒造所」。
家族経営で泡盛の「泡波」という1銘柄のみ製造しており、生産数が限られているので島内でも出回らず「幻の酒」と言われている。島外ではプレミア価格が付くとも。
今回の波照間滞在中は見つけられなかった。



波照間小中学校の前まで再び来ると、先ほどは気付かなかった「日本最南端の碑」と「蛇の道」のオブジェが描かれた壁画があった。つい先ほど見た風景ながらも感慨深い。
波照間ブルーの海面からはトビウオが跳ね「島を守るのは私たちです 自然を大切に」と力強く書かれていた。


午後3時、集落から島一周道路へと再び出て、まだ通っていなかったフェリーターミナル~最南端広場間を走ってみた。
平坦な道なので、ものの10分程度で最南端広場への一本道に合流。先ほど通った道なので、波照間島一周を一応は成し遂げた事としすぐ引き返した。
戻り際、海の向こうには水平線の代わりに西表の島影が続いていた。あんなに大きな島だったんだな。


次回、最終回。
戻りの船は凄い揺れ。そして北へと帰る。
続く。

三十路記念の旅 西と南の果てへ その12

2024-02-28 00:43:43 | 旅行(道外)2020~
4日目 午前11時10分 ~果てのうるま~



波照間島には至るところにヤギがいる。
島の静かな風に乗って、時折あちこちから鳴き声が聞こえてくる。
畑の中で紐に繋がれているのもいれば、道端の草を気ままに食べているのもいる。
放し飼いなのか野良なのか。


沖縄ではヤギを「ヒージャー」と呼び、波照間島では郷土料理のヤギ汁や刺身など食用として利用されている。
また島内のヒージャーの数は島民(450人)よりも多いと言われており、噂では台風などで物資輸送が途絶えた場合の備え(非常食)でもあるとか。真偽は定かではないが離島ならではの事情だ。
ヤギの肉は栄養価が高く雑草で育つため安価な一方、独特の臭いがあり沖縄の人でも苦手な人が多いそう。


午前11時20分、海へ向かう林の中の一本道を抜けて、いよいよ目指す日本最南端広場へと到着した。
もっと時間が掛かると思っていたが、島内は予想以上にコンパクトで移動もあっという間だ。
林から草原になり視界が開け、気分が高まってきた。


そして……海を望む草原の隅に、ついに目指す場所があった。





2024年1月17日、午前11時25分―。
北緯24度02分44秒、東経123度47分18秒の日本最南端の碑へ到達した。
今回の三十路記念の旅の二つめの目的が無事に達成された。

ついに生涯の目標であった日本最北端、最東端、最西端、最南端の4端制覇を果たしたのだ。

草木の揺れる音と、断崖に打ち付ける波の音しか聞こえない場所。
いつの間にか雲がほとんどない真っ青な快晴が広がっていた。
私の思い描いていた南の果ての風景そのものだ。素晴らしい日にここに来られた幸運に感謝したい。


最南端の碑の隣には、1972(昭和47)年に沖縄祖国復帰記念で建立された「波照間の碑」があり、石碑に向かって石灰岩やサンゴ化石を積み上げた「蛇の道」が延びている。



その名の通り、くねくねと曲がりくねった細い遊歩道には「島が本土と離ればなれにならぬよう」という願いが込められ、全国47都道府県から集めた石のオブジェがある。



もちろん我がふるさと北海道の石もあった。
まさか日本最南端の場所に「北海道」の文字があるとは思わなかった。
数千キロ離れた地に思いをはせ嬉しくなる。ずいぶんと遠く離れた場所へ来てしまった。




最南端広場からは日本最南端の景勝地「高那崎」の断崖が続き、なかなか壮観。
内陸の草原の向こうへ目をやると、先ほどマンホールにイラストが描かれていた「星空観測タワー」がポツンと見えた。
波照間島は全88星座のうち84星座が見られるという星空の島。緯度の関係で本土では見られない南十字星は、ちょうど今の時期(12月~6月)が観測のチャンス。
今日は快晴なので宿泊する人がうらやましい。


波照間島で特に楽しみにしていた高那崎の絶景を望むべく、断崖の突端を目指す。
この辺りは琉球石灰岩の地形が南東に1キロほど続いているそうで、ざらざらした岩肌は凹凸が激しくなかなか歩きにくい。そして南の島の日差しをいっそう強く照り返している。



高さ数十メートルの断崖と激しい波音に怯みながらも、出来る限りの崖のきわまで辿り着く。
どこまでも続く絶壁に、青々と輝く太平洋の荒々しい波が打ち付け圧巻である。
外洋のはるか向こうはフィリピンである。
北国在住の私にはもう一生見られない風景かもしれない。

波照間島の名前は沖縄でサンゴを表す「果てのうるま」から来ているという。
波照間島はまさしく「果て」なのだ。
ダイナミックな風景を眺めながら、ここまで辿り着いた達成感に浸った。

次回、人生で最も美しい砂浜。
続く。

三十路記念の旅 西と南の果てへ その11

2024-02-25 23:59:01 | 旅行(道外)2020~
4日目 午前10時15分 ~島の歴史~

ヒマワリ畑のすぐ近くに、ぜひ立ち寄りたかった場所があった。
国指定史跡の「コート盛(先島諸島火番盛)」である。




琉球王国時代の17世紀中ごろに異国船の監視・通報のために建てられた遠見番所群のひとつ。
琉球石灰岩を渦巻き状に積み上げて造られており、有事の際はのろしを上げて他の島々へと伝えていたそうだ。
高さ4メートル、直径10メートルほどとそれほど大きくないが、この辺りは標高60メートルあるそうで、階段を上ってみると遮るものが無く、番所があったという海の向こうの西表島まで見渡すことができた。


自転車を漕いでものの5分ほどで、島の中央にある集落へと到着した。
石灰岩やサンゴの塀に囲まれた平屋の家々の他、小さな民宿などもある。人が少なく静かな時間が流れている。


日本最南端の波照間駐在所と、同じく日本最南端の波照間小中学校。
船で到着した時に港にスイフトのミニパトがいたが、まだパトロール中か。
小中学校は思ったよりも校舎が新しく立派だったが、4年ほど前に建て替えられた小中併設校舎なのだそうだ。なお全校児童生徒は50人ほど(2023年現在)。



小中学校の塀は児童生徒によるカラフルな絵で彩られていたが、青々とした空と海に浮かぶ波照間島の作品が印象深かった。
「平成5年度 卒業制作 平和学習記念」とある。偶然にも私の生まれた年だ。

「星になった子どもたち」という歌詞が雲のように描かれており
「ガタガタふるえるマラリアで 一人二人と星になる
 くるしいよ さむいよお母さん 帰りたい 帰りたい 波照間へ」
などという言葉がある。

調べてみると、波照間島には第2次世界大戦中に「戦争マラリア」の悲しい歴史があった。
軍命で西表島南部へ強制疎開となった島民たちの間に、マラリアが大流行し死者が続出したのだ。
有病地であった西表での劣悪な生活環境によるもので、残った島民は沖縄戦の後に島へ戻ることができたものの、田畑が荒れ果て家畜が処分された島内では食料が尽き、そしてここでもマラリアが猛威を振るった。
結果、島民1590人のうち1587人がマラリアに感染し、当時の島民の3割である477人が死亡した。
波照間小中学校の前身である国民学校の児童も66人が死亡。

波照間を思いながら星になった子どもたち。
忘れてはならぬ歴史が歌い継がれているようだ。


小中学校のほぼ向かい、集落の中心部にある波照間郵便局はかなり新しいなと思ったら、昨年2023年7月末に建て替えられたばかりのようだ。
そして集落のはずれ、少し迷いながら到着したのは竹富町役場・波照間出張所。
2人しかいない小さな窓口で「日本最南端証明書」を購入した(500円)。島内の一部の土産物店でも扱っているそうだが、やはりこういった証明書は公的機関で入手したいという個人的なこだわり。



島内には食料品や生活物資を販売する共同売店が数店ある。
島民の生活リスムに合わせているのだろう、お昼すぎから午後3時ごろまで「休憩時間」の店舗もあるようだ。
店内のカップめんやお菓子などの値段を見てみたが、意外と本土のコンビニ価格と同じくらい。



地図に神社の表記があり、沖縄の神社とはどういうものか見てみたかったのだが、何やら雰囲気が違うぞというエリアの周囲に「立入禁止」の真っ赤なブロックがあった。
どうやら神を祀る「御嶽」や祭祀を行う聖域として禁足地とされているらしい。
波照間島にはこのような場所があちこちにあることから「神々の島」と呼ばれ、探索中は油断してはならない。


こちらも集落内のあちこちにある、島言葉による交通安全の手書き看板と島のマンホール。
看板は隣に訳が書いてあり「ウタマンドゥ トゥンジピコハン」は「あぶない 子どもの飛び出し注意」という意味らしい。
このほか「ヤマシヤマシ パリヨ~(ゆっくりゆっくり走ってね)」というものもあった。





午前11時、集落を抜け「日本最南端の碑」目指して島を南下する。
集落から外れるとほとんど畑と農道のようで、見晴らしがよく緑豊かな景色が続く。




平坦な道に沿って背の高いサトウキビ畑が広がっており、思わず「ざわわ……ざわわ……」などと口ずさむ。
立派に育ったサトウキビはちょうど今の時期の1月~3月にかけてが最盛期らしく、真っ黒に日焼けした島人たちが収穫作業をしている光景も見られた。
あと1~2か月来るのが遅かったら、全て刈り取られて少し寂しい風景だったかも。



次回、いよいよ南の果ての風景へ。
続く。