静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

名をとどむ

2010-03-28 18:49:36 | 日記
 サーヴァント

 日本国憲法第十五条は公務員について次のように定めている。
 「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」
 その原案になったマッカーサー草案第十四条は次の通り。
 
 all public officials are servants of the whole community and not of any special groups. 
 
 それを日本政府は、はじめ次のように訳した。
 「一切ノ公務員ハ全社会ノ奴僕ニシテ如何ナル団体ノ奴僕ニモアラス」(外務省仮訳)。

 サーヴァント(servant)を辞典で見ると次の通り。
 ①a召使い、雇い人、下男、下女、 b従業員、事務員、社員 c奴隷 ②家来、従者、奉仕者 ③公務員、官吏、役人、 ④役に立つもの(研究社:大英和辞典)。

 だからservantを「奴僕」と訳しても誤訳ではない。だがのちに「奉仕者」と改められた。理由は知らない。

 servantがserveする人、つまり、仕える人の意であり、serveがラテン語のservus(奴隷)に由来することは明らかである。
 公務員は奉仕者だから国民全体に仕え、国民全体は公務員に奉仕してもらう、これが日本国憲法の予定する解釈である。最近はあまり聞かれなくなったが、以前はよく「公僕」といわれた。
 
 アメリカと日本の「公務員」の違いは明瞭であった。アメリカ合衆国の公務員はサーヴァントだったのだろうが、明治憲法下の日本では、天皇の官吏であり臣民統治機構の構成員であり、臣民の上にたって支配していた。

 古代ローマにおいて、とくに帝政期において、広大な領地を統治するため官僚群が必要となった。その官僚には奴隷か奴隷上がり、つまり解放奴隷がなることが普通で、彼らはやがて帝国統治の実権を握るほどになった。文字通り、servusがservantという官僚になったのである。
 身分や階級が低いからといって相手を軽蔑したり蔑んだりしてはいけない。奴隷も人間である、どんな人間も尊重しなければならない、そのようなことをキケロはいっていた。

 古代社会において、教師の多くが奴隷であった。皇帝マルクス・アウレリウスは奴隷であったエピクテートスを師と仰いだ。
 日本国憲法では公務員である教師は、国民全体、つまり生徒の奉仕者である。よく、教師と生徒は対等なのに「仰げば尊し 師の恩」を押し付けると非難する人がいる。それを言うなら「奉仕者(サーヴァント)のくせにずうずうしい」と批判すべきだろう。


 名をとどめる

 宮崎市定『現代語訳 論語』を読んで驚いた。むかし学校で習った解釈とまるで違う解釈がいくつもある。その一例。「子曰く、吾れ十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず」のところを、「三十歳で自信を得、四十歳でこわいものがなくなり」としている。普通、「三十で独り立ちができ、四十で迷わなくなる」などと訳す。

 一方、唱歌の『仰げば尊し』の「身を立て」を多くは「独り立ちする」「社会に出て成功する」とか「出世する」などと解釈することが多い。孔子の「三十にして立つ」の立つの一般的解釈と同じような解釈も見られる。
 だが、孔子のこの一節は、彼の学問に取り組んできたその姿勢を言っているのであって、世間的な成功とか出世を語っているのではあるまい。

 司馬遷は『史記』列伝、伯夷列伝第一において、孔子の言葉を引用しながら、人間の本質的な捉え方について考察した。そこのところを宮崎市定はとても分かりやすい言葉で説明している。少し長くなるが拝借しよう。

 「中国人の考え方によると、名は身体の上に貼り付けられた名札ではない。正に人間その物なのだ。すくなくも人間その物と不可分離で、名と本質とをわけるべきではない。何となれば、人が人を知るのは、その肉体を知るのでなくてその名によってのみ知ることが出来るからだ。特に歴史的人間においては名が総てである。人はその名によって不滅たりうる。司馬遷はこのような意味において、堅く人間の不滅を信じた」(宮崎市定『史記を語る』。

 これは古代ギリシア人の思想に良く似ていると思う。神と違って死すべき定めにある人間がどうしたら永世を得られるか。アテナイなどの市民にとってそれは名をあげそれを後世に残すことであった。オリンピア競技で優勝して月桂冠を戴くことはその一つである。彼らはアゴラで知恵と雄弁を競いあった。富を得るためではない、栄誉をえるためである。労働をしていたのではその力量は養われないし、機会もない。それは奴隷の仕事である。貧乏はむしろ誇りである。哲学者ディオゲネスは樽の中に住んで誇りを失わず、名を残した。

 中学時代、王彦章(おうげんしょう)の「豹死留皮、人死留名」という言葉を習った。普通日本では「虎は死して皮を残し(留め)、人は死して名を留む(残す)などという。中学の先生はなんら解説しなかった。読めばわかる。説明など要らない。この言葉自体が、それぞれの生徒の胸にいろいろな形で沈んでゆくだろう。

 卒業式の季節は終わり、入学式の季節がやってくる。卒業の日を懐かしく思い出せる人は幸せだ。卒業式には生徒たちがいちばん歌いたい歌を唱うのがいい。


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