伊佐子のPetit Diary

何についても何の素養もない伊佐子の手前勝手な言いたい放題

歯痛

2016年06月22日 | 日常生活・つぶやき
歯が痛かったのだ。

急に痛み出した。
晩、ご飯を食べた後に猛烈に痛みを感じた。
そのうちうがいをするたび、
七転八倒の痛みを感じるようになった。
もう我慢できない。虫歯だ、
この年になって…今頃…悲しい…
でも限界だ。
勇気を出して歯医者へ行かねば。


歯医者に電話したら予約制なので、
2日間待つことになった。
その2日間、
家にあった痛み止めを飲んで凌ぐことにしたが、
そのつらさと来たら。

歯医者へ行ったらレントゲンを撮ってくれ、
ガリガリと削られた。
その椅子に横たわるだけで、
精神的な疲労感のものすごさが…。
この年になって。
もう何十年と歯医者にはご無沙汰だったのに…。


ヨレヨレになって帰って来ても、
ご飯は作らなければならないという苦痛。
当分歯医者に通わなければならないが、
このどっと来る疲労感にまいってしまった。
心療内科にはまだ行き、
家にいるキチガイの医者にもついていかねばならない。
もうぼろぼろ。
やっぱり何というヘタレ。

いやこれからは、
もうこういうこととの戦いになっていくんだろう。
もはや若くない。
どんどんと肉体は衰えていく、
そしてさまざまなトラブルを抱える身になっていく。
いつ何時何が起こるか分からない。

いつの間にか市川雷蔵の享年を超え、
夏目漱石の享年を超え、キヨシローの享年も超えてしまった。
何とかここまで持ちこたえて来た。
もうじゅうぶんではあるのだがな。
でもそれでもまだ生きられるなら生かしてもらおう。
未来があるというのならな。




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ヘルムート、その前に殿利息でござる

2016年06月17日 | 映画
ちょっと現実逃避して、
ちょうどヴィスコンティの話題になったこともあり、
そっち方面に興味が再び再燃して、
ヴィスコンティ関連方面へ遊びに行っていた。
当然のようにヘルムート・バーガー熱も再燃。
もう40年以上も前になるのねー。
うーん。そんな経つかー。


でももう私の心はあの40年前の小娘時代に戻ってしまって、
戻ってこれないわ。
あの頃に浸ってしまってるわー。

というわけで、
ヘルムート・バーガーで検索をかけたら、結構出て来るの。
ヘルムートのファンって、
日本で私だけかと思ってたら、結構いらっしゃったのね。
今でも。

彼のミクシイ・コミュまで発見。
ミクシイって、今でも機能してたんだ。
勢いで登録してしまった。
まあ、例によって読むだけだけれど。

早速何通かメールが来たんだけれど、
携帯でないとお返事できないとか。
ケータイもスマホも持ってない私には連絡手段がないわ。
残念。

ミクシイの方たちは、
私以上のヘル様(と呼ぶらしい)ファンだった。
太刀打ちできない。すごいのよ。



ヘルムートってこんな人。
彼の一番いい写真ってどれだろう。
適当にネットに落ちてるのを拾ってきたけど、
こんなことしたらいけないのかな??


ところで、ブログなんかだと、
「雨のエトランゼ」はテレビの深夜放送で初めて見た、
などと言う記述もちらほら。

リアルタイムで経験している私は、
これはあのリアタイでの狂乱?を知っている身として、
なんとか記録に残しておかねば、
という無意味な義務感にかられ、
これからは70年代に浸りきろう、と決心した。

映画についてはいろいろブログでもサイトでも書いてきたが、
70年代のはほとんど何も書いてない。
でもやっぱり思い出として、記録として残しておきたいもんね。


ただその前に、ごく最近(何年ぶりかで)映画館で見た、
まっさらな映画について何か書いておくのが順番だ。

「殿、利息でござる」
これ、見たんだけどね。

どこでどう間違えたか。
ちゃんと新聞にのってる時間通りに行って、
受付でもちゃんと時間を確認し、
お姉さんに何階かも確認し、そして行ったつもりだったんだが、
映画はもう始まっていた。

多分階を間違えたんだろう。良く分からない。
どうしようとしばらく躊躇したけど、
とにかくシアターの中へ入った。
やっぱりもう始まっていて、
今さらどうしようもないと思い、途中から見ることにした。

前の方はガラガラだったんで、
空いている席に適当に座った。
本当はこんなことはいけないんだろうけれど、
指定された席が見当たらないのでしようがない。
これだからシネコンっていやなのよ。

始まって、20分か30分くらい経ってたかなと思う。
終わってから、
見損ねた初めの部分を改めて見ようかと思いもしたが、
なんか面倒くさくなって、帰って来てしまった。

そんなわけで、全部見てないから、
「殿利息」の感想を書くも何も、書く資格がない。
大体のお話は頭に入れていたけれど、
映像で発端を見てないから、話の筋が見えない。

羽生は出て来たけど、あれこれと書くほどの出番もない。
あっという間だ。
羽生ファンはまさに殿上人、浮世離れした感じー、
とか言ってるけれど、そんな感想を感じる暇もなかった。
ただ「わしも少しつつしまねばならぬ」というセリフは良かったけどねー。

俳優はみんな良かった。
それぞれしどころがあって、皆いい芝居をしていた。
特に松田龍平が良かったかな。

というわけで、
大変お粗末な「殿利息でござる」の感想になってしまった。

これで心おきなくタイムスリップするわ




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羽生結弦と京都

2016年06月14日 | 羽生結弦
羽生結弦が、ボストンワールド直後、
ホテルの一室でボストンの夕暮れの街並みを見ながら
テレビインタビューに答えていた。

冒頭で、ボストンの町について聞かれて、
力なく、ヨーロッパ的というか、風情がありますよね…
という風なことを言ってて、そのあと、
京都みたいな規制でもあるんですかね、と言っていた。

羽生が京都に景観規制があることを知っていて驚いた。
それとも誰でも知ってることなのかな?
私は、羽生の口から京都の名前が出てきたことが嬉しかったのだけれど。


羽生くん、鋭いね。
ボストンと京都は姉妹都市なんです。

姉妹都市提携されたのは1959年。
京都ではよくボストン美術館展を開いていたけれど、
姉妹都市だからかなと思ってた。

京都はほかにもパリ、フィレンツェ、ケルン、
キエフ、プラハなどと姉妹都市になってる。
結構いい町と姉妹都市になってるでしょ。

パリが一番古くて提携が1958年、
次にボストンの59年、
フィレンツェは意外と新しくて1965年。

フィレンツェと姉妹提携した時、
まだ京都はフィレンツェとタメを張れるくらい、
キレイでおっとりとした町だった。
学校で屋上に上り、そこから見える風景を写生した。
見渡す限り屋根瓦で、先生は、
その屋根の瓦が一枚一枚、違う色だから、
それをよく観察するようになどと言っていた。
当時は町家ばかりだったんだ。


でも、京都は新しいものも欲しかった。
ローソンもマクドもドラッグストアも、スタバも欲しかった。
高度経済成長期、
町家は古くさくて不便だからとどんどん壊していった。
そしてその結果、京都は今のようになってしまった…。

景観規制は、京都にはある。

高い建物を建てたらいけない。
だから京都には高層ビルというものがない。
高層ビルがない、ということは、
京都が誇れる数少ないもののうちのひとつだ。

少し高いビルが建つ、という話があると大騒ぎになる。
今のホテルニューオータニ京都だったかな…、
それが出来る時は坊さんたちまで巻き込んだ、大論争になった。

看板規制をやる、と言い出した時にも大騒ぎになった。
京都の看板屋さんがいっせいに騒ぎ出した。
俺たちの仕事がなくなる!

今の繁華街で、看板に規制をかけてどうなるというのか。
でも、規制は実行された。

祇園祭のテレビ中継の時、四条通を通る山鉾の後ろに、
見苦しい看板が映らなくなったことだけは、
規制されてよかったなと思う点だ。


ところで羽生くんは京都に来たことがあったのかな。
…そうだ、晴明神社にお参りに来てたんだな。
テレビの取材だ。
何となく見たことがある。

だけど晴明神社はとても新しくて、
別にどうということもない、普通の町の神社なんだ。
ただ五芒星だけがやたらにそこここにあって、
それだけが、ああそうなのかなと思うくらいだ。
修学旅行生には人気があって、にぎわっているけれど。


絵馬をかける場所があり、
羽生くんはそこに絵馬を奉納したのだろうか。

晴明神社は上京区だったかな。
http://isabea.web.fc2.com/walk2/seimei/seimei.htm


どうせ取材だから、
行ったのはそこだけの日帰り旅行だったんだろう。

出来れば、もう少し足を延ばして、
龍安寺とか仁和寺なんかを見て欲しかった。
必ず感じるものはあったと思うよ。
そうして、いろいろいいものを見て、
吸収して、豊かな感性を育んでほしい、そう思った。

いいものに触れ、いわゆる本物をたくさん見れば、
やはり心は豊かになると思うよ。
まだ若いんだから。

そういう時期に価値観が固定され、
視野が狭くなってしまった私みたいなのもいるけども。

羽生を見ていると、ある俳優を思い出すな。
野心の固まりで伸し上がって行ったあの・・・。
それはまあ、いずれとして、
とにかく、彼にはまだまだ興味は尽きてない。
興味は募るいっぽうだ。




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鷹山復興なるか

2016年06月11日 | 祇園祭
祇園祭、
休み山だった鷹山の復興が検討されているという
ニュースが入って来た。

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20160607000141

祇園祭の山鉾は現在33基、
2年ほど前に大船鉾が再建されたので、その数になった。

休み山というのは、様々な理由で山の骨格が失われ、
巡行には参加できないが、
懸想品や、少しの資料などは残されている。
それを宵山期間中、
会所飾りとして公開している山(山車)のことで、
大船鉾を含めて以前は3つあったが、
現在は布袋山と鷹山の二つ。

それぞれ宵山期間中に、三条室町(鷹山)、
蛸薬師新町(布袋山)の会所で、
御神体人形などが公開されていた。

私は三条室町の鷹山の会所には
残念ながら行ったことがないのだけれど、
3体残っている御神体人形は有名で、
山の名前になっている
鷹にちなんだ鷹匠の人形なんかが残っていたのだと思う。

この鷹山が復興に向けて動き出した。
鷹山は後祭の曳山で、
人を乗せた大型の山だったというような説明を聞いたことがある。

記事ではどの時代のどの形のものを復元するか
検討するということだが、長い歴史の中で、
山自体がその時代でいろいろ形態を変えて存続して来たからだろう。
鷹山は1826年の大雨で被害に遭い、
以降巡行に参加していないという。

戦後復興した山鉾は、
大概、禁門の変の時に被災して、
その時にだいぶ数が減ったが、
戦後、徐々に復興されていった。

菊水鉾なども戦後の鉾だ。

鷹山はそれ以前に消失していたようで、
随分長い間再興されなかったが、
それでも会所飾りで参加していたのは、
御神体人形が残っていたからだろう。

山鉾が現在のような形になったのは、多分室町時代。
狩野永徳の「洛中洛外図屏風」に、
今とほとんど変わらない山鉾の姿が描かれているから、
描かれたとされている1574年(うろ覚え)には、
すでに現在の形になっていたといえる。

その最盛期には55基くらいの山鉾が参加していたという話だから、
ものすごい数の山鉾がかつては京の町を練り歩いていたことになる。
だけど、それでも今でも33基が現役で動いている、
のはすごいことじゃないだろうか。


鷹山復興で、特に私が感慨深いのが、皆川月華の存在だ。
彼は京都の染色作家であった。
祇園祭にもとても貢献し、
彼の作品の見送りなどは現在も使われている。
菊水鉾や月鉾の見送りなどがそうだ。
皆川月華の名前は、
祇園祭には切っても切り離せない名前となっている。

http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9809.html


以前、祇園祭関係の展示を博物館などに見に行った時、
その皆川月華が、鷹山の復興を願って見送りを作り、
寄贈した作品というのを見たような気がする。
気がするだけで、見なかったかもしれない。

でも、ただ皆川月華が鷹山の復興を願い、
自分の作品を寄贈した、
というエピソードは強烈に覚えていて、
せっかく立派な見送りがあるのだから、
いつかこの作品が日の目を見て、鷹山が復興され、
その山の後ろに月華の見送りが飾られる日がくればいいのに、
と切に願ったのは確かだ。

今回、鷹山復興の検討を聞き、
真っ先に思ったのが、この月華の見送りだった。
何十年も前に制作された、その月華の作品が、
もしかしたら本当に、それを飾った山が、
京都の町を練り歩く日が、来るかもしれない。
そんな日が、もしかしたら来るのかもしれない。
そう思うだけで、胸がいっぱいになった。


祇園祭の発展を願い、多大な貢献をされ、
そして鷹山に見送りを贈られた月華氏。
その思いが、何十年を経た今、現実になるかもしれない。

あのころ、この見送りがありながらそれが生かされない、
その切歯扼腕した思いが、何とも残念な思いが、
絶対に鷹山なんか、復興しないだろうと思っていたので、
…今回のニュースは、涙が出た。




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漱石と歩く京都

2016年06月08日 | 夏目漱石
今年は漱石没後100年とかいうのを聞いた。

京都新聞に、時々(月に二回ほど)
「漱石と歩く京都」という文章が連載されている。

直近の記事には14回目とあるから、
かなり長く連載されている。
この文章(エッセイ)を、
漱石好きとして読んでいたのだが、とにかく難しくて、
やたらに長いのでどうしても目が滑ってしまう。
京都新聞のサイトにも行ってみたが、
こういうのは掲載されていない。
切り抜きとして残してもいないので、
直近の「北野天満宮」編をたよりにのみ書いてみる。


著者は小川後楽という人で、
ウィキで調べたら煎茶人とあり、
京都造形芸術大学の教授でもあるということだった。
副題に「-煎茶との出会い」とあるから、
やはり煎茶の視点から漱石の京都滞在を描いているようだ。

グーグルで調べたら、漱石は京都に4回訪ねているという。
そのうち2回目に来た時の様子をもとに「虞美人草」を書いた。
「虞美人草」・・・読んだけど、全部忘れている…。

随筆「京に着ける夕」はこの2回目の入洛時の時のもので、
京都に初めて来た時は子規と一緒だった、
その子規は死んだ、干からびて死んだ、云々と、
相変わらずツンデレ文で子規のことをそっけなく書いているが、
十何年経ってもその死んだ子規のことを忘れられなくて、
一緒に京都に来た時のことを思い出す。
素っ気なく見えても漱石にとって、
子規はよほど大切な存在だったんだなとかえって考えさせる文章だ。


「京に着ける夕」は本当に短い文章で、
布団で寝ていても寒い寒いとかそんなことばかり書いてある。
京都のこういうところを訪ね歩いた、
というようなことは一切書いてない。
だから、漱石にとって京都はどんなところだったのだろう、
とは思ったものの、大したところではなかったんだろう、
と思ったりしていた。


だけども、小川氏の新聞の連載には、
例えば漱石が北野天神を訪ねる時に、売茶翁の名を出し、
漱石はその売茶翁の何とかという本を精読していたと書いている。

漱石は、京都を訪れる時、何も物見遊山ばかりでなくて、
彼の持っている深い教養をもとに、
京都に残っている日本文化に出来る限り近づき、
触れようとしていた…
というようなことが小川氏の連載の趣旨なのかなと思った。


検索をかけてみると、
「漱石の京都」という本も発表されていることが分かった。

漱石の京都 [ 水川隆夫 ]
価格:1944円(税込、送料無料)



売り切れてるけど…

漱石にとって、京都はかなり重要な土地であったことが、
何とはなく分かって来た。

ただ、小川氏の連載で感じたのは、
漱石の学問と教養の驚くべき深さだ。

否やっぱり漱石の本を読めば、
漢文崩れの美文などが随所に出て来るし、
漢学などの素養は大変あった人だというのは、
何となく分かってはいた。
明治の人だから、当時の本屋で売っている本などは、
今と違ってまだ明治維新の記憶も新しく、
江戸時代の教養本などが主流であっただろう。


漱石は丸善に通い、
つけで沢山の本を毎月買い漁っていたらしいし、
また学生にものを教える教授の立場であったから、
教養は自分の仕事として
身につけておかなければならない仕事道具であっただろう。
そう考えれば漱石が漢学に精通していたり、
売茶翁に精通していたりするのも不思議なことでは少しもない。

同時に同時代の人たちの小説も読んでいただろうし、
弟子たちの拙い小説もどきも読んでやり、
熱心にアドバイスなどもしていた。

大量の手紙を書き、手紙で友人や弟子たちと交流していた。
自分の小説を書きながら
こういうこともこなすんだから忙しかっただろう、
そら神経症(胃痛?)にもなるわな、と。

漱石については私は全然詳しくもなんともなかったんだなと、
ちょっとがっくり来た。




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