合流点 ③ izukun
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俺と勢津子、そして母スミの三人暮らしは二十年近く続いた。その間には、どこの家庭でも起こり得るさまざまな問題が生じた。その大きなもののひとつは、俺が交通事故による後遺症で右足がかなり不自由になってしまったことだ。まともに働けなくなってしまった。それ以後、というよりはそれ以前も含めてだが、勢津子は生命保険の仕事で、ずっと家計を支え続けてくれた。彼女に不満がないはずはないが、それを一切口にせず、いつも明るく振る舞ってくれるのが大きな助けだった。
母は持病の腰痛には悩まされたが、持ち前の強い精神力で冤罪被害者の家族らと連絡を取り合うなどの活動を続けた。由太郎の再審にも変わらぬ意欲で取り組み続けた。しかし、徐々にではあったが、心身ともに衰えていき、さすがに九十歳代半ばにさしかかると家庭での介護が困難となっていった。
それまでに俺と母は、支援団体もなく、弁護士に依頼する金銭的余裕もないまま、自分たちだけで東京高等裁判所宛に再審請求を繰り返した。それは昭和の終わりから平成二十年までに計八回に及び、すべて由太郎の配偶者である母名義の請求だった。
しかし、残念ながらすべて門前払いとなった。もともと確実な証拠なしに有罪としたゆえに冤罪云々という問題が起きるのだが、再審開始には無実の人間の側から新たな証拠を出さなければならない。濡れ衣を着せられた側に言わせれば、こんなに人を馬鹿にした制度はないのだ。
高齢の母の状態を客観的に見ると、再審請求はもはやここまで、という結論に甘んじるほかはなかった。法律的に由太郎と親子関係にない俺には再審請求権がなかった。
由太郎が死ぬ間際、その手を取って、「必ず汚名を雪(そそ)ぐ」と語りかけた俺と母。その約束をまだ果たしていない。そんな思いが、返していない借金のように、いつも心の隅にわだかまっていた。残されている手段はもう何もない、その確定的な結論が目の前をちらつき、あたかも強迫神経症のように俺を苦しめるようになっていた。
そんな折、平成二十年(二〇〇八)の春だったが、地元のテレビで、自分の父母や兄弟姉妹のことを本にまとめた人が紹介されていた。その番組を見ているうちに、俺は気がついた。由太郎の事件を本にすれば、彼が無実だという記念碑(モニュメント)を世間に残すことができる。
早速、原稿用紙というものを買ってきて、あのこと、このこと、さまざまに思い出しながら、少しずつ書き溜めていった。ところが、一筋縄ではいかない。なにしろ〝作文〟は子どものころから苦手中の苦手だ。勢津子に読んでもらって感想を聞こうとしたら、机の上に置いてあった原稿を既に読んでいたらしく、即座に厳しい指摘が返ってきた。
「あなたの原稿を読んで、書いてあることが理解できる人はあなたと私とお母さんだけよ! 原稿読む前に事実をよーく知ってますからね。こりゃだめだわ、書き直しね」
悪戦苦闘の末、三か月以上かかって一応最後まで書き上げた。
だが、それから先がまた大変だった。地元仙台の出版社をはじめ、上京の折に都内の出版社を何軒も訪ね歩いたが、どこも本にしてくれると言ってくれない。ちらっと原稿を見て、同じことを言う。
「興味深いテーマだと思いますが、うちよりよその版元を当たったほうがいいでしょう」
結局、著者が出版費用を負担するタイプの出版社以外には色よい返事をもらえなかった。そのうちの一社に見積もりを送ってもらったが、手が届かない金額で、あきらめざるを得なかった。いささかがっかりして、勢津子にも出版は取りやめたと伝えておいた。
ところが、二、三週間の後、その版元の編集者から電話が入った。法律系の専門部署にいるという無愛想な男だった。用件は、預かっている原稿の細部について聴き取りをしたい、とのことだ。はてな、俺の原稿はとっくに送り返してもらい、お蔵入りしているが…。
なんのことかよくわからないうちに、その編集者は東京からやって来た。細かい記述についてあれこれしつこく質問を繰り返す。そして、答えをせっせと原稿のコピーに赤く書き込んでいく。俺はまったく心あたりがない成り行きに、不安に包まれた。
途中で質問をさえぎり、恐る恐るこちらの疑問をぶつけてみた。彼のほうも驚いて、「はあっ?」と絶句したが、勢津子がお金を払って出版契約を結んだ経緯を呆れ顔で説明してくれた。まったく寝耳に水の話だ。そんなお金をどこで都合したのだろうか。
その夜、疲れた様子で帰宅した勢津子に事情を尋ねた。しかし、なるべく穏やかに「ありがとう」から始めるべきなのに、脈絡もなく契約金の出所から問いかけてしまった。彼女は叱責されるのかと勘違いしたらしい。ぼそっと、「ああ、その件ね」と小声で言いながら、着替えのためにそそくさと二階への階段を上がりかけた。その途中で思い直したのか、いぶかしげに見上げる俺にニコッと笑いかけた。初めて会った日のような笑顔だった。
「お金はね、タワービルから飛び降りたつもりで私が払いました。出したい本は出せばいいわよ! お母さんが生きているうちにね! 由太郎さんもきっと喜ぶわ!」
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待ちに待った誠一の本は、平成二十一年の年明けに刊行され、仙台市内の本屋にも並びました。彼が、無愛想なやつだと言っていた編集者は意外にも親切で丁寧、きちんとした仕上がりの本になっていました。誠一の喜びはひとしお、私もまるで我が事のようにうれしかったです。言いたいことは全部書いてありました。ふたりの老後のために私がこつこつ蓄えていた預金は本に化けましたが、何も悔いはありません。
仏前に報告する一方、介護施設に入っている九十九歳のスミに本の内容を読み聞かせるため、誠一は何度もその枕元に出かけていきました。スミは少し話がわかったとみえ、顔に表情が戻り、胸元に置かれた自分用の本を何度も撫でていたそうです。
本が出版されたことで、誠一の由太郎に関する活動は完結したと私は思っていました。
ところが、ところがです。春先になると、誠一は今度は本のあらすじ、つまり事件のあらましを書いたビラを大量に作り、東京霞ヶ関の東京地裁・高裁前をはじめ、可能な限り全国の裁判所前で撒くと言い出したのです。どうやら十万枚も印刷したようです。いったんこうと決めたら、スミと同様、何を言っても聞く耳を持たない人です。
そうこうしているうちに、自分のボックス型軽トラックに布団や簡単な炊事道具を積み込んで、東京へ向かいました。七十歳に手が届く年齢、しかも足が不自由。私の心配などお構いなしに出かけて行ってしまったのです。
半月ほどが過ぎ、帰ってきた誠一の話にまた驚かせられました。
駐車料金が要らず、駐停車禁止に指定されていない場所を捜したら、東京港の埠頭ぐらいしかなかった。そこで、晴海埠頭の一画に軽トラを停め、仮泊しては裁判所前に通った、というのです。警視庁のパトカーが夜中にパトロールで回って来て何回も職務質問されたが、そのうちの何人かの警官とは顔見知りになってしまったなどと笑ってもいました。
仙台でも、地裁・高裁前や市内の目抜き通りで、誠一は盛んにビラを撒きました。街頭でのビラ撒きというのは、なかなか大変なようです。無視する人がほとんどで、受け取ってくれる人はとても少ない。いったん手に取ってくれても、すぐに丸めて投げ捨てられる。その塵芥と化したビラを拾い歩くのは悲しいということでした。
私はこのビラ撒きというのだけは嫌でした。性にあわないというか、とにかくやりたくないので、一度も手伝ったことはないのです。誠一も、自分が勝手に始めたこともあってか、一緒にビラを配布してくれとは一度も言いませんでした。
(つづく、原文縦書き、添付画像はfrom free、 本文とは関係ありません。オリジナルには添付なし。)