静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

クレオパトラの真珠(5) ハムレットと真珠

2009-12-18 11:12:21 | 日記
 ここからは蛇足です。
 プリニウスの『博物誌』は西洋ではよく読まれたので、この話は広く伝わりました。そこで誰でもが考えたことは、果たして真珠が酢に溶けるのかということでした。プリニウスはただこのように述べただけです。「召使は彼女の前にたった一つの酢の入った容器を置いた。その酢の強くて激しい性質は真珠を溶かすことができるものであった。・・・彼女は一つの耳輪を外して、その真珠を酢の中に落とした。そして真珠が溶けてしまうと一気に飲み干した」。

 容器の中の液体はアケトゥム(acetum)とあります。アケトゥムはどう考えても酢です。他に「皮肉を言う」の皮肉という意味もありますが、皮肉を盃に入れて飲むことはできないでしょう。従来ずっと酢であると解釈されてきました。当然です。だが同時にいろいろな疑問も出されてきました。典型的な一例は『西洋事物起源』の著者ヨハン・ベックマンの考えです。 
 ベックマンによると、真珠の石灰質部分を覆っているエナメルは弱酸に容易には溶けないから、クレオパトラは真珠を砕いて粉末にしてから溶かし、さらに水で薄めて飲めるようにしたのではないかといいます。だがこの説はとても容認できません。プリニウスは、砕いたなどとは書いていないし、第一、砕くなどという無粋なことを、気取り屋のクレオパトラがアントニウスの前で演ずるはずはないですか。やはりその華麗な指先から大粒の輝く真珠がポトリと盃の中に落とされなければ、この場は絵にならないのです。

 一方、『エピソード科学史』を書いたサトリックはその著の中で二・三の見解をのべています。その一つによると、クレオパトラがあらかじめ酢のなかに何か真珠を溶かす物質を入れていたのではないかというのです。しかしこれも納得のいくような説明にはなっていません。真珠を溶かすような物質で人間の胃に害のないものが果たしてあるでしょうか。
 もう一つの見解は、白亜で贋の真珠を作ってそれでごまかしたというもの。これについてはサトリック自身、彼女の品性に合わないといって否定しています。
 三つ目のものは、真珠が溶けたふりをして丸ごと飲んでしまったとう説です。ありそうな話ですが、これまたクレオパトラの品性に合わないし、第一プリニウスははっきり溶かしてと言っています。これはプリニウスが伝えた話ですから、それを疑ったら別の話になってしまいます。

 真珠が酢に溶けるということは当時広く信じられていたようです。ウィトゥルウィウス(前一世紀のローマの建築家)もその著『建築書』のなかで真珠が酢で溶けると述べていますし、スエトニウス(『皇帝伝』の著者)は、皇帝カリグラが非常に高価な真珠を酢に溶かして飲み、会食者の前に黄金製のパンとお菜を供したと書いています。黄金製のパンとお菜とはなんでしょうか、ちょっと首を傾げたくなりますね。

 プリニウス自身もクレオパトラ以前に酢に真珠を溶かして飲んだ人物のことを書いています。それによると、キケロ時代の著名な悲劇訳者クロウディウス・アエソポスの息子クロディウスは、父親から莫大な遺産を相続しましたが、彼は賭けなどというものではなく、実際に自分の舌を試して見たく真珠を酢に溶かて飲んだというのです。ところが驚くほど美味だったので、客たちにそれぞれ立派な真珠を与えて飲ましたということです。この息子も役者だったようですが、プリニウスは、この一役者に過ぎないクロディウスの振舞いに較べられれば、三頭政治の一員であったアントニウスも大して自慢できないだろうと冷やかしています。
 ついでに言うと、父親のクロディウス・アエソポスのほうは、歌ったりしゃべったりする鳥を一羽六千セステルティウスという大金で買い入れ、それを食べたということです。プリニウスは、真珠を飲んだ息子にふさわしい父親で、両者で愚劣さを競っているが、その愚劣さの優劣などを決めたくはないと怒っています。

 ちょっと時代は飛びますが、一六世紀イギリスの大貴族で大金持ち、グレッシャムの法則で有名なサー・トーマス・グレッシャムは、女王の前でこの上なく見事な真珠を粉々に砕いて自分のぶどう酒にいれ、女王の健康を祝して乾杯したといいます(『エピソード科学史』から)。もっとも、あまりあてにはなりませんが。

 こんなわけで、いろいろ珍説も生まれます。以下の説(ある有名な百科辞典)はなかなかユーモアがあっておもしろいと思います。

 「クレオパトラがアントニウスを迎えた宴会で真珠をブドウ酒に投げ込んで乾杯したという伝説があるが、ブドウ酒では真珠は溶けないので、つくり話だと見られている。強い酢につけると溶けることはローマ時代から知られていたので、真珠を溶かした酢をうすめて飲んだのかも知れない」。
 
 ここでは「伝説」の出所がプリニウスとは書いていません。どこか私たちの知らない出典があるのかもしれません。それにしてもユニークな見解です。
 近年実験してみた人もいるようです。それによると、長時間酢につければいくらか柔らかくなるが、とても溶けるということにはならないそうです。そうでしょうね、多分。そりゃ私だってお金があれば試してみたいという気になるかもしれません。しかしプリニウスは、愚かなことは止めておけ、というでしょうね。
 
 筆者、つまり私の見解は、「わからない」「わかる必要はない」です。
 最後に、ハムレットの最後についてです。小津二郎氏の名訳をお借りします。

 王 葡萄酒の盃をテーブルの上に置け。もしハムレットが一回目か二回目に勝てば、あるいは、三回目に雪辱をとげたなら、全城壁から祝砲を放ち、王はハムレットの健闘を祈って祝杯をあげよう。盃には真珠を投ずることにする。四代にわたるデンマークの王冠を飾った真珠より見事なものだぞ。盃をくれ。そうして太鼓をラッパに伝え、ラッパを外なる大砲に伝え、大砲を天に向かって撃ち上げ、地をして天に呼応せしめて、「今こそ王がハムレットのために祝杯を」と叫ばしめるのだ。

 王は盃に毒を仕込んでいましたが、ハムレットより先に王妃ガートルードがそれを飲み息絶えます。これまた毒を塗った剣で傷つけられていたハムレットはそれを見て、自分も母親の飲み残した盃を仰いで後を追います。

 シェークスピアはプリニウスの愛読者でした。彼はしばしば『博物誌』からヒントを得ていました。そのことはウェザーレッドが適切に指摘していたところです(『古代へのいざない プリニウスの博物誌』)。シェークスピアが読んだのは一六〇一年出版のフィルモン・ホランドによる英訳本だと思います。小津二郎氏は『ハムレット』は一六〇一年か二年の創作だろうと推測しています。ウェザーレッドは〇一年、ちょうどホランド訳が出た年といっています。際どいところですが、私はシェークスピアがこの書を読んでいたと思いたいです。まだ読んでいないとしても、この話は有名だから耳に入っていた可能性は十分にあります。それに、ラテン語のテキストならばいくらでもあったのですから。
 『ハムレット』で、酢に真珠を投げ入れたのでは絵になりません。ぶどう酒でなければ芝居にならないでしょう。シェークスピアにとっては、なんとしてもぶどう酒でなければならなかったのです。ハムレットの最後はそうでならなければならなかったのです。
 (「クレオパトラの真珠」了)

 


 

クレオパトラの真珠(4) クレオパトラと真珠

2009-12-16 15:49:04 | 日記
 クレオパトラはエジプト・プトレマイオス朝最後の王となる運命を担っていました。はじめカエサルに自身を売り込んでその愛を獲得し、子までもうけました。だがカエサルは暗殺され、彼女は、再びローマの実力者に頼るほかにないと考えたのでしょう。最後の力を振り絞って王国を維持しようと必死になっていました。ほかに道はあったかも知れないのに・・・政治や経済の仕組みを抜本的に変えるとか。
 だが彼女には無理だったのでしょう。結局彼女はローマの将軍アントニウスを頼りにすることにしました。そして、アントニウスと生活を共にしながらも、あるときは彼のご機嫌をとり、あるときは機略を案じることに余念がありませんでした。

 アクティウムでのローマ軍との戦いを迎えようとしていた頃、用心深いアントニウスは毒見をしない食事は摂ろうとしませんでした。そんな折、クレオパトラはアントニウスの頭にいただく花輪の端に毒を仕かけさせました。宴たけなわになるや、彼女は互いに自分の花輪を飲もうと持ちかけました。アントニウスはそこまでは疑わずに、自分の花輪の端のほうを盃に入れて飲もうとしました。
 するとクレオパトラはアントニウスの手を押さえ、「私はあなたに頼りきっている身なのに、あなたは私を用心して毒見ばかりしていらっしゃる。どういうことですか・・・」と皮肉を言います。そして囚人を連れてこさせ、アントニウスが手にした盃を飲ませたところ、囚人はたちどころに死んでしまいました。
 これもプリニウスの伝える話ですが、滅亡を予感せずにはおれない二人が、互いに疑心暗鬼になっている様子が伺えるちょっとしたエピソードです。

 そんなある日、クレオパトラはアントニウスに、一千万セステルティウスの費用をかけた宴会を開いて見せましょうと言い出しました。しかしアントニウスは信じません。そこで賭けることになりました。さてその当日、宴会がすすんでもそれらしい料理はでてきません。いつもの料理と一向に変わらないではないかと、アントニウスが賭けに勝った気分で嗤うと、彼女は召使に酢の入った器を持ってこさせました。
 不思議そうに見守るアントニウスの前で、彼女は自分の耳につけていた真珠のうち一つをはずして盃の中に落とし、それが溶けると一気に飲み干してしまったのです。プリニウスが、全歴史においてもっとも大きかった二つの真珠と言っている、そのうちの一つでした。
 クレオパトラが続いてもう一つの真珠も酢の中に投げ込もうとすると、この賭けの審判役を仰せつかっていたルキウス・プランクスがあわててそれを押しとどめ、「賭けはアントニウスの負け」と宣言しました。

 この有名な逸話を伝えてくれたのもプリニウスですが、ここで彼は、審判が「クレオパトラの勝ち」といわずに「アントニウスの負け」と宣告したことは不吉な予言であったと述べています。
 この不吉な予言というのは、いうまでもなくアクティウムの海戦でのアントニウスの敗北を指しています。後世、これを「クレオパトラの勝ち」としている書もありますが、これではプリニウスが伝えようとした微妙なニュアンスが生きません。

 危うく助かったいま一つの真珠は、クレオパトラが逮捕されたとき取り上げられ、ローマのパンテオンのウェヌス神の両耳を飾るために二つに割られたとプリニウスは後日談を残しています。エジプトはローマの属領となり、長くローマ帝国に穀物やその他の富を供給することになります。

 プリニウスは、ポンペイウスの最後、マルクス・ロリウスとロリア・パウリナの最後については述べていますが、クレオパトラの最後についてはなんら触れていません。必要ないと考えたのでしょう。クレオパトラは自ら毒蛇に咬ませて死んだと伝えられますが、それも事実かどうか分かりません。

 さてこの三つの話のうち、ポンペイウスについては、その凱旋行進を見た人は恐らく数十万人に及んだでしょう。ロリア・パウリナと一緒に結婚式場にいた人はそんなに多くないにしても、プリニウス自身が見ています。それに較べるとクレオパトラの場合、根拠が薄いのです。宴会場には大勢の人が参列していたかもしれませんが、クレオパトラの盃の中を覗くことが出来たのはアントニウスと審判のルキウス・プランクスくらいでしょう。それも、ちゃんと確かめたかどうかは分かりません。プリニウスもこの話の出所を示していません。おそらく言い伝えをそのまま書いたのだと思います。

 プリニウスは上述のように、ポンペイウスやロリア・パウリナ、その父を痛烈に批判しました。しかしクレオパトラについては直接批判がましいことは何も言っていません。前の三人がローマ人だったのに対し、クレオパトラは異邦人です。しかもローマに支配される運命にあった悲運な国の女王です。プリニウスは一般のローマ人と同じように、クレオパトラには好意をもっていなかったし、クレオパトラにとりこまれたアントニウスを苦々しくも思っていたでしょう。だが彼は、感情を交えず淡々と語っているように見えます。しかし、ローマ社会の奢侈や浪費のなかで愉悦を楽しんでいるローマの将来に危惧の念を抱き、その傾向にしばしば警告を発している彼の心情からして、この二人の生きざまにも厳しい批判の目があったことは疑い得ません。

 プリニウスは皇帝ウェスパシアヌスとその長男で共同統治者であるティトゥスの諮問委員であったし地中海艦隊の提督でもありました。『博物誌』はティトゥスに献呈されています。多忙なティトゥスが読み易いように、当時としては画期的なことですが目次を、それもとても詳しい目次をつけました。ティトゥスがこの真珠にまつわる逸話を読んだ可能性は十分あります。
 前述のように、彼には、奢侈や浪費、しかも他国・属領からの収奪による個人的奢侈、それらは我慢ならないことだったのです。この書には、それらへの批判がいたるところに見受けられます。この真珠にまつわる説話はその一つに過ぎません。 
 

クレオパトラの真珠(3) ロリア・パウリナと真珠

2009-12-15 16:14:52 | 日記
 ポンペイウスの話題のすぐ後でプリニウスは、ロリア・パウリナのことを書いています。
 ガイウス・カエサル(第三代皇帝カリグラ)の三番目の妻であったロリア・パウリナが、あるありふれた結婚披露宴で、エメラルドと真珠を交互に織り込んだ衣装をまとい、頭、髪、耳、首、指にいたるまで飾り立てていましたが、その総額は四千万セステルティウスにも及んだといいます。その彼女をプリニウスは見たと述べています。コムムという田舎からローマに学業のために出てきたプリニウスが、まだ十六・七歳のころです。よほど印象に残ったのでしょう、晩年『博物誌』でそれを話題にしました。

 ロリア・パウリナは数奇な運命をたどった女性です。執政官級の人マルクス・ロリウスの娘ですが、最初ガイウス・メンミウスという人物と結婚しました。だが、彼女の祖母が絶世の美女であったと聞いたカリグラによって,いやおうなしにメンミュウスと離婚させられて、カリグラの妻、つまり妃になりました。
 この強引なカリグラは、最初の妻を亡くし、その次に自分の妹ドルシラと二度目の正妻としましたが、そのドルシラにも先立たれ、ロリアを三度目の妻としたのです。それが紀元三八年、だがロリアは翌年早くも離婚させられました。

 四一年、カリグラは暗殺されます。そのあと帝位についたクラウディウスの三度目の妻メッサリナは、放蕩と不倫のせいで殺され、ロリア・パウリナはそのあとの妻の有力候補の一人にあげられました。しかし、妃の座はゲルマニクス(第二代皇帝の養子)の娘ユリア・アグリッピナが手に入れてしまいます。元首の妻の座を争ったことを根にもったアグリッピナは、策略によってロリアを告発させます。ロリアは国家に対する危険な計画を抱いたという罪を着せられ、持っていた莫大な財産を奪われたうえ、イタリア本土から追放されます。さらに追い討ちがかけられ、自殺を強要されてこの世を去りました。その経過はタキトゥスが『年代記』で語っています。
 人間の歴史を書いたタキトゥスとは違い、プリニウスの関心は彼女の宝物、財産の性格とその社会的意味でした。

 ロリアが四千万セステルティウスもする宝石や真珠を着飾ったのは、少しの間でも人目を引いて、自分がそれらのものに権利があることを記録的に証明したかったのだとプリニウスは推測しています。
 だがその財産は皇帝からの豪華な贈り物というわけではなく、実は父から引き継いだ財産だったというのです。その父というのは先にも述べたマルクス・ロリウスです。この人は、アウグストゥスの忠実で有能な支援者であったということです。ガリア戦線で大敗するという失敗もあったが、東方でガイウス・カイサル(カリグラ)の同僚および指導者となり、それがティベリウス(第二代皇帝)の敵意を招いたともいわれています。いろいろの経過の後、マルクス・ロリウスはカリグラによって友人名簿から削られ、毒を仰いで死に追いやられたことはプリニウスの記述によって知られています。

 プリニウスは、マルクス・ロリウスが全東方の王たちからの贈り物を受けて自らを汚辱したと言っています。贈り物などではなく、収奪だったのでしょう。プリニウスは、それが毒を強要された原因であったことを示唆しています。
 その彼の美しい娘が四千万セステルティウスを身に纏って、照明のもとで見世物になろうとは! とプリニウスの舌鋒には鋭いものがあります。そして彼女は、父と同じように毒を仰いで死に追いやられたのでした。

クレオパトラの真珠(2) ポンペイウスと真珠

2009-12-14 16:01:23 | 日記
 真珠の一般的な説明のあとに、真珠にまつわる逸話が三つでてきます。その最初がポンペイウスと真珠の話です。
 プリニウスは、「自然の壮麗さは、宝石という、もっとも小さい存在の中に凝縮されている」という名言? を残していますが、ローマで最初にその宝石の収集を始めたのはスラの養子スカウルスでした。だが、ローマ社会に真珠や宝石を流行させたのはポンペイウスだといいます。

 ポンペイウスというのは、言うまでもなく、地中海の海賊を退治し、ポントスのミトリダテス王を破り、シリアやフェニキアなどの東方領土を拡大し、第一回三頭政治を行ったあのポンペイウスです。今日、ポンペイウスはカエサルに較べてまるで人気はありません。カエサルと並ぶ武将だったのですが。だがプリニウスはポンペイウスを「ヘラクレイトス(ギリシア神話最大の英雄)やリーベリ・パテル(生産と豊穣の神)の輝かしい業績にも比すべき大ポンペイウスの勝利とすべての偉業の全記録について述べることは、彼一個人の名誉というよりも、ローマ帝国の名誉に関することでる」と極めて高い評価を与えています。対照的に、彼はカエサルの戦功を全くといっていいほど評価していません。むしろ批判的です。

 このようにポンペイウスの「偉業」を称えたプリニウスですが、その人間性についてはまた極めて辛らつな批判を浴びせかけています。
 ポンペイウスは三回も凱旋行進を許された幸運な男でしたが、なかでも前六一年に行われた三回目の凱旋行進は途方もなく豪華絢爛たるものでした。その様子はプリニウスの記述によって伝えられています。その行進では、次から次へと宝石や黄金でできた宝物などが運ばれてきました。宝石でできた幅三フィート長さ四フィートもある賭博盤、三台の黄金の臥台、ミネルヴァ、マルス、アポロンの黄金像がそれぞれ三体、その他、説明もできないような豪華な品々。そして三三の真珠の冠、真珠で現されたポンペイウスの像。この像は、美しい毛髪が額から後方へなびいているたいへん見事な像、つまり「全世界で畏敬されているあの気品のある頭の像」であったのです。
 ここでプリニウスの堪忍袋の緒が切れたたようです。

 この凱旋行進では、勝ったのは「浪費」、負けたのは「簡素耐乏」である、この凱旋をほんとうに祝賀しているのは法外な「浪費」なのだ、と彼は言います。そして「大ポンペイウスよ、真珠のように金(かね)のかかるものは、女性だけに意味があるのだ。君はそんな真珠を身につけることはできないし、またつけてはいけないのだ。それなのに、身につけるどころか、それで自分の像までつくってしまった。そんなことが君の価値を誇示する方法だと考えるなんて・・・。君がピレネー山脈の頂上にたてた戦勝記念碑こそが、それに勝る君自身の像ではなかったのか」

 プリニウスの言っていることを補足すると、ポンペイウスは若い頃すでにマグヌス(偉大な)という添え名を貰っていたので大ポンペイウスと呼ばれていました。また彼は、ヒスパニアでの戦功を誇ってピレネー山脈の頂上に戦勝記念碑を作らせたのです。前述のように、そもそもプリニウスは真珠自体の浪費を快く思っていなかったので、このポンペイウスの厚顔さは許すことができなかったのでしょう。そして言います。「このような真珠の見せびらかしは、むしろ容赦ない天の怒りの前兆と考えるべきだろうが、そうでなくても、大きな醜い恥辱であった。東方のきらびやかさで、いともまがまがしく現された胴体のない顔は、そのときすでに紛れもなく、ある意味ををもっていたのだ」

 「ある意味をもっていた」というのは、後年ポンペイウスがカエサルと争って敗れ、エジプトで殺害されたことを示唆しています。そして彼はポンペイウスのそのような贅沢が、のち、カエサルがスリッパに真珠を縫いつけたこととか、ネロが真珠で飾った俳優の仮面や旅行馬車などをつくったことなど、そのような浪費を容認しやすくしてしまったと非難しているのです。先ほどのように、ヘラクレスやリーベル・パテルの業績にも匹敵すると称揚していただけに、プリニウスの怒りと失望には大きいものがあります。


 

  
 






クレオパトラの真珠(1) 無二の真珠

2009-12-13 16:42:41 | 日記
 クレオパトラがアントニウスの目の前で、真珠を酢に溶かして飲み干したというエピソードは、プリニウスの『博物誌』によって広く知られています。伝聞によるこの話、したがって多分にあいまいさが残るのですが、その話をなぜ彼は伝えたのでしょうか。なにか目的があったのでしょうか。

 このエピソードは、水棲動物、甲殻類の説明に付随してでてきます。古代の人たちが、海底深くに生きる真珠貝や真珠の生誕について、想像力を働かせる以外なかったのもやむをえないことでしょう。プリニウスの記述によれば、真珠はカキとあまり違わない貝が、空からの露を受けて懐胎してできるのです。その露の性質に応じた真珠が生まれます。雷鳴があるとその貝が驚いて急に閉じるので、中空の虚ろな真珠が出来るが、これは真珠の流産なのです。適当な季節に食物を十分摂っていると生まれる真珠も大きいのです。裏側が平らで片側がない真珠はタンバリン真珠と呼ばれます。

 真珠はこのような神秘的な生誕説に包まれ、また命がけの危険な海中での採集、そして遠いインドやアラビアの果てからの危険な海路・陸路の輸送、それらが真珠の価値を否が応でも高めることになりました。おまけに真珠は模造品が作れません。プリニウスは宝石の模造については語っていますが、真珠の模造については無言です。不可能だったのでしょう。一世紀のギリシアの哲学者アポロニオスが、紅海沿岸の住民が貝に真珠を作らせる方法を知っていたことを示唆するような文を残していますが、どこまで信憑性があるか分かりません(『西洋事物起源』による)。

 真珠の魅力は古代も現代も同じです。輝き、大きさ、丸さ、滑らかさ、重さにあると考えられていました。ラテン語ではマルガリタ、ギリシアでも同じです。女性の名に用いられます。英語でも古くはマーガライトといい、今のパールもラテン語から来たようです。パールに似た名のつく魚がいろいろあるようです。
 このように一般にはマルガリタなのですが、次のようにも言われています。真珠には同じものが二つとないのでユニオと呼ぶのだと。そう呼ぶのはローマだけだそうです。ユニオは単一とか一個という意味があります。同じ真珠は二つとない無二のものであり、そのような稀な性質をもっている、だからそう呼ぶのだといいます。しかしおそらく、特に大きく高価な真珠についていうのでしょう。たとえばクレオパトラの真珠のような。

 この高価な真珠も、ローマの平和が確立し、海上交通も陸上交通も安全になった一世紀の後半のころには大量の真珠が流入し、貧乏人でも欲しがるほど一般化していたらしいのです。そんなに上等のものではないにしても、二つも三つも耳につけて、その触れ合う音を自慢したりしました。カスタネットのようだからクロタリアと呼びました。ローマでは、カスタネットのことをクロタルムというそうです。また、真珠を上着のいたるところにつけるだけでは満足せず、それを踏みつけなければ承知できない、事実「この無二(ユニオ)の宝石を踏んで歩いている」、つまり靴の紐にまでつけて歩いていると非難しています。
 こんな世界が人類史上にあったのですね。

 彼は、真珠は完全にぜいたく品であり、自己満足以外に何の役にも立たない、虚栄のためのものでしかないというのです。しかもそれは危険を冒して深い海から採ってくるものです。ローマは、そんな贅沢品に莫大な金を支払っているのです。「真珠は主としてインド洋が送ってくれる」とプリニウスは表現していますが、真珠だけではありません、コショウ、各種香料なども送られてきます。今日、インドで大量のローマ時代の金貨が発見されていることはよく知られています。彼はローマの富がインドに奪われると警告を発しました。
 その金はどこからもたらされるのでしょうか。もう戦勝の賠償金などは期待できません。主としてローマ帝国内の金鉱山で採掘されています。その膨大な発掘作業によって自然が破壊される・・・彼はそのように考えたに相違ありません。