消えゆく霧のごとく(クンちゃん山荘ほっちゃれ日記)   ほっちゃれ、とは、ほっちゃれ!

きらきら輝く相模湾。はるか東には房総半島の黒い連なり。同じようでいて、毎日変わる景色。きょうも穏やかな日でありますよう。

第2回仙台短編文学賞落選作 『合流点』 izukun ③

2019年08月13日 20時08分47秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと

合流点 ③  izukun

      ♥

 俺と勢津子、そして母スミの三人暮らしは二十年近く続いた。その間には、どこの家庭でも起こり得るさまざまな問題が生じた。その大きなもののひとつは、俺が交通事故による後遺症で右足がかなり不自由になってしまったことだ。まともに働けなくなってしまった。それ以後、というよりはそれ以前も含めてだが、勢津子は生命保険の仕事で、ずっと家計を支え続けてくれた。彼女に不満がないはずはないが、それを一切口にせず、いつも明るく振る舞ってくれるのが大きな助けだった。

 母は持病の腰痛には悩まされたが、持ち前の強い精神力で冤罪被害者の家族らと連絡を取り合うなどの活動を続けた。由太郎の再審にも変わらぬ意欲で取り組み続けた。しかし、徐々にではあったが、心身ともに衰えていき、さすがに九十歳代半ばにさしかかると家庭での介護が困難となっていった。

 それまでに俺と母は、支援団体もなく、弁護士に依頼する金銭的余裕もないまま、自分たちだけで東京高等裁判所宛に再審請求を繰り返した。それは昭和の終わりから平成二十年までに計八回に及び、すべて由太郎の配偶者である母名義の請求だった。

 しかし、残念ながらすべて門前払いとなった。もともと確実な証拠なしに有罪としたゆえに冤罪云々という問題が起きるのだが、再審開始には無実の人間の側から新たな証拠を出さなければならない。濡れ衣を着せられた側に言わせれば、こんなに人を馬鹿にした制度はないのだ。

 高齢の母の状態を客観的に見ると、再審請求はもはやここまで、という結論に甘んじるほかはなかった。法律的に由太郎と親子関係にない俺には再審請求権がなかった。

 由太郎が死ぬ間際、その手を取って、「必ず汚名を雪(そそ)ぐ」と語りかけた俺と母。その約束をまだ果たしていない。そんな思いが、返していない借金のように、いつも心の隅にわだかまっていた。残されている手段はもう何もない、その確定的な結論が目の前をちらつき、あたかも強迫神経症のように俺を苦しめるようになっていた。

 そんな折、平成二十年(二〇〇八)の春だったが、地元のテレビで、自分の父母や兄弟姉妹のことを本にまとめた人が紹介されていた。その番組を見ているうちに、俺は気がついた。由太郎の事件を本にすれば、彼が無実だという記念(モニュメント)を世間に残すことができる。

 早速、原稿用紙というものを買ってきて、あのこと、このこと、さまざまに思い出しながら、少しずつ書き溜めていった。ところが、一筋縄ではいかない。なにしろ〝作文〟は子どものころから苦手中の苦手だ。勢津子に読んでもらって感想を聞こうとしたら、机の上に置いてあった原稿を既に読んでいたらしく、即座に厳しい指摘が返ってきた。

「あなたの原稿を読んで、書いてあることが理解できる人はあなたと私とお母さんだけよ! 原稿読む前に事実をよーく知ってますからね。こりゃだめだわ、書き直しね」

 悪戦苦闘の末、三か月以上かかって一応最後まで書き上げた。

 だが、それから先がまた大変だった。地元仙台の出版社をはじめ、上京の折に都内の出版社を何軒も訪ね歩いたが、どこも本にしてくれると言ってくれない。ちらっと原稿を見て、同じことを言う。

「興味深いテーマだと思いますが、うちよりよその版元を当たったほうがいいでしょう」

 結局、著者が出版費用を負担するタイプの出版社以外には色よい返事をもらえなかった。そのうちの一社に見積もりを送ってもらったが、手が届かない金額で、あきらめざるを得なかった。いささかがっかりして、勢津子にも出版は取りやめたと伝えておいた。

 ところが、二、三週間の後、その版元の編集者から電話が入った。法律系の専門部署にいるという無愛想な男だった。用件は、預かっている原稿の細部について聴き取りをしたい、とのことだ。はてな、俺の原稿はとっくに送り返してもらい、お蔵入りしているが…。

 なんのことかよくわからないうちに、その編集者は東京からやって来た。細かい記述についてあれこれしつこく質問を繰り返す。そして、答えをせっせと原稿のコピーに赤く書き込んでいく。俺はまったく心あたりがない成り行きに、不安に包まれた。

 途中で質問をさえぎり、恐る恐るこちらの疑問をぶつけてみた。彼のほうも驚いて、「はあっ?」と絶句したが、勢津子がお金を払って出版契約を結んだ経緯を呆れ顔で説明してくれた。まったく寝耳に水の話だ。そんなお金をどこで都合したのだろうか。

 その夜、疲れた様子で帰宅した勢津子に事情を尋ねた。しかし、なるべく穏やかに「ありがとう」から始めるべきなのに、脈絡もなく契約金の出所から問いかけてしまった。彼女は叱責されるのかと勘違いしたらしい。ぼそっと、「ああ、その件ね」と小声で言いながら、着替えのためにそそくさと二階への階段を上がりかけた。その途中で思い直したのか、いぶかしげに見上げる俺にニコッと笑いかけた。初めて会った日のような笑顔だった。

「お金はね、タワービルから飛び降りたつもりで私が払いました。出したい本は出せばいいわよ! お母さんが生きているうちにね! 由太郎さんもきっと喜ぶわ!」

     ♡

 待ちに待った誠一の本は、平成二十一年の年明けに刊行され、仙台市内の本屋にも並びました。彼が、無愛想なやつだと言っていた編集者は意外にも親切で丁寧、きちんとした仕上がりの本になっていました。誠一の喜びはひとしお、私もまるで我が事のようにうれしかったです。言いたいことは全部書いてありました。ふたりの老後のために私がこつこつ蓄えていた預金は本に化けましたが、何も悔いはありません。

 仏前に報告する一方、介護施設に入っている九十九歳のスミに本の内容を読み聞かせるため、誠一は何度もその枕元に出かけていきました。スミは少し話がわかったとみえ、顔に表情が戻り、胸元に置かれた自分用の本を何度も撫でていたそうです。

 本が出版されたことで、誠一の由太郎に関する活動は完結したと私は思っていました。

 ところが、ところがです。春先になると、誠一は今度は本のあらすじ、つまり事件のあらましを書いたビラを大量に作り、東京霞ヶ関の東京地裁・高裁前をはじめ、可能な限り全国の裁判所前で撒くと言い出したのです。どうやら十万枚も印刷したようです。いったんこうと決めたら、スミと同様、何を言っても聞く耳を持たない人です。

 そうこうしているうちに、自分のボックス型軽トラックに布団や簡単な炊事道具を積み込んで、東京へ向かいました。七十歳に手が届く年齢、しかも足が不自由。私の心配などお構いなしに出かけて行ってしまったのです。

 半月ほどが過ぎ、帰ってきた誠一の話にまた驚かせられました。

 駐車料金が要らず、駐停車禁止に指定されていない場所を捜したら、東京港の埠頭ぐらいしかなかった。そこで、晴海埠頭の一画に軽トラを停め、仮泊しては裁判所前に通った、というのです。警視庁のパトカーが夜中にパトロールで回って来て何回も職務質問されたが、そのうちの何人かの警官とは顔見知りになってしまったなどと笑ってもいました。

 仙台でも、地裁・高裁前や市内の目抜き通りで、誠一は盛んにビラを撒きました。街頭でのビラ撒きというのは、なかなか大変なようです。無視する人がほとんどで、受け取ってくれる人はとても少ない。いったん手に取ってくれても、すぐに丸めて投げ捨てられる。その塵芥と化したビラを拾い歩くのは悲しいということでした。

 私はこのビラ撒きというのだけは嫌でした。性にあわないというか、とにかくやりたくないので、一度も手伝ったことはないのです。誠一も、自分が勝手に始めたこともあってか、一緒にビラを配布してくれとは一度も言いませんでした。

      

(つづく、原文縦書き、添付画像はfrom free、 本文とは関係ありません。オリジナルには添付なし。)

                                                                  

 

 


第2回仙台短編文学賞落選作 『合流点』 izukun ②

2019年08月13日 00時10分17秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと

合流点 ②  izukun 

     ♥

  母が腰を痛めた時期、山際勢津子は川平(かわだいら)の自宅に母を見舞ってくれた。それも三回も来てくれたのだ。当時、俺の交代制勤務の都合で、母とはすれ違いのような生活になっていた。そのうえ、母を訪れる人など稀だったので、母は、とても励まされた、うれしかったと喜んでいた。一度は俺が家にいるときに来てくれたが、気が回る優しい人だと思った。

 その後、俺は「見舞いのお礼がてら」という名目で、仙台駅近くに彼女を呼び出し、ランチを一緒にした。そのとき、「旦那に叱られちゃうかな」と水を向けると、「私はいま、フリーよ」とシングルマザーであることを明かした。バツイチ同士の気楽さもあって、何回か会い、食事をしたり軽く呑んだり、若い人たちのデートの真似事のようなことをした。 

  彼女は、折々の思いを自己流の俳句や歌に託すのが趣味と言えば趣味だと笑った。結社に属すのは嫌いだという。それで、ついつい俺も短歌を少しやるなどと、いい加減なことを言ってしまった。

 こちらの家庭の事情や由太郎の事件のことは母がその相当部分を話していたようで、妙に隠し立てをしないで済むのが何よりも有り難かった。やがて恋人というような間柄になった後も、由太郎の事件のことは勢津子には滅多に話さなかった。彼女にはまったく関わりがないことだし、嫌がられるかも知れないと思ったからだ。しかし、かなり詳しく知っているようだった。

 ある梅雨寒の夜、国分町近くの洋風居酒屋で待ち合わせた。彼女は長めのグレーのスカートにオフホワイトのカーディガンを羽織ってあらわれた。軽く呑んでいるうちに、唐突に由太郎と俺の関係を口にしたので、ちょっと驚いた。

      

「由太郎さんはお母さんと結婚したけど、誠一さんとは親子縁組しなかったのよね?」

「ああ、そうだよ。義父(おやじ)はさ、仮釈放で選挙権もないような自分と同じ戸籍に入っちゃいかん、そう言い張って縁組をしなかった。だから姓は同じ伊藤でも、法律上は他人のままだったということになるんだ」

「ふーん、そうなの。…選挙の投票にも行けなかったんだ…」

「無期懲役の仮釈放だからな、死ぬまで刑期が終わらないってことなんだよ」

「いつまで経っても濡れ衣を脱ぎ捨てられないってことなの?」

「そういうわけだ。恩赦という、こっちも狭い門があるにはあるけど、それは罪を認めることが前提になる。義父は冤罪なんだから、それは絶対できっこなかったんだ」

「うーん、そうだよねえ。…それで…ひとつ聞いていいかしら? いつも不思議に思っていることがあるのよ。昔、お母さんの再婚に反対して、由太郎さんのこともあまり好きじゃなかったはずのあなたが、彼の無念を晴らそうとお母さんと同じように頑張っている。なぜそうなるのか? そこが私にはわからないのよ」

 俺は腕組みをしたまま、しばらく天井を眺めていた。何から話したらいいのだろうか。

「それはさ、俺がとんでもない間違いをしてしまったことに気がついたからなんだ。昔の裁判はまず予審というやつがあって、それから青森の地方裁判所、仙台の宮城控訴院、いまの高等裁判所だよな、そして大審院、いまは最高裁ね、そんなふうに何回も裁判を受けるんだ」

「裁判に間違いがないようにってことなんでしょ?」

「まあ、そういうことだな。それで、結局、義父は有罪になっちまった。だから、人を殺したっていうのは、本当のことなんだって俺は誤解しちゃったんだよ。いくらなんでも、やってもいない人間を犯人にしてしまうなんてことはあり得ないと思ってね」

 そう話し始めて、俺は心の中の引き出しから、とてつもなく苦い記憶を引っ張り出そうとしている自分に気づいた。一瞬、躊躇(ちゅうちょ)したが、彼女の白いブラウスに付いている小さな花模様の刺繍に視線を下げて、話を続けた。

   *

 由太郎と俺たち母子が一緒に住むようになってからというもの、俺は毎日毎日、むしゃくしゃした気持ちでいた。まだ、たかだか中三の俺は、この男さえいなければ元の平穏な暮らしに戻れる、そんな安直なことをいつも考えていた。

 俺は思いつめていた。ある日、気がついた時には、台所の包丁立てからその一本を手に取り、両手で構えていた。そのまま裸足で外に出る。庭の隅にスコップで塵芥(ごみ)捨て場の穴を掘っていた由太郎の背中に近づいていく。異様な気配を感じたのか、振り向いた彼は、息を呑んで顔色を失った。

 偉丈夫で、スコップを手にしている彼が反撃に出れば、中学生の俺なんかひとたまりもない。だが、彼はスコップを脇に投げ出し、無言のまま俺に向かってひれ伏した。顔を上げては俺を拝み、またひれ伏す。何回も何回もそれを繰り返した。身体全体が小刻みに震えている。必死の形相で見上げる目は涙でうるみ、悲しみに満ちていた。

 ぬかるみの地べたに伏す由太郎、それを見た瞬間、俺は彼の無実を信じた。この人には人殺しなどできっこない、と確信した。俺は包丁を投げ捨て、膝を折って泣き叫んだ。おずおずと右手を差し出すと、強い力で握り返された。心の底から後悔した。

「ひどいことをしてしまった。ごめんなさい」「真犯人だろうと疑ったことを謝ります」

 このときの思いがずっと絶えることなく生き続け、母とともに由太郎の無念を晴らすことが、俺の人生の目的のひとつになった。

 それ以来、俺はこの顚末を誰にも話すことはなかった。母が由太郎から聞いたのかどうかも知らない。由太郎と俺の会話にも、彼が死ぬまで一度たりとも出てこなかった。

 しかし、俺の心にはいまでもこの日の情景が色あせずに残っている。時にその映像が立ちあらわれて、俺を苛(さいな)む。俺は駆り立てられるように、がむしゃらに行動した。

 高名な裁判官に成り上がったかつての予審判事と談判し、その謝罪を獲得した。真犯人と対決し、自らの犯行である旨の告白を引き出すこともできた。しかし、それらのやりとりが確かに存在したことを客観的に証明付けられなかった。時は過ぎ去っていった。

  *

 勢津子は空のコップを右手に持ったまま、目をつぶって俺の話を聞いていた。彼女の目から何度か涙がすーっとこぼれ落ち、俺はその度にあらぬほうへ視線を移した。話が尽きても、ふたりはしばらく押し黙ったままでいた。

      ♡

 母親と結婚し新しい家族となった由太郎に、包丁を構えて向かっていった中三の誠一、そのときの暗い気持ちを推し量ると、私もひどく沈痛な思いにとらわれました。まだ思春期にさしかかったばかりの誠一を覆い尽くした辛さ、悲しさ、やりきれなさはいかばかりだったろうか。さらに思いは広がっていき、私と誠一の関係について、私の娘たちがどう受け止めてくれるのかが気になって仕方がありませんでした。

 でも、それ以上に強い衝撃を受けたのは、この事があった後、誠一の由太郎への気持ちが大きく変化したことでした。まったく百八十度の転換です。ただただ驚いてしまいました。

 感激したとか感動したという種類の感情ではなく、呆然として言葉を失ってしまったというほうが当たっています。親子は別かも知れませんが、例え近い血縁であったとしても、これだけ他者に寄り添うことは難しいでしょう。ましてや、誠一と由太郎は親子縁組さえしていないのです。私には、スミと誠一の母子が何かとても不思議な存在、手が届かない遠い所にいる人たちに思えたのです。

 このまま誠一とお付き合いを続けても、彼やスミのように由太郎の問題と濃密に関わることはできないだろう。表面はともかく、心の奥では単なる傍観者の域を超えることは難しいのではないだろうか。そんなふうに思えてなりません。これ以上彼と会うことはお互いを傷つけるだけではないか、そう考えるようになっていきました。私は意識的に誠一と距離を取るように自分を仕向けていったのです。

 誠一は何度も連絡をくれました。とにかくもう一度会って話を聞いてくれとのことでした。ある晩、これが最後と思って会いました。

 そのとき彼は、自分とスミは事件を背負っていくしかないが、私には関係がない、と断言しました。しかし、同じ屋根の下に住む以上、そんなわけにはいかない。悲しいけれど、もう会うことはないだろうと思いました。

 そんな吹っ切れない悩みを抱えたまま、時が過ぎていきました。

 ある夕刻、勤めから帰ると、ポストに誠一からの葉書が一枚、ぽつりと入っていました。短歌が一首、二行に分けて書いてあるだけでした。

   待ちわびし時はたちまち過ぎゆきて

             待ちわびる日のはじまりとなる 

 私には誠一の気持ちが痛いほど伝わってきました。私も同じ気持ちで、辛い日々を過ごしていたからです。偶然としか思えなかった誠一との出会いは、必然だったのではないか。彼を失えば、ふたたび私の心に灯がともることはないと思えたのです。

 数日後、私も葉書に歌を一首だけ、一行に書いて投函しました。いつかふたりで遊びに行った閖上浜(ゆりあげはま)の海を思い出しながら詠んだ歌です。

   空のあお海のあおとがいりまじる  彼方に行かむ妹背のごとく

 こうして、私と誠一は、娘たちが巣立った後、一緒に住むことになりました。        

 八十歳、傘寿(さんじゅ)を迎えたスミは、諸手を挙げて私たちの結婚に賛成してくれました。彼女の笑顔が本当にうれしかったです。

(つづく、原文縦書き、添付画像はfrom free、本文内容とは関係ありません。オリジナル原稿には添付なし。 )