消えゆく霧のごとく(クンちゃん山荘ほっちゃれ日記)   ほっちゃれ、とは、ほっちゃれ!

きらきら輝く相模湾。はるか東には房総半島の黒い連なり。同じようでいて、毎日変わる景色。きょうも穏やかな日でありますよう。

敗戦の日、74年前のきょう

2019年08月15日 13時53分27秒 | 日記
  走り出したら止まりません。
  気がつけば、いつか来た道
 突っ立ったままでいられまっか?
 
 74回目の敗戦の日が巡ってきました。
 
 そのころ、おらは、まだ影も形もなかったのですが、少年少女の目や耳で体験した戦争を語ってくれる教師たちに育まれました。
 とても幸せなことだったと思っています。
 
 さて、若い頃に読んだ『兵役を拒否した日本人灯台社の戦時下抵抗』 (稲垣真美著 岩波新書1972) はおらの人格形成に相当な影響を与えた、と感じています。
 「灯台社」(ワッチタワー) というのは、戦前、米国から日本に入ってきた宗教で、キリスト教の異端、ということになっています。
 そうそう、帽子をかぶった婦人が二人連れで家庭を訪れてくる姿をよく見かけますよね。「ものみの塔」という団体、輸血拒否で物議をかもしたことがありました。客観的には、灯台社はあのものみの塔の前身にあたることになります。もっとも、いまのものみの塔側は、「なんの関係もない」という見解のようです。この本はいま手許にないのでamazonの古本販売のちなみ画像をupしておきました。
 
         
 
 この本の中で、若き日のおらをいたく刺激したシーンがありました。
 
 その役者たちは、ふたりの信徒A、B、確か指導者の息子たちだったような記憶ですが、違うかもしれません。 
 そのふたりが徴兵された後、部隊のなんだったか朝礼のような多くの人間が集まる場で、全員がご真影に対してだか皇居遥拝だかで、号令とともに深く拝礼する場面があるわけです。
 ところが、このうちのひとり、Aの回想では、自分はそんなものを拝まない、と棒立ちのまま立っているわけですが、だいぶ前のほうでやっぱり突っ立ったままの人間がひとりいるのが見えた、ということなんです。Bですね。
 
 で、そのエピソードをうちの親父に話したところ、親父は鼻をぴくぴくさせながら、次のように話してくれました。
 
 「いま、学校なんかで校庭に生徒を並ばせてなんかやるとき、前の方にいるセンセたちは、生徒たちと向き合う格好になっているよな。だけど、昔は軍隊でも学校でもご真影拝礼や皇居遥拝の際は、全員が同じ方向を向いているわけだ。
  したがって、お辞儀していない人間がいたとしても、それに気づきようがないということもある。それから、だれかが、拝礼していなかったやつがいるゾ、誰それだと指摘すれば、それは自分もきちんと拝礼していないでよそを見ていたという証左になるので、指摘できるはずがなかったんだよ」
 
 おらはなにやら真に迫った親父の話を聞いて、無言のうちに「ははーん、こいつもシカトして拝礼しなかった人間やな」と理解するに至りました。親父はいろいろ欠けも多かったひとでしたが、この拝礼シカト、の点はおらがとてもじゃないが出来ないことをやった男として、尊敬に値するといまは思っています。
 やはり、たったのひとりふたりでも、長いものに巻かれない、という人間が必要な場合があるわな、と思っています。
 
 じゃあ、おまいはどうなの、と聞かれれば、恥ずかしながら大層なものはありません。まあ、ほんとにささやかなことでは1件だけヒットしましたけどね。
 
 それは会社勤務の時代、会社のなんかのパーティーの席でした。10年も前のことです。
 座が盛り上がるに従い、戦争体験など皆無の若い社長が軍歌を歌い出し、お追従の人間たちが、参加者全員で立ち上がって和するよう仕向けたのです。
 おらは戦争に現実に行った人びとが軍歌を歌うことはかなり自然のことと思いますが、このような何も知らん若造が歌うことには強い嫌悪感を感じる人間なのです。
 そこで、軍歌を歌わず座ったまま憮然としておりましたが、何曲か続けて歌うために、けっこう座り続けていなければならず、苦痛でした。
 このときの参加者200人以上のなかで、歌わず立ち上がらず、は、実際はおらひとりではなく、もうひとり、女性編集者がいたことが後になってわかり、大いに力づけられました。(実は、おらが座っていたテーブルでは、もうひとり、酔いつぶれて座席からずり落ち、テーブルの下でいびきをかいていたツワモノ編集者もおりました。爆)