前回掲載の陳 正雷老師テキスト「いかに効率よく太極拳を練習するか」の続きである。
ここまでが前半。後半は続く。(なにせ暑くてアタマがぼ~~~、の1週間である)
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「いかに効率よく太極拳を練習するか」より
2. 枝葉末節ではなく根本を練習する
「根本」とは本源を指し、丹田の活力と下半身の力を言う。丹田の陰陽は生まれた時から備わったもっとも根本的なものであり、気を発する源である。
丹田の気が充実していれば、五臓は栄養を得ることができ、肝、心、脾、肺、腎、それぞれの臓腑はその機能を充分発揮することができる。したがって、気力が満ちあふれ力が充足して反応が敏感になり、身体全体は協調し合うようになる。体内の気を充実させることがまず基本であり、その上で、全身をリラックスさせて気を丹田に納め、湧泉に沈め入れることによって、身体の上部は賢く、中部は活発に、下部は根を張ったようにしっかりとしたものとなる。
「枝葉末節」とは、身体の各部分の力と硬度を鍛えることを主な目的とする局部的な練習方法を言う。太極拳は拳術である以上、当然、内外両方とも鍛錬する必要があるが、内なる功夫を重んじる拳術であるから、内の練習と元の養成を主とすべきである。「培根潤源」と言われる通り、根を培えば枝葉は自ずと茂り、源が潤えばその葉脈は自ずと成長する。
3. 技ではなく身法を練習する
「身法」の練習は身体全体の力の練習になる。ここで言う「技」とは、ひとつひとつの動作ごとの攻防の意味である。
太極拳を初めて練習する人は、とかく、それぞれの動作や姿勢の用法を知りたがるものだ。しかし、もし、個々の動作から太極拳の用法と内容を理解しようとすれば、太極拳の真髄を体得することはできない。
太極拳においては、套路の熟練と正確な動作、こわばりや緊張を取り除き、しなやかな柔軟さを体得する過程を経て、はじめて全身が従い合い、内外が一致し、内気が充実するようになって、拳法をしっかり身につけることができるようになる。
また、太極拳の練習は、自分の身体全体の力を習得することにある。敵に臨んで応用する場合には、情勢によっては己を捨て、相手に従うこともある。臨機応変で一挙手一投足の動作にはこだわらない。内なる気が充実していれば、全身、空気が充満しているボールのようになり、感じれば応え、ぶつかれば撃つことができる。拳論に述べているように「成就すれば、敵がどのように来ようと、どう対応すればよいか、考えることなく、自然に応じることができるようになる」のである。
(日本陳式太極拳学会会報「陳家溝」より)
以下続く。
ここまでが前半。後半は続く。(なにせ暑くてアタマがぼ~~~、の1週間である)
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「いかに効率よく太極拳を練習するか」より
2. 枝葉末節ではなく根本を練習する
「根本」とは本源を指し、丹田の活力と下半身の力を言う。丹田の陰陽は生まれた時から備わったもっとも根本的なものであり、気を発する源である。
丹田の気が充実していれば、五臓は栄養を得ることができ、肝、心、脾、肺、腎、それぞれの臓腑はその機能を充分発揮することができる。したがって、気力が満ちあふれ力が充足して反応が敏感になり、身体全体は協調し合うようになる。体内の気を充実させることがまず基本であり、その上で、全身をリラックスさせて気を丹田に納め、湧泉に沈め入れることによって、身体の上部は賢く、中部は活発に、下部は根を張ったようにしっかりとしたものとなる。
「枝葉末節」とは、身体の各部分の力と硬度を鍛えることを主な目的とする局部的な練習方法を言う。太極拳は拳術である以上、当然、内外両方とも鍛錬する必要があるが、内なる功夫を重んじる拳術であるから、内の練習と元の養成を主とすべきである。「培根潤源」と言われる通り、根を培えば枝葉は自ずと茂り、源が潤えばその葉脈は自ずと成長する。
3. 技ではなく身法を練習する
「身法」の練習は身体全体の力の練習になる。ここで言う「技」とは、ひとつひとつの動作ごとの攻防の意味である。
太極拳を初めて練習する人は、とかく、それぞれの動作や姿勢の用法を知りたがるものだ。しかし、もし、個々の動作から太極拳の用法と内容を理解しようとすれば、太極拳の真髄を体得することはできない。
太極拳においては、套路の熟練と正確な動作、こわばりや緊張を取り除き、しなやかな柔軟さを体得する過程を経て、はじめて全身が従い合い、内外が一致し、内気が充実するようになって、拳法をしっかり身につけることができるようになる。
また、太極拳の練習は、自分の身体全体の力を習得することにある。敵に臨んで応用する場合には、情勢によっては己を捨て、相手に従うこともある。臨機応変で一挙手一投足の動作にはこだわらない。内なる気が充実していれば、全身、空気が充満しているボールのようになり、感じれば応え、ぶつかれば撃つことができる。拳論に述べているように「成就すれば、敵がどのように来ようと、どう対応すればよいか、考えることなく、自然に応じることができるようになる」のである。
(日本陳式太極拳学会会報「陳家溝」より)
以下続く。